irreparable mistake 1




その人は確かに入学式から強烈なインパクトのある人だった。

周囲の子たちは、中学の入学式よりは大人しかったと話していたけれど、外部入学の私から見ればその彼のパフォーマンスも、周囲から自然に沸き起こった跡部コールも、今まで経験したことのないものだった。
こんな派手な人、世の中に存在するもんなんだな。
そんなことを思って――それだけの存在。
遠い世界の人と言う感じがして、同じクラスなんだけれど今いち現実味が伴わないと言うか。
一年、二年と一緒のクラスなのに、殆ど口をきいたこともない。
たぶん、友達と一緒にすれ違いざまに数回挨拶をしただけ。

この前の席替えで隣りの席になって、漸くまともに会話するチャンス到来かと思ったけど、他の女の子に懇願されて譲ってしまった。
代わってもらったのは、窓際の後ろから二番目。
悪くない席。
ちょっと残念な気はしたけど、固執する理由がなかった。

「あの子に譲るくらいなら私と代わってくれればいいのに」

友達のクミが恨めしげに言って来る。
それならもっと早く言ってよと反論したけど、どちらにしろあの子の行動の素早さには敵わなかった気がする。
まあいいけどさ、ファンクラブに睨まれるのも面倒だし。
諦めの早いクミはそう言って、はぁと息を吐いた。

「でもさ、代わってもらった席も悪くないよね」
「ああ、うん。窓際だしね」
「そうじゃなくて!だって、忍足くんの前の席でしょ?」
「え、そうだっけ」

私は、新しい席順が書かれている黒板を見る。
すると確かに私の席の後ろには、クラスで跡部くんの次に人気があると言っても過言ではない、忍足くんの名前が書かれていた。
二年で初めて同じクラスになったけど、これまた殆ど会話をした記憶はない。
さんはいつも朝早いなぁ」とか、何度か彼の方から話しかけてくれたことがあったにも関わらず、「ああ、うん」とか素っ気ない返事しかせず、私が話を膨らませる努力をしなかったために、あっさり会話が終了してしまったのだ。

「その席代わって!」
「え、ダメだよ。そんな好き勝手代わってたら、くじ引きの意味ないじゃん」
「けちーっ」

ただでさえ、一回あの子と交換したのがばれて、学級委員の跡部くんは怒っているように見える。
これでまたクミと代わって、全部やり直しとかになったら、どれだけあの子に恨まれることやら。
――まあ、それは逆恨みな気はするけど。
とにかく、平穏に済ませたい。
私はクミの恨めしげな視線をやり過ごし、新しい席へと移動した。

「やっと近くの席になれたなぁ」

見た目クールなイメージがあったけど、実は結構調子がいい人なんだろうか。
既に新しい席に座って頬杖を突き、私を見上げて来る忍足くんに「はあ」と適当な返事を返す。

「わざわざ俺の近くになるために交換するなんて、いじましいことしてくれるやん?」

そんなわけないって分かってるくせに、そう言って冗談めかした笑い。
変な人だ。
私が思わず吹き出すと、さらに目を細めて笑う。
うん、悪い席じゃない気がする。
彼の前の席に腰を下ろし、そんなことを思った。




最初は、相変わらず私のせいで早々に会話が終了することが多かったけど、何故か根気強く忍足くんの方が話しかけてくれたので、数日後には大分会話が弾むようになった。

さんは人見知りさんなんやな」

自分のことをそんな風に思ったことはなかったけれど、忍足くんにニッコリ笑ってそう言われると、そんな気がしてくる。
私は「そうかな」と苦笑い半分照れ笑い半分。

「最初は全然喋ってくれへんし、クールビューティーって感じでちょい、とっつきにくい感じしたけど」
「は?クールビューティー?」

これまた聞いたことのないような表現に、私は思わず笑顔を引き攣らせる。
クラスの男子の間では、そんな評判やで?
そんな私を見て、可笑しそうに笑う忍足くん。

「素っ気ないさんもええけど、やっぱりこうやって喋ってくれる方がええなぁ」

今いち、調子がいいというか、得体のしれない彼が言うことを真に受けるのは危険だけど――本当にそう思われているのなら、ちょっとショックだ。
私って、そんなに素っ気ないだろうか。

「……私、そんなに冷たい感じかな」
「いや、冷たい感じはそんなせーへんけど、冷めてる印象はあるなぁ」
「え……そう?」
「たとえば、跡部が何しても、しらーってしとるやろ」
「それは……ちょっと周りのテンションについて行けないというか……。でも、忍足くんだって似たようなもんじゃない」
「俺はえぇんや。そう言うキャラやないし」
「どう言うキャラよ」
「せやな、敢えて言うんやったら、クールガイ?」
「……自分で言う人初めて見た」
「そうか?クールビューティーとクールガイって、結構お似合いやと思わん?」
「そう言うオチか」
「……いや、オチやないし」

当然のように、跡部くんは常にクラスの中心で。
うちのクラスの一体感は、確かに他の追随を許さないというか。
それに水を差すつもりは毛頭ないのだけど、どうしても皆と同じテンションで騒げないときがあった。
いつもクミが一緒の場所に引っ張り上げてくれようと頑張ってくれるんだけど――周りから見ると、白けてるように見られてるのか。
跡部くん本人にも、やっぱりそう見られてるのかな。
そんなことを思って、ふと彼の席の方に視線を向ける。
隣りの女の子の後ろ姿。その向こう。

――え?

