忘れもの 1




寝返りを打ち、シーツの肌触りのよさに思わず頬を緩めつつ。もぞもぞと手足を動かす。
半分顔を埋めている布団も、程よい重さで心地よい。
大きな枕も硬すぎず柔らかすぎず、やさしく包み込む。
高級なホテルのベッドのよう。
ただホテルと違うのは、シーツが石鹸の香りではなく、どこかで覚えのあるような、懐かしいような、落ち着く香り。
布団の中ですぅと息を吸い込む。
この匂い、何だっけ―――って、言うか、「ここ」、どこだっけ!?

自分の問いに一気に眠気が去り、は勢いよく布団を跳ね除けた。
昨夜の記憶が、ない。
いや、途中までは何となく覚えているのだけれど、どうやって家に戻ったのか分からない。

―――どうやら、自分の家には戻れていなかったらしい。

そこは、自分の寝室の倍以上の広さがあった。
まだぼんやりと霞んでいた目を必死にこすり、近くにあった大きな書棚に目をやれば。医学関連らしきタイトルの本、と、不釣合いな感じの車や工学関連の本。
ここはどこか、と問うまでもない。
昨日記憶が途切れるまで、正確にはタクシーの中で寝てしまうまで一緒にいた「あの人」の部屋だろう。
しかし、今、その姿は見当たらない。

とんだ失態をおかしてしまった。
何で?
今までこんなことなかったのに。
よりによって、「あの人」の前で。
今まで直接話すこと機会はごくごく僅かだったけれど、その優しそうな笑顔に、少なからず憧れを抱いていた相手。
いや、そういう人だったからこそ、舞い上がってしまったのだろうか?

「どうしよう・・・」

さっきの体を起こした勢いのよさはどこへやら、はのろのろとした動きでベッドから出て自分の服装とベッドを整える。
服は昨夜のままだ。
上着は見当たらないが、皺にならないようにと、どこかに掛けておいてくれているのかもしれない。
自分の格好にほっとしながら、逆に、その何もなかったであろう結果に不安にもなる。
ただもう呆れられてしまったのかもしれない。

起こしてくれればよかったのに。
何でグッスリ寝てしまったんだろう。
あんなに沢山のお酒を勧めてくれなければよかったのに。
何で勧められるままに飲んでしまったんだろう。

責任転嫁を試みようとしたが、悉く失敗する。
やってしまったことは、もう取り消すことは出来ない。
は深く深くため息をつく。
このままコッソリ帰ってしまいたかったが、幾らなんでもそういうわけにも行かないだろう。
何かを決意するように息を吸い込み、ドアの方へと向かった。

ドアノブに手をかけようとした時、タイミングよくノックの音。
反射的に「はい」と返事をしかけて、慌てて口を押さえた。
もし「あの人」ではない他の人だったら、後で迷惑をかけてしまうことになるかもしれない。

「―――さん?」

ドアの向こうから、低く通る声。
この部屋の主を再確認し、すぐそこの窓からでも今すぐ飛び出してしまいたい衝動を必死に堪え、は小さく返事をした。
静かにドアが開く。
はどんな顔をすればいいのか分からず、また相手の顔を見るのも怖くて、その姿が見えるか見えないかの絶妙なタイミングで、ガバッと勢いよく頭を下げた。

「ごめんなさい!あの、私、すごい迷惑を・・・」

ふわりとコーヒーの香り。

「そろそろ起きる頃なかと思って持ってきたんだ。ちょうどよかったかな。」

恐る恐る顔を上げると、高橋涼介がコーヒーカップを二つ載せたトレーを手にして立っていた。
その、いつもと変わらないように見える笑顔には特にネガティブな感情は窺えない。
けれど呆れているかどうかまでは分からない。面と向かってそんな表情を見せないだけかもしれない。
涼介はの一つくらい年上だったと思うが、その歳の差以上に大人に見える。

「あの―――」

さらに謝罪の言葉を続けようとするを遮って、涼介が部屋に入る。

「気分は悪くない?俺の方こそ無理に飲ませすぎてしまって悪かったね。」
「いえ、そんな、全然平気です。あの―――すぐ帰りますから。」
「なぜ?」
「え、なぜって・・・えっと・・・」

まさかここで理由を聞かれるとは思わなかったは思わず口ごもる。
全く理解できないとばかりに、じっとを見つめる涼介。
分からないわけはないのに。

「今日は何か用事があるの?」
「いえ、特にないですけど・・・」
「じゃあ、そんなに急いで帰らなくてもいいだろう?」

ベッド脇にあるサイドテーブルにトレーを置き、二つのカップを手に取る。
そしてにベッドに腰掛けるよう促し、片方のカップを彼女に手渡した。
戸惑いながらも、そこに座る彼女を見届けた後、涼介もデスクチェアを引き寄せて腰を下ろした。
コーヒーを一口飲んでから、少しの間を見て、そしてクスリと笑う。

「そんなにおどおどしなくてもいいだろ。」
「だって、その・・・何か恥ずかしいことしたんじゃないかって・・・」
「恥ずかしいって言うことは、じゃあ、昨夜の『あの』ことを覚えてるの?」

見に覚えのないは、その涼介の台詞に急に頭がグルグルと回りだす。
しかし次の瞬間、「冗談だよ。何もない。」と笑いながら返された。

からかわれたことに気づき、小さく口を尖らせる
その様子に目を細め、そしてため息をコーヒーと共に飲み込んだ。

―――何か、あればよかったんだけど、な。

自分の予定通りに事を運んでおきながら、結局最後に躊躇してしまった。
らしくない。
そんなことを企んだ自分が「らしくない」のか、それとも最後の最後で紳士であるかのような対応をしたことが「らしくない」のか。

俯いてコーヒーを飲むを前に、後悔と安堵の感情が入り混じる。