忘れもの 2




彼女は、緒美と同じピアノ教室に通う大学生だった。
涼介の一歳下だと緒美に聞いたことがあったが、その可愛らしさはどちらかと言うと緒美の方に歳が近い印象を与える。
何度か従妹を教室まで車で送って行った時、同じ時間帯にレッスンがある彼女と会うことがあった。
会った、と言っても車に乗ったままで二言三言交わす程度だが。
緒美に向けていた笑顔をそのまま涼介に向けて、明るく挨拶をして来る彼女の姿は、何故かずっと目で追いたくなり、教室のあるビルに入るまで見届けてしまう。
そして、その姿が見えなくなると、何となく、何かが欠けたような気分になる。
しかし、その「何か」を埋めようと積極的に動いたことはなかった。
今までは。

昨夜、駅前の通りで、友人との食事の帰りだという彼女にバッタリ会った。
涼介の方は、大学の同じクラスの人達との「交流会」と言う名の飲み会を、一次会だけで抜けてきたところだった。

普段、それこそピアノ教室の前で会うくらいで、他に互いの生活に何の接点もなかったので、彼女の方もまさかそんな所で涼介に声を掛けられるとは思っていなかったのだろう。
後ろを振り返り、一瞬誰だか分からなかった様で、笑顔がぎこちない。
そして少しの間の後に涼介だと気づき、「ごめんなさい、全然気づかなくて・・・」と両手で押さえた頬は羞恥の為かお酒の為か、ほんんの少し赤かった。

「車に乗っていない涼介さんて、初めてですね」

いつもの笑顔に変わる。
涼介は、それをもう少し見ていなくなる。

「よかったら、どこかで少し話でも―――」

もう少し、気の利いた言葉は出てこないものなのか。
自分の台詞に心の中で苦笑する。
そんな涼介の心の声など聞こえるはずもなく、はニコリと頷いた。

「ちょっと飲み足りなかったんだ。付き合ってもらえるかな。」

飲み会を早々に切り上げてきたとは思えない男の台詞。
我ながら白々しいと再び苦笑い。
別に話をするだけなら、すぐそこに見えるコーヒーショップでもいいはずだ。

「涼介さんて、お酒強そうですよね。」

男の下心を全く理解していないようなの反応。
もし本当に、僅かでも疑っていないのだとしたら、それはそれで男としては複雑である。
信用されているのか。
男扱いされていないのか。
男がそんなことを考えているなんて思いもよらない―――なんてこと、ないだろう?

「どうかしましたか?」
「―――いや、なんでもない。」

複雑な心情が表に出ていたのか、は不安そうな声を出す。
どちらにしろ―――意地悪がしたくなる。

「俺の知っている店でいいかな。」

そう言って涼介はの背中に手をやり、駅とは反対の方向へと歩き出した。



カウンターと、二、三のテーブル席しかない、その小さな店は弟やごく親しい友人と何度か来たことのある場所だった。
涼介達よりも少し年齢層が上の客が多く、ジャズの響きと静かな会話が邪魔にならず心地よい。
奥のテーブル席に通され、は目の前に灯されたキャンドルを眺めながら、「なんか、素敵なお店ですね」とどこか現実離れした声色で言う。

「私、あまりお酒を飲まないから、こういうお店って来たことなくて」
「友達とは?」
「友達とお酒って言ったら、普通の居酒屋ですよ。」
「じゃあ―――彼氏とか。」
「そんな人いません。涼介さんは彼女とこういう所に来るんですね。」
「ここに女の子を連れてきたのは初めてだよ。」

これは本当のことだ。
今は特にそういう女性がいないので連れて来ようがないし、そういう関係じゃない女性と二人でお酒を飲む状況は面倒なこともあって、なるべく避けてきた。
の疑いの視線を避けて、テーブルの上に置かれていたドリンクリストを手に取る。

さんは、何にする?」
「えーっと・・・私は出来ればオレンジジュースとか・・・」
「お酒はあまり飲まないって、全然だめなの?」
「いえ、少しは飲めますけど。でも、だから、居酒屋とかばかりで、お酒の名前とかよく分からないんです。」
「いつも大ナマとか?」
「中ナマです。」

真面目に即答して来る彼女が可笑しくて可愛い。
涼介は笑いを堪え、口に手をやる。

「じゃあ、まかせてもらっていい?」

ウェイターを呼び、のために口当たりのよいお酒を注文する。
運ばれてきたグラスの鮮やかな色に、小さく感嘆の声を上げ、そのアルコール度数が決して低くないことなど思いもよらないようだった。

「甘くて美味しいです。」
「そう。よかった。」

少しの罪悪感。
そして同時に―――ある種サディスティックな悦び。

俺はこんなに悪趣味だったか?
周囲からそう言われることは間々あったが、今まであまり自覚はしていなかった。
しかし目の前で、ほんの数口飲んだだけで顔を赤らめる彼女に、さらにお酒を勧める自分は、やはり趣味がいいとは言えないのかもしれない。

さっき道で偶然会ったときは、ただ、もう少し一緒にいたいと思っただけだった。
しかし―――この数十分の間で、それだけでは物足りなくなってきている。
何故だろう?
あまりに邪気のない表情をするからだろうか?
微かに湿った唇のせいだろうか?
今までにない近い距離で開くその声が、見に心地よいからか?

酔って潤んできた瞳が思った以上に―――そそるから、か。