一瞬、こちらを見ていたような気がして、私は思わず手をビクリと震わせる。
緩やかに逸らされる視線。
気のせい――気のせいだよね。きっと忍足くんを見ていたんだろう、仲がいいし。
自意識過剰になるまいと、必死にそう自分に言い聞かせる。
そっともう一度彼の方を見たけれど、もうこちらを向くことはなく、話しかけている女の子に何か相槌を打っていた。

やっぱり気のせいだ。
私はほっと息をつきながら、もう一度そう心の中で呟く。
でも何でだろう、あの碧い目が焼き付いたように頭から離れない。
その残像を振り払うことに必死で、隣りで何も言わず私を見ている忍足くんのことにまで意識が回っていなかった。

その数日後、跡部くんが隣りの席の女の子と付き合い始めたという噂を聞いた。




「ええー、やっぱりホントなのかなぁ」

私の机に突っ伏して、クミが今日何度目かの同じ台詞。
確かに、数日前とは二人の密着度は違う気がする。
そして何より、女の子の表情。
幸せそう――と言うよりも、どこか勝ち誇ったようでもある。
そんな風に見えてしまうのは、私の中にも僅かばかりの卑しい嫉妬心みたいなものがあるんだろうか。
そんな筋合いもないくせにと自分にツッコミを入れながら、思わず漏らすため息。

「あ、もちょっと悔しいんでしょ」
「悔しいわけないでしょ。何で私が悔しいのよ」

図星をさされたようで、私は慌てて反論する。
その間髪入れないタイミングが、余計クミを助長させるだけだと言うのに。

「あそこにいたのはかもしれないのに」
「……まあ確かに、席はあそこだったかもしれないけどね」
「せやなぁ。運命ってのは皮肉なモンやなぁ」

私たちの後ろから、忍足くんのからかいを含んだ声。
振り返ると、その台詞に同調するかのように口元に皮肉な笑みを浮かべてる。

「絶対ありえへん組み合わせやと思うとったんやけど」
「でも、サワイさんは美人だと思うよ。性格もハキハキしてて跡部くん好みなんじゃない?」
「へー、さん、跡部の好みなんか、よう知っとるな」

皮肉げな笑みから、今度は意地悪そうな笑み。
何か、今日の忍足くんはちょっと攻撃的に感じるのは、私の気のせいだろうか。
友達に彼女が出来て機嫌が悪い――なんてことは、ないだろう。
私は内心首を傾げつつ、クミと顔を見合わせる。

「とりあえず、ファンクラブとか怖そうだよねぇ?隣りの席ってだけで風当たり強そうだったじゃん?」
「そんなん、跡部が何とかするやろ。今までもそうやったし」
「やっぱりそうなんだぁ。いいなぁ」

クミがまた机に突っ伏して羨ましそうに彼らを見る。
幸せそうなサワイさん。
隣りの跡部くんは――何だかよく分からない。
何なんだろう、この、すっきりしない感じ。
別に私には関係のないことなのに。
クミのが伝染しちゃったのかな――なんて、人のせいにしてみる。

「――ありえへんわ」

もう一度忍足くんが呟いた台詞を、私はぼんやりと聞いた。




数日後、クミの嘆きもおさまりかけて、跡部くんたちの光景を見慣れて来た頃。
日直だった私が、放課後に職員室へ学級日誌を置きに行くと、運悪く――と言うべきか、担任の教師につかまって雑用を言いつけられてしまった。
部活にも入ってない私は、断る理由なんて「面倒くさい」くらいしかない。
……さっさと終わらせよう。
そう思って黙々と用を済ませているうちに、空にはモクモクとまっ黒な雲が立ち込めて来て。

「降り出さないうちに気を付けて帰れよ!」

そう言って教師に職員室から送り出された時には、もう遠くの方で雷が鳴り始めていた。
人使いが荒過ぎる。
渡り廊下を早足で通り過ぎながら、窓の向こうで微かに光る雷にビクビクしつつブツブツと文句を言う。
夕方ににわか雨があるかもしれないと朝のテレビで聞いていたけれど、きっと大丈夫だろうと傘を置いてきてしまった。
せめて傘くらい、先生に借りておけばよかったかな。
そんなことを思いながら、ガラリと勢いよく教室のドアを開ける。
こんな時間では誰もいるはずがないと思い込んでいた私は遠慮ない。
そして自分の席に向かおうとして――その場所に人影が見えて、思わず、悲鳴を上げそうになった。
その影が跡部くんであることに気づき、慌てて口を押さえる。

