irreparable mistake 2




一度だけで終わるのだろうと根拠もなく考えていたけれど、その関係はもう数か月に及んでいた。

さすがに教室で――と言うのは、リスクが高いので一度きりだったけれど。
でもその後殆どが部室だったり生徒会室だったりするのだから、大して変わらない気もする。

部活のない日は彼女と帰る。
それ以外の日は――私は図書館で宿題を済ませたり読書をしたりして時間を潰し、携帯に連絡があるまで待つ。
時折待たないで帰ってしまうことはあった。
図書館が閉館になるまで連絡がないこともあった。
それが普通なんだと思う。
けれど、彼の待つ部屋に向かう日の方が圧倒的に多かったような気がする。

部屋に入るなり組み敷かれて。
当然のことながら甘い言葉もなく二人とも鬱陶しそうに服を脱いで。

「――で?今日は何ラウンドまで行くんだ?」

そんな彼の冗談に笑って。

これは所謂、セフレ、と言うやつなんだろうか。
何で彼女がいるのに私を抱くの?
最初は何度か頭に浮かんだ問いは、いつの間にか完全に消え去ってしまっていた。
何で彼女がいる彼と、私は平気な顔をしてしてるの?
同じようにこの問いも頭から消し去った。

不自然な関係なのは分かってる。
別に大人な関係を気取るつもりなんて毛頭ない。
でも、どうしたらいいか分からなかった。
もう自分からこの関係を断ち切ることなんて出来なかった。

この前までまともに口をきいたこともなかったのに。
――今もまともに口なんてきいていないけど。




さ、最近、ちょっと変わったよね」

朝の始業前、英語の課題を写していたクミが脈絡もなく言った。
その突拍子のない友人の発言に、私は何と返答したらいいものか分からず視線を彷徨わせる。

「何だろう。綺麗になったのかなぁ?」
「なに、その自信なさげな感じ」

シャーペンを唇に当てて唸るクミに、私は一瞬ドキリとしながら苦笑いで誤魔化す。
さすがに自分が綺麗になったとは思わないけど。
何か、気づかないうちに変ってしまったのだろうかと不安に襲われる。

「――色っぽくなったんちゃう?」

そんな私の背後から、いつものように割り込んでくる声。
いつもなら即座に振り返るんだけど、その自分を見透かしたような言葉に、私はすぐに彼の方を見ることが出来なかった。

「あ、そうかなぁ?そう言われればそんな気がしてきた」
「二人とも冗談きついよ……」
「もしかして彼氏出来たとか言わないよね!まさか、ぬけがけ!?」
「そんなわけないじゃん」

苦笑いを浮かべてそんな台詞を口にすると、どこかがチクリと痛む