balance 4
赤城でのバトルの日は、から聞きに行くまでもなく兄の方から教えてくれた。
「今日も須藤京一達、赤城に行って走りこんでるって話だぞ。」
兄達は前日の夜から既にテンションが上がっているらしい。
の隣りの部屋で携帯でそんな会話をしているのが聞こえてくる。
別に自分がバトルするわけじゃないのにな。
「お兄ちゃん、声が大きい・・・。」
そう言いながら煩そうに耳を塞ぐも、実はそわそわと落ち着かなかった。
正直、気になって仕方なくて、今日も赤城まで見に行きたいくらいだ。
でも一人で行く勇気はないし、兄に連れて行ってくれと頼むのもちょっと嫌だ。
早く明日になって欲しい。
明日が過ぎて欲しい。
何で、こんなに明日のバトルが気になるんだろう。
ベッドの上で膝を抱えて座り込み、ふと、今さらながらそんな疑問を自分にぶつける。
別に、自分は走り屋の中で有名な高橋涼介―――あの後、彼について兄から煩いくらいに説明を受けた―――の、もしかしたら最後になるかもしれないと言うバトルを見たい、と言うわけではない。
あの須藤京一よりも速いかもしれないと聞いて、少しは気にならないことはないけれど。
勝つんだろうか。
負けるんだろうか。
あの黒い車が負けるなんて想像がつかない。
もちろん、世の中にはすごく速い人達が沢山いると言うのは知っているけれど、自分の目に焼きついているあの車が、他の車に抜かされたりするなんて、どうしても想像が出来なかった。
隣りでは、まだ兄が興奮気味に電話をしている。
「うるさい・・・。」
はゴロリと寝転がり、布団を頭まで被る。
バトルが気になるんじゃなくて―――きっと、あの車に乗りたいだけなんだ。
そう無理やり結論付ける。
でも、どうしてそんなにあの車に乗りたいのか、それについては考えずに寝てしまった。
「今日はきっとギャラリーもいっぱい出るからな!早めに出るぞ。」
「はぁい。」
休日なんて走りに行く日以外はいつも昼過ぎまで寝ている兄が、次の日はやたらと早起きだった。
そう言うも、夕方まで用事のない休日の割りには早起きで。
午前中に兄妹揃って朝食をとっている姿に、母親は雹でも降るんじゃないかと心配する。
陽が傾きかけた頃に、は化粧ポーチを引っ張り出す。
いや、別に、深い意味はなくて。
ほら、やっぱり外に出かけるにはそれなりに見られる顔にしておかなきゃいけないし。
あ、会える、なんて思ってないけど。
もし誰か知ってる人にでも会って、ひどい顔だったらヤだもんな。
普段と大して変わらない化粧をしているのに、鏡の中の自分に、そうやって必死に説明する。
そしてそんなおかしな自分に気が付いて、クロゼットからは、わざと着古した服を取り出した。
「何かお前、化粧気合い入ってないか?」
「・・・そんなことないよ!」
既に居間でスタンバイしていた兄が、からかい半分で妹を見る。
「まあいいけどなぁ。」と白々しく言いながら、に右手を差し出した。
「なに?」
「キー。」
「は?」
「お前の車で行くぞ。」
「はぁ!?何で?」
「お前の車の方が場所取らなそうじゃん。」
もう既に決定事項らしい。早く寄越せと手をヒラヒラさせる。
まあ、特別反対する理由もない。
「お前運転してくか?」
「やだよ!そんな所!」
は急いで自分の車のキーを兄に渡した。
どうやら兄の話は大げさなものではなかったらしい。
赤城にはバトルが始まる時間の大分前に着いたのに、既に多くの人が集まっていた。
それでも何とか麓に駐車するスペースを見つけ、そこに車を滑り込ませる。
「すげーなぁ。予想以上だな。」
車を降り、感心したようにそのギャラリー達を眺める兄。
こんな真っ暗な峠道、一体どこからこれだけの人が集まってきたのだろう。
いつも兄に連れられていくサーキットなどとは、違う雰囲気に、は戸惑い緊張する。
夜、と言うだけで、そこは全く別世界のように感じてしまう。
ざわざわと揺れる木々の葉。
それが静かに渦巻いている興奮を、より大きくしている気がする。
ガードレールに腰掛けてバトルを待つけれど、その時間がなかなか進まない。
かと思うと、あっと言う間に過ぎていたりする。
人も増えてくる。
「あ、あれが高橋兄弟の車だぞ!」
興奮していつもより大きくなっている兄の声も、周りの歓声に負けている。
高橋兄弟って何?