「あと……べ、くん」

何とか、その名前だけは喉から絞り出す。
跡部くんは何も言わず、窓際の壁に寄りかかり、黙ってこちらを見ている。
何だろう。
近づいちゃいけない。
本能がそう告げるのか、足が竦んだ様に動かない。
彼の背後で、うっすらと青白い光が射す。
そしてガラスにポツポツと雨粒が当たり始めた。

「――お人好しだな」

最初は控えめだった水滴が、徐々に大きな音を立て始める。
窓に打ち付けては流れ落ちる様子を眺めながら、跡部くんがゆっくりと口を開いた。

「どうせ生徒に言いつける用事なんて大したもんじゃねーんだ。雨が降る前に帰りたいって言えば、さっさと帰してもらえただろうに」

ハン、と笑いこちらに向き直る。
暗闇の中、その色なんて分かるはずもないのに、深い碧い目が雷の光に反射したような気がして、コクリと小さく唾を飲んだ。

「――どうしたんだよ。鞄はここだぜ?」

そう言って、彼が目の前にある私の鞄を顎でさす。
そんなこと分かってる。
私は彼の空気に引き込まれないようにと、睨むように彼を見て、ゆっくりと自分の机の方へと向かう。
その時――何でだろう?私は後ろ手にドアを閉めてしまっていた。
その行動を見て、跡部くんの目が少しだけ細められたような気がする。
私は何も考えず反射的にそうしてしまったのだけど――もしかしたら、自分でも気づかないうちに、何かを期待してしまっていたんだろうか?

バタバタと間断なくガラスに打ち付ける雨。
青白い閃光はますます鋭くなって、雷鳴は窓ガラスを震わせる。
でも、それらはすごく遠い場所で起きていることのようで、私は自分の心臓の音ばかりが耳に響いていた。
跡部くんは壁に寄りかかったまま、窓枠に手をかけ、動かずにじっと私の行動を見つめる。

自らは動く必要はない。
獲物が罠にかかるのをただ待てばいい。

彼の様子を、そんな風に見てしまうのは、きっとこの暗闇に包まれた教室と、時折射す閃光のせいで、自分の中の何かがおかしくなってしまってるんだ。
私は必死に自分を取り戻そうと拳を握り、足を引きずるように目的の場所へと近づく。
ほんの僅かな距離で、いつもなら数秒で辿り着くはずなのに、何でこんなに遠く感じるんだろう?

あと三歩。
あと二歩。
跡部くんは動かない。
私はほっとしつつ――どこかで落胆しながら手を伸ばす。
――でも、その手は鞄を掴むことはなかった。

その強い力は今まで経験したことがないもので、私は一瞬何が起きたのか分からなかった。
予期しない方向へと体が引っ張られて、目の前の景色がぐるりと変わる。
忽ちのうちに、跡部くんが身に着けている香水に包まれる。
訳が分からなくて混乱した私は、その香りに目眩がした。

逃げなきゃいけない。
頭の中でそんな言葉がガンガン響いているのに、まるで即効性の麻薬にでもやられたかのように身動きが出来ず――唇を塞がれた。
息が出来ない。
こんな強引で激しいキスなんか経験したこともなくて、私は訳も分からずもがいて酸素を求める。
そして何とか口を開くと、空気より先に舌が割り込んで来た。
抵抗の声を漏らして、自由だった片方の手で彼の胸を叩くけれど、彼の手が私の首の後ろにあって、逃れることを許さない。

なんで?
どうして?

疑問は頭の中を巡るけれど――分かっていたんじゃないかと、嘲笑う自分もいる。
こうなることを望んでいたんじゃないかと、蔑む自分がいる。
口内を尽く犯されて、今までに感じたことのないような感覚が自分の奥底の方に湧き上がり始める。
背中をつたう手の感触に、自分のものとは思えない声が漏れる。

舌を絡め取られ吸い上げられて、漸く解放された時には完全に体の力が抜けてしまって、自分だけでは立っていることが出来なくて。
跡部くんに凭れかかり、そのままずるずると床に跪く。
そんな私につられるように、彼も一緒に屈みこむ。
彼の頭上で、稲光が閃く。

たぶん、私が本気で抵抗すれば止めてくれたんだと思う。
もしかしたら、彼はそれを期待していたのかもしれない。

跡部くんが上着を脱ぎ、床に放る。
そしてその上に私を横たえる様を見て、ついさっきの強引な行動とは対照的な気がして、私は思わず笑いを零してしまった。
こんな状況で笑える自分にもびっくりだ。

「――余裕じゃねぇの」

掠れた声と、挑戦的な目。
私はゾクリと背筋を震わせる。

ありえへんやろ。

何故か不意に忍足くんの台詞が頭に浮かぶ。
そうだな、こんな私はあり得ない。
でも――これきりでも、いいや。
軽蔑されてもいい。
その辺の尻軽女と同じなのかと蔑まれても仕方ない。

「――

耳元で、跡部くんが囁くように言う。
名前を呼ぶのはズルイ。

ぎゅっと目を瞑った後、まだ首にかかっていたネクタイを引っ張り、今度は私から彼の唇を塞いだ。