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「お兄ちゃん、今度の週末はどこにも行かないの?」
「どこかー?」
「だから、ほら、サーキットとか・・・。」

仕事から帰り少し遅い夕飯を食べていたところにフラフラと現れた妹の
その彼女の予想もしなかった台詞に、兄は熱でも出たかと手を伸ばした。
すぐに「熱なんかないよ!」と振り払われてしまったが。

「どうしたんだよ?お前からそんな話するなんて。」
「べ、別に。だってお兄ちゃん、いっつもどこか行ってるじゃん。だから今週も行くのかなって・・・。」
「いつもは行ってねーよ、金ないからな。今週はお休み。」
「えーっ。」
「何だよ、えーって。」

兄はご飯をパクパクと口に運びながら、怪訝そうな顔をして妹を見る。
そしてやっと何かを思い出したように目をぱっと輝かせ、その直後ニヤリと意地悪く笑った。

「ああ、分かった。あいつだな、須藤京一。あいつに会いたいんだろー。」
「ち、違うよ!」
「あれ、違うんだー?」
「違うって!何で私がそんな・・・。」
「そっか、違うのかぁ。じゃあ別にあいつの情報は知りたくないよな。」
「え?情報?」
「そう、須藤京一のホヤホヤの情報。」

兄はさらに笑みを深くし、「食後のコーヒーが飲みたいなー。」などと言う。
ここで素直にコーヒーを入れれば自分があの男のことを気にしていることをはっきり認めることになる。そう考えるとすごく悔しいが、実際に気になっているのだから仕方がない。ここは正直になって彼の情報を手に入れることにしよう。
はため息を一つ吐き、コーヒーメーカーをセットする。

「・・・で、何よ、あの人の情報って。」
「まあ、そう慌てるなって。」

そんなお決まりの台詞を吐きつつ、兄は優雅にコーヒーを飲む。
不満そうに口を尖らせる妹を見て、また少し意地悪そうに笑った。

「あいつ、栃木や茨城じゃ有名らしいぜ。」
「は?」
「今は日光の方で走り屋のチーム作ってるらしいんだけどな、実はあの東堂塾出身らしい。」
「東堂塾?」
「何だよ、忘れちゃったのか?」

兄は「有名だろ。」と呆れたようなため息をつく。
そう言うのなら話は聞いたことがあるのだろうか。記憶を巡らすけれど思い出せずは首を傾げる。

「栃木の方でさ、ショップのオーナーが仕切ってるとか言うメチャクチャ速い走り屋の集団だよ。ほら、お前も見たことあるだろ、前連れてったサーキットでダントツに速いヤツいたじゃん、白のインテグラ。あいつとか東堂塾。」
「・・・ふーん。」

そう言えば見た気がする。
確かに速くて、そのときはインパクトがあって、「すごいね。」って兄達と話してた気がする。
そのときは、あの黒い車よりも目を惹きつけていた。
だけど何でだろう、黒い車の方がずっと忘れられない。
でも忘れられないのは車だけじゃない。
あの、煙草をふかし、ゆっくり缶コーヒーを傾ける姿。
自分で自分が分からず難しい表情をするに、兄は構わず続けた。

「でさ、最近は群馬の方に行ってはバトルしかけてるとかって話。」
「群馬?」
「そう。最後は赤城に行くんじゃないかって噂だぞ。」
「赤城?なんで?」

そう聞くと、また兄は呆れたような顔をする。

「赤城って言えば、あの高橋涼介がいるだろー!この世界で知らないヤツはモグリだな!」
「・・・私は別に走り屋じゃないもん。」
「すっごいぞー、あいつは。他の走り屋とは一線を画してるよ。お前は見たことなかったっけ?たまにサーキットとかにも出没するんだけどな。」
「知らない。」
「そっか。でも、さすがに高橋涼介相手じゃ、あいつも無理なんじゃないのかなぁ。」
「そんな速いんだ。」
「もう、速いってモンじゃないって。走り自体すっげーから。」

まるで自分の仲間か何かであるかのように嬉しそうに話す兄。
何となく面白くないは、小さく口を尖らせた。
別にそう言う人に興味はないけど―――あの人の言っていた「大物」と言うのはその人のことなのだろうか。
そのために今、たくさん走ってるんだろうか。

「気になるよなー、そのバトル。」
「う、うーん。」

だんだん話題が逸れて行く兄を放って、は自分の部屋に戻る。
日光か・・・あの辺は一人で行ったことないし、よく分からないな・・・。
って、別に会いに行こうと思ってるわけじゃないけど!約束はしたし!ちゃんと、乗せてくれるって。
首を横に振り、自分を必死に説得する。
けれど週末、やはりどうしても落ち着かなくて大人しく家にいることが出来ない。
車を出すけど、そんな日に限って友達は誰もつかまらなかった。