いつもなら当然浮かんでくるそんな疑問も、だんだん緊張で頭の痺れてきたの口から出てこない。
ゴクリと唾を飲み干す。けど、喉の渇きはおさまらない。
「来たぞ!須藤京一だ!」
目の前を、あの黒い車が走り抜けていく。
手の先は汗で冷たくなって―――喉は渇いて。
は自分がおかしくなってしまいそうで、ぎゅ、と目を強く瞑った。
暫くすると上から何台かの車が下りてきて、黄色い車と、あの先週須藤京一が助手席に乗っていた白い車が道に並べられた。
あの車―――あの人もやっぱり走り屋だったんだ。
車の形状には無頓着なでも、ボンネットに大きくロゴの入った車ぐらいは覚えている。
そしてその車から降りてきた長髪の男を見て、確認するように一人こっそり頷いた。
「高橋啓介も速いけどな。今回は完全な前座だよなぁ。」
隣りで兄達が、またの知らない名前を出して何か話をしている。
随分失礼な話だな、とも思ったけれど、実際自身もこの後の京一のバトルばかりが気になって仕方がない。
二台の車が猛然とダッシュし、その姿が見えなくなっても無線や携帯を使って大声でバトルの経過を教えてくれる人はいるが、その声などの耳には殆ど入っていなかった。
ただ、黄色い車の方が勝って、「さすが高橋啓介だな!」と周りの人間の多くがはしゃいでいたのだけは覚えているが。
でも、そんな楽しげな雰囲気も、次に始まるバトルを前にしてあっという間に消し飛んでしまう。
「いよいよだな。」
兄だけじゃなくて、そこにいる大多数の人間が、固唾を呑んで見守る。
今、上ではどんな状況なのか、それを知る手段はレッドサンズと言うチームの無線から入ってくる声しかなくて、もどかしい。
さっきまでだって、これ以上はないというくらい喉が渇いていたというのに、さらにの喉が渇く。
飲み下す唾もないくらい。
「なあ、、お前はやっぱりあいつを応援するんだろ、須藤京一。」
「・・・え?」
今さらなことを聞いてくる兄。
しかし、そう改めて聞かれて、は戸惑った。
応援する―――うん、確かに、あの人には負けて欲しくないような気はするけど―――でも―――。
はカラカラになった口を何とか開く。
「応援って言うか・・・そう言うのともちょっと違う。」
「・・・ふーん?」
「ただ、あの人が誰かに負けるって言うのが想像つかないだけ。」
スタートした、と言う無線が入り、峠中は一気に緊張に包まれた。
そこにいる人の殆どが、レッドサンズの高橋涼介を応援していた。
地元の赤城なのだから、それは当たり前のことなのかもしれない。
スタートして高橋涼介が頭を取ったと聞いて皆が歓声を上げ、途中須藤京一に抜かれたと聞いてどよめいた。
もちろん、は全く逆で、スタートしたときに後ろになったと聞いて密かに不安になり、途中で抜いたと聞いて心の中でコッソリと喜んでいた。
二台の車のタイヤのスキール音が響く。
そんな長い時間ではないはずなのに、その音がすぐ傍まで近付いてくるまで、果てしなく長い気がした。
達のいる場所は、ゴール地点から数百メートル上った所。
近くに立っていた人から聞いた情報だと、まだ、京一の方が前だった。
このまま、ここを通るんだろうか。
は高橋涼介がどんな人かなんて知らない。
もちろん、この数日嫌になるくらい兄達からそのすごさについて説明されたけれど、実際は目にした事がない。
見たことがあるのは、須藤京一の走りだけだ。
そんな彼女にとっては、京一の方が先にゴールするのが至極当然のような気がしていた。
それでも、絡み合う二台の車の音に、心臓の音はどんどん大きくなる。
あの人が負けるなんて想像がつかない。
でも、その想像のつかないことが、目の前で起こった。
近付いてくるスキール音。
上からだんだんと歓声が下に降りてきて、否が応にも気分が高まる。
まだ、あの人が前なの?
