忘れもの 4




コーヒーの苦味に、目だけではなくて頭も覚めてくる。
昨夜、タクシーの中で眠くて眠くて仕方なく、そのまま意識が途切れてしまった。
その後、体が揺られるような心地よさだけは、朧気に覚えている。
後の記憶は、シーツの肌触りだけだ。

お酒を飲みすぎると、あんなに眠くなる性質だとは、自分でも知らなかった。
いくらお酒に詳しくないとは言っても、カクテル類のアルコール度数が高いことくらいは知っている。
知っていたけど―――

ピアノ教室の前で、その白い車を見かけると何となく嬉しくて―――どきどきした。
挨拶をすると優しい笑顔を返してくれて、緒美を交えて二三会話を交わす。
それだけで元気が出てくる気がして、その後のレッスンでピアノの先生にも褒められて、我ながら現金だなと笑った。

街中で、似た感じの白い車を見かけると、つい足が止まる。
でも、昨日、あの場所でばったり会うとは思ってもいなかったので、一瞬誰だか分からなかった。
何度もそんな偶然を待ち望んでいながら、いざとなるとそういうものである。
ほんの少しでいいから、一緒にいて話をしたいと思った。
もう少しだけ、一緒にいたいと思った。
もう少し―――

の気分とは正反対に、空から見え空には雲ひとつない。
その穏やかな空気は、ガラス越しにも伝わってくる。
木の葉が風に揺れるのが見える。
は目を瞑り、こっそりと深く息を吸い込んだ。

「あの、涼介さん。」

今一番不安なこと。
はストレートに聞くことにした。




カップを両手で持ち、こくりこくりと、ゆっくりとコーヒーを飲む。
その様子を見ていた涼介と目が合うと、「美味しいですね」と言って少し恥ずかしそうに笑う。
昨夜のように、お酒を飲んでピンク色になった肌も綺麗だけど、自分を見て微かに赤らめる頬も、やはり、好きだと思った。

の視線の先を追うと、深い青い空。
時折、風で揺れる木の葉が、窓の端に覗く。

「また、教室の前で会った時も今までのようにお話してもいいですか?」

あまりに真剣な表情で自分の名を呼ぶので、何事かとカップを膝の上において構えていたら、そんな台詞。
当たり前のことだった。
当たり前のこと過ぎて―――少し腹が立った。
それだけで満足できるはずもない。
また、偶然を待つなんて。

さん」

涼介も、わざと深刻そうな声を出す。
が不安そうな目を向ける。

「・・・何ですか?」

涼介は椅子から立ち上がり、カップをトレーの上に戻す。
のカップもゆっくりと自分の手の中に移し、トレーに戻した。
一体どんな台詞を想像しているのか、の瞳は更に不安そうに揺れている。
そして、自分の前に立つ男を見上げる。
頬にかかった髪を退けると、一瞬ぴくりと動いた。

気がつけば、耳まで真っ赤になっている。
数時間前は、同じ状況で全く何の反応もなかったのに。

「昨日、忘れていたことがあるんだ。」

涼介は小さく笑い、その耳元に、昨日の夜と同じ台詞と囁いた。