忘れもの 3




先月の連休に行って来たという北海道の旅行の話を一通り終えると、は小さい欠伸を口で隠す。

「―――酔うと眠くなっちゃって。」

そんな告白を待つまでもなく、先ほどからの目は明らかに眠そうで瞼が重そうだった。
何杯目かのグラスは、あと数口分を残すだけ。
また欠伸を噛み殺す彼女。
うっすらと涙を浮かべる様子に涼介は思わず笑みを漏らし、そろそろ潮時なのだろうと店を出た。

出口の段差に足元がふらつき、は涼介の腕を掴む。
―――が、「ごめんなさいっ」と慌ててその手を離した。

「飲ませ過ぎちゃったね。」

まるでその気はなかったかのような台詞を吐き、彼女の体を自分の方へと引き戻す。
腰に手を回して更に引き寄せると、微かにシャンプーか香水の香りが鼻腔を擽った。
ちょっとあからさまだったかと彼女の反応を伺ったが、遠慮がちに涼介の腕を掴んで「まだ大丈夫だと思ったんですけど・・・」と項垂れるだけで、涼介の態度を訝る様子はない。

「家まで送るよ。」
「大丈夫です、一人で帰れます。」
「とてもそうは見えないけど。」

そんなことありません、と言う傍から眠そうに目をこすり、よろけまいと涼介の腕を掴む。
そしてまた慌てて放すのだ。

緒美の歳に近い印象を与える、と言うのは見た目だけではないらしい。
仕草だけでもなく―――今、隣りにいる男がどんなことを考えているかなど、何も想像していないに違いない。
涼介は自分がものすごい悪人のような気がして、その心の中の毒気の欠片をため息と共に吐き出した。
そのため息にも、はしゅんとした顔つきになる。
呆れられてる、とでも思ったのだろう。

「あの、私、本当に大丈夫ですから。」
「そんなことばかり言っていると、無理やり口塞ぐよ?」

などと言っても、は首を傾げて涼介を見上げるだけ。
そのキョトンとした様子に、また虐めたくなる衝動がむくむくと湧き上がる。
けれど、今その場で行動を移すのは理性で抑えた。
涼介もお酒の量は以上のはずだが、まだ思考を弱めるほどではない。
素面と変わらない―――とは言わないが、たぶん、この男はお酒が入っていなくても同じ行動は取れる。

大通りに出ると、案外簡単にタクシーを捉まえることが出来た。
を先に乗せ、続いて涼介も乗り込む。

「家は、どこ?」
「あ、えっと、S町の方です。」

ピアノ教室のある町名。
行き先を告げて、タクシーが動き出す。

「こんなに酔ったのは久しぶりです。」

そう言って両手で頬を包むの目は、店にいた時よりも更に眠そうだ。
こんな状況がそうそうあっては困る。
他の男に、今のような彼女を見せるなんて―――

「寝ててもいいよ。近くまで来たら起こすから。」
「いえ、大丈夫です。」

口では抵抗を見せたが、彼女の頭を自分の肩へと引き寄せると、やはり眠気には勝てなかったのか、すぐに寝息が聞こえ始めた。
酔うと眠くなるタイプ、とは言っても、ここまで見事なのも珍しくないか?
涼介の周りは、女性も含めてお酒に強い人間が多く、酔って変わると言っても陽気になったり、ケンタのように脱ぎ出したりするタイプばかりなので、飲んでいる最中からここまで眠そうにする人間は珍しかった。
そしてS町に入って軽く揺すっても起きる気配がない。
ここまで警戒されないのも珍しい。

ミラー越しにこちらの様子を窺っている運転手に、少し困ったような表情をして見せる。
実際には、困ってなどいないのだが。

「―――申し訳ないんですが」

涼介は、行き先の変更をお願いした。



いつものように、夜の高橋家はしんと静まり返っている。
ヘルパーが帰る時に点けて行く外灯だけが明るい。

玄関のドアを開けるとき等に、抱えていた体を下ろして自分に寄りかからせるようにすると、は少しだけ目を開ける。
けれど目が覚める様子は全くなく、気持ちよさそうに涼介の胸に頬を付けるのは無意識の行動らしい。
後で弟が帰ってきた時に何だかんだと言われるのも鬱陶しいので、の靴はそのまま、階段を上がる。
自室のベッドに彼女を横たえて、靴を脱がせた。

部屋の灯りの下の彼女の肌は、うっすらと赤い。

―――さん?」

身を屈めて名を呼ぶと、う・・・んと呻って寝返りを打ち、涼介の体を向けた。
服が皺にならないようにと、上着だけは何とか脱がせることに成功する。
その時、また微かなの香り。

この香りは―――嫌いじゃないな。

上着を脱いで少し楽になったのか、さっきよりも表情が緩んで見える。
再び仰向けに戻ったの、顔にかかった髪を手でゆっくりと除けて、もう一度、耳元に唇を寄せた。

―――おそって、いい?」

寝息のリズムを乱さない、低い、小さな声で囁く。
返事があるわけもない。
聞こえていても困る。

「さすがにいくら悪趣味でも―――寝ている女の子を犯すわけには、いかないよな。」

不穏な台詞も何のそので、相変わらず無邪気に気持ちよさそうに眠っている
すーすーと規則正しい音。
何だか、完全に毒気を抜かれてしまった気がする。

―――誤算、か?

確かに。
こんな彼女を可愛いと、もっと大切にしたいと思ってしまったのは、多少、予定外ではある。
これくらいは許されるだろう、と目の上にキスをして、そのまま部屋を出た。