そんなことを思いながら車の現れる方向を見つめていたけれど、いざその車が現れると、今まで見たことのないようなそのスピードに、は何も考えられなくなった。
この前ジムカーナで黒い車を見たとき、これ以上速く走ることなんて出来るわけない、と思っていた。
でも、今目の前で、そんな考えが吹き飛ぶようなスピードで二台の車が走り去っていく。
何故か、不意に、あの皮肉っぽい笑みが頭に浮かぶ。
自分でも何だかよく分からない―――衝撃のようなものを受けた。
その直後、高橋涼介が、兄曰く「あの人にしか出来ない」ような抜かし方をして、先にゴールした。
須藤京一は負けた。
でも、その前の衝撃が大きくて、にはバトルの結果自体はあまり耳に入ってこなかった。
「やっぱ、さすがだなぁ。」
下に止めてある車へと戻る途中も、興奮冷めやらない兄達は、あれこれと話している。
きっとは自分の応援していた男が負けて落ち込んでいるだろうと思い、兄は敢えて彼女に話を振らなかった。
実際、彼女はずっと無言だ。
だが、本当は別に落ち込んでいると言うのではないのだけれど。
麓に着き、自分の車が見えてくる。
バトルが始まる前はその周りに沢山の車が止まっていたが、どうやら殆ど帰ってしまったらしい。
青のロードスターの傍には、兄の友達の車と、黒い車。
黒い車?
「おい、あれ・・・。」
兄がその名前を口にする前に、は、無意識にその車に駆け寄る。
黒い車、ついさっき、自分の目の前を走り抜けて行って、自分の中に何かを、残して行った車だった。
そして、その横に凭れかかっているのは、あの、皮肉げな笑みを浮かべた男。
「よう。」
「な、なんで・・・。」
「ここに着いたとき見たことのある車が止まってたからな。まさかと思ったんだが。」
そう言って、京一はの車を指差す。
その車の今日のドライバーは兄だが。
もし兄の車で来ていたとしたら、きっと京一はの来ていることには気付かなかっただろう。
そう考えると―――おかしな感じだ。
何となく、今日は会ってはいけないような気もしていたけれど、の車で行こうと言った兄に、少し感謝した。
「あの・・・。」
は何か言おうと思って口を開く。
けれど、こう言うときは何と言っていいのだろうか。
必死に考えをめぐらすの表情が複雑で、それを見た京一は小さく苦笑した。
でも、自分も彼女に向かって何を言ったらいいのかなんて分からない。
ただ、青のロードスターを見つけて、それがバトルの後も止まっていて、そのまま帰る気になれなかった。
「せっかくこの前あんたに元気を貰った気がしたんだけどな。」
「え?」
「このザマだ。」
そう言って、さっき自分が全開で走ったコースを遠くに眺める。
口元に僅かに浮かんでいる笑みは、自嘲的、と言うよりは、寧ろ何かを吹っ切れたような、すっきりとした感じだった。
その表情に、もまたいつもの自分を取り戻していく。
「あの・・・約束は、覚えてる?」
「約束って―――あの、ジムカーナのときに言ったヤツか。」
「そう。」
こんなふうに負けた俺の車にまだ乗りたいと思うのか、とばかりに京一は肩を竦めて見せる。
同情なのだろうか?
の真意を量りかねて、京一は目を細め、彼女を見る。
こいつは、ほんとに分かんねぇな。
真剣な目をして自分を見上げてくるに、思わず京一は苦笑う。
「忘れてねぇよ。」
「本当?」
じゃあ、いつ乗せてくれる?
そう続けようと思ったとき、兄がの肩をポンと叩く。
「じゃ、、俺達は先帰るからな。」
「・・・はっ!?」
振り返ればニンマリ笑顔の兄が、自分の車のキーをチャリチャリ手で弄んでいる。
返してくれるのかと思いそれに手を伸ばすと、ヒョイとかわされた。
「ちゃんとお前の愛車は俺が家まで乗って帰ってやるから。」
「はぁっ!?」
「あ、すんません、須藤さん、妹のことよろしく頼みます。」
こんな夜遅くに自分の妹を男と二人きりにする兄と言うのは、どうなんだ?
そんな疑問を抱く余裕もなく、兄はさっさと車に乗り込んでしまう。
「別に、今日は帰って来なくてもいいぞー。」
なんて、とんでもない台詞を残して。
「ちょ、ちょっと待ってよ、お兄ちゃん!!」
慌てて助手席に乗り込もうと追いかけると、そうはさせるかとばかりに兄はエンジンかけるなりダッシュした。
いつもそれくらい機敏に走ればいいのに。
そんなツッコミをしたくなる。
取り残されて呆然とする。
それを少し後ろで傍観する京一。
「あんたも大物だと思ったが、あんたの兄貴も大物だな。」
「・・・・・・。」
京一の皮肉には返す言葉もない。
どうしよう・・・これでこの人が車に乗せてくれないって言ったらどうするのよ?
って言うか、そもそもこの人の車、群馬ナンバーじゃない。
こんなバトルの後に、わざわざ私を家に送ってくれなんて面倒なこと、頼めるわけないじゃないのー!!
お兄ちゃんのバカ!!