どうしよう。
たまには少し遠出でもしてみようかな。

当てもなく走っていると、目の前に高速道路の入り口標識が見えてくる。
普段はちょっとした移動にしか自分の車を使わないから、一人で高速に乗ることなんて滅多にない。
よし、行ってみよう。
いったんそう決心すると、何か新しいことが始めるような気がしてきて、わくわくしてきた。
東京方面に行っても道も何もよく分からないし、ゴチャゴチャしてそうだし、来た方へ向かおう。
左側に、高崎○キロと言う表示を見て、ふと、赤城と言う地名が頭に浮かぶ。

あの須藤京一と言う男が、最後に行くだろうと言っていた場所。

赤城って、確か高崎の少し先だよね。
もちろん、ここから日帰りでいけない距離じゃない。
昔子供の頃に家族旅行で行った気がする。景色が綺麗で沼とかもあった。

は今日の目的地を決めた。



まだ少し紅葉には早かったせいか、休日の割には車の通りは少ない。
昼だから、ものすごい速さで近づいてきて性格悪く煽ってくる車もいない。
一台だけ、白い車があっという間に抜かして行ったけれど。
はのんびりと上っていく。

ふと思い立って、兄達の真似をして見る。
横に乗って見ているだけだとさも簡単そうに楽しそうに走っているだけに見えるけど、いざ自分が同じようにカーブを綺麗に曲がろうとしても、全然上手くいかない。アウトインアウトとか。兄達から耳にたこが出来るくらい聞いている単語だけど、自分で実践しようとすると、そう簡単には行かないものなのだと分かった。

「うえー、何か変。」

まるっきり素人のでも、自分のラインがおかしいことは分かる。
頭に思い描いているように走れなくて気持ち悪い。
―――でも、ちょっと楽しい。
あ、今のはちょっとよかったかも。
そんなふうに走っていると、あっと言う間に山頂に着いてしまった。

大沼の近くの駐車場に車を止め外に出ると、いつもと違う空気に触れた気がして、自分がすごく遠くに来た気がして、気持ちがいい。
実際、こんな遠くまで一人で来たのは初めてだ。
ちょっと遠出をすると言うときは、いつも兄か友達が一緒だった。

「たまには、こう言うのもいいなー。」

は思い切り深呼吸。
缶ジュースを買い、自分の車の側でそれを飲みながらボーっとしていると、一台の白い車が駐車場に入ってきた。
さっき自分を抜かして行ったものとは違う。もっとごつい感じの車。
あの人の車に似てるなぁ。
そんなことを思いながら、その、大きなエンジン音の切れた車を眺める。
そしてその助手席から降りてくる男の顔を見て―――自分の目を疑った。

え!?

あの人に似ている?
いや、気のせいだって。まさかそんな。
あの男と違う箇所を必死に見つけようと、はその男をじっと見つめる。
その痛いくらいの視線に男の方も気付き、の方を見た。
一瞬驚いた顔を見せ、またすぐいつもの仏頂面に戻り、ズカズカと彼女の方へと大股で歩いてくる。
運転席から降りてきた男が、「どうしたんだ?」と声をかけても、その足は止まらない。
そして、じっと自分を見上げたままのを前に立ち止まった。

「―――あんたとこんな所で会うとはな。」
「ほ、本物?」

その低くてちょっと怖い声を聞いても、はまだ信じられない。
いくら何でもそんな偶然ってあるのだろうか。
いくら会いたいと思っていたからって。

―――会いたい?

いや、別に会いたいと思ってたわけじゃ・・・。
慌てて心の中で言い訳するが、そんなものは京一には聞こえるはずもなく、キョトンとした顔のに苦笑いする。

「まるで幽霊か何かにでも会ったようじゃねぇか。」
「だって・・・まだ幽霊の方が現実味あるよ。先週は埼玉で会ったのに。」

まあ確かにな、とさらに京一は苦笑い。
「誰だよそいつ、知り合いか?」と後ろから近づいてくる連れの男に、「ああ、まあな。」と適当に返事をし、
「清次、ちょっと缶コーヒーでも買って来い。」と向こうに追いやってしまった。

「今日はちょっとこっちに用があったんだ。あんたは?この辺に住んでんのか?」
「ううん、ちょっと観光。」
「一人でか?」
「う・・・いいじゃん、一人でも。」
「寂しい奴だな。」
「余計なお世話ですー!」

は手をグーにして、京一をパンチ。
もちろん、そんなものは笑われながら軽く掴まれてしまったけれど。
その手が思った以上に大きくて、固くて、でも温かくて、は慌てて手を引っ込める。
ちょっと勿体なかったかな。
離れた直後にそんなことを思ったけれど、それも慌ててすぐに打ち消した。

「じ、自分だって男同士で来てるじゃない。それだって十分寂しいと思うけど。」
「そうか?結構楽しいけどな。」

の憎まれ口も、あの皮肉げな笑みと共にかわされる。
悔しくて口を曲げれば、今度は少し可笑しそうに笑みを漏らす。
たった一週間しか経っていないのに、その顔が妙に懐かしくて、ほっとする。