心の中でどんなに兄を罵倒してもそんなものは本人に届きっこない。
今頃車の中で、自分はいいことをした、なんて満足気に笑っているに違いない。
は深い深いため息をつき、ソロリと後ろの京一を振り返った。
「えーっと・・・。」
冷たい汗を握りながら、何とお願いしようかと、は必死に考える。
でも、いい台詞が思い浮かぶ前に、京一はクルリと体の向きを変えて自分の車のドアを開けてしまった。
「―――行くぞ。」
「えっ。」
「俺の横に乗りたいんだろう。今約束果たしてやる。」
「ええっ!」
「ええ、って何だ。ここに置き去りにされてぇのか?」
「ちちち違います!!」
「じゃあ、さっさと乗れ。」
そう言って、車のキーを回す。
まだ熱の冷め切らないエンジンが、また回り出す。
本当に置いていかれそうな気がして、は慌ててその車に乗り込む。
「なんなら、赤城のコース往復してやろうか。」
「え、遠慮しますっ。」
兄の車とも、もちろん自分の車とも違う車内。
何となく、バトル前の緊張が少しだけ戻ってくる気がする。
う、うわー。
ほんとにこの車に乗れるとは正直思っていなかった。
隣りに乗ってみたら、どんな感じなんだろう?
そんなことを色々と想像してみたりしていたが、実際に乗ってしまうと、落ち着いて感想を抱く余裕がない。
「そんなに緊張することねぇだろうが。」
思わず京一がそう苦笑するくらい、はガチガチ。
「別に、取って食いやしねぇよ。」
「へっ!?」
そんな冗談とも本気とも取れないような京一の台詞も、今のの耳にはうまく届きやしない。
しょうがねぇな、と笑いながら、京一は車を発進させた。
「今日はゴール地点の近くで見てたのか?」
「うん。最後のカーブの・・・じゃなくて、コーナーの、ちょっと手前。」
「よりによって、そんな所で見てたのか。」
そこはもちろん、京一があの高橋涼介に抜かされた場所。
もちろん結果なんて誰でも知ることだけど、自分の負ける瞬間を見られた、と言うのは何とも苦々しい思いだ。
の前ではかっこつけていたい、と言う気持ちが、多少なりともあったのかもしれない。
けれど京一自身深くは考えず、ただ小さく舌打ちする。
「何か―――びっくりした。と言うより、ショック、だった。」
「ああ、俺も正直あいつがあんなふうに抜いて行くとは思わなかったよ。」
「いや、そうじゃなくて・・・抜いたとか、抜かれた、とか、あんまり関係ないんだ。」
あのとき感じたことを素直に言おうとして口から出た台詞が、ちょっとおかしいことに気付き「ご、ごめんなさい。」と慌てて謝る。
京一はただ黙って次の言葉を待つ。
「そうじゃなくて・・・、自分の目の前を走り抜けてく感じが。すごい、目に焼きついてるの。」
この、黒い車が。
さっきまでのバトルが嘘のように、静かに、道を走る。
京一は、そのの言葉を体に沁み込ませるように、暫く黙ったままだった。
やっぱり、変なこと言っちゃったかな。
あまりの長い時間の沈黙に、思わずは不安になったけれど。
漸く引っかかった赤信号に車を止め、京一は前を見たまま、口元を緩ませる。
負けた車が印象に残っているなんて、そりゃ普通嫌味だろう―――普通は。
だけど、こいつは―――
「やっぱり、あんたは大したもんだな。」
「え?」
分からなくて首を傾げるをチラリと見ても、京一は黙ったまま。
ちょっとだけ、笑う。
やっぱり、今日あんたを待っててよかったよ。
そう言おうとして、やっぱり、やめた。
そしてまた週末が来る。
走りに行かない兄は、相変わらず布団の中。
でも、隣りのガタガタと言う物音に、ボンヤリと目が覚める。
「ちょっとお兄ちゃん、いい加減起きたらー?」
自分が週末忙しくなったからって、余計なお世話だ。
部屋の入口に立っている妹の、明らかにデート仕様の服装を見て、心の中でブツブツと呟く。
最近すっかり相手にされなくなってしまった兄は、ちょっと寂しい。
「じゃあ、出かけてくるねー。」
「はいはい。」
どうせ今日もあの男とデートだろう。
近くの公園の駐車場で待ち合わせて、そこからあの男の車でどこかに出かける。
それが大体のお決まりパターンらしい。
この前はあの黒い車でサーキットに現れて驚いた。
をサーキットに連れて行くのは自分の役だと思っていたのに。
今日は普通にスカートを穿いていたから、普通にどこかデートか。
「あんな強面の弟って―――怖ぇなぁ。」
軽やかに階段を駆け下りる足音を聞きつつ、そんな、気の早いことを考えた。