連れの男が缶コーヒーを持って戻ってきた。
京一にその一本を渡しながらも、のことが気になるらしくジロジロと彼女の方を見るその男は、京一と同じくらい大きくてゴツい。

うわー、こっちも怖そうな人だなぁ。

ただでさえ厳つい顔つきなのに、訝しげにを見下ろすものだから、さらには緊張してしまう。
その様子に京一は苦笑するしかない。

「お前は先に車に戻ってろ、すぐ行くから。」
「え、ああ・・・。」

そう言われてしまってはそこにとどまるわけにも行かず、一人とぼとぼと自分の車の方へ戻っていく。
その力ない様子が、ちょっと哀愁を誘う。

「あの・・・仲いいんだね。」
「ん、ああ。かれこれ二年近い付き合いだからな。」

二年―――長いような短いような。
白い車に凭れかかり、煙草をプカプカふかし始める男を眺めながら、は首を傾げる。

「これはあんたの車か。」
「え?」

振り返ると、京一がじっとの車を見ていた。

「とても車が好きじゃないって女が乗る車じゃねぇな。」
「そ、それはお兄ちゃんが勝手に色んな所から変なもの貰ってきてくっつけちゃうからだよ!」

青のロードスターには、街乗りにはあまり必要でないものが色々とついていた。
そのせいで、うっかり変な所に行ってしまうとタチの悪いのに煽られたりするので、正直は迷惑しているのだ。

「でもちゃんと乗ってるわけだ。」
「だって、これしかないし。ムチャクチャ乗り心地悪いけど。ゴツゴツして。」

女友達なんか乗せると、「どっか壊れてるんじゃない?」と必ず言われる。
それもかなり迷惑していた。

「まさか、今日もここに走りに来たのか。」
「違いますって。」
「ここは優男が仕切ってて統制はとれてるようだけどな、あんまり初心者向けじゃねぇんじゃねぇか。」
「だから、違いますってば!」

必死に否定するを見て、京一が笑う。
実はからかわれているのだと言うことに気が付いて、は頬を膨らませた。

この人も性格悪いよっ。

でも、そう思いながらも、やっぱりその笑った顔がちょっと好きだ。
ずっと見ていたいけど、じっと見つめるわけにもいかない。
は京一から目を逸らし、ふうと深呼吸した。

「あの―――もしかして。ここでバトルとか、するの?」

思い切って聞いてみると、京一の笑いが止まる。
少し目を大きくしたかと思うと、次の瞬間には皮肉っぽい口元の歪み。

「さすが走り屋は情報が速いな。」
「だから走り屋じゃありませんってば。」

また拳を握って力いっぱい否定すると、京一にもさっきの笑みが戻る。
缶コーヒーを飲み干し、軽く腕を組む。
この格好も結構好きだ―――と暢気に思ってしまう自分にちょっと呆れる

「―――今度秋名に行って、その次にな。」
「何か、すごい速い人とするの?」
「さすがに優男の名前までは知らねぇか。」
「いや、お兄ちゃんから聞いたんだけど、忘れちゃった。」

がそう言うと、京一は感心したような呆れたような顔をして、クッと笑いを堪えた。

「あんたは大物だな。」

やっぱりそんな有名な人なのか。
でも、そんなにインパクトのあるような変な名前じゃなかった気がする。
その本人を見たわけでも、すごいと言われる走りを見たわけでもないんだから、覚えられなくても変じゃないと思う。
そんな言い訳を心の中でするけれど、堪えられずに結局笑い出してしまった京一を前にしては、顔を赤くするだけ。

「そんな笑わなくても・・・。」
「そうだな。」

一しきり笑って何とかおさまった京一は空になった缶を弄び、隣りに広がる水面を見て、目を細めた。
そして、大きく息を吐き、の方に向き直る。

「今日あんたに会えてよかった気がするよ。」
「え?」
「―――じゃあな。」

え?え?え?

呆然としたままのを残し、あっと言う間に京一は白い車の方へと戻っていく。
その京一の靴の鳴らすジャリと言う石の音に、白い車に寄りかかって煙草を吸っていた男が振り返った。

「行くぞ。」
「あ、ああ。」

助手席のドアを開け、さっさと乗り込む京一を追いかけて、その男も慌てて車に乗り込み、エンジンをかける。
ブオン、と言う大きな音。

「なあ、京一、あいつ誰なんだ?」

好奇心を抑えきれない男は、まだ青のロードスターの横に佇んでいるを、チラリとドアミラー越しに見る。
でも京一は小さく笑うだけ。

「この辺の走り屋か?」
「本人は力いっぱい否定してたぜ。」
「あんな車に乗っててかぁ?変な女だな!」
「―――そうだな。」

変な女だ。

京一もチラとを見て笑い、そう小さく呟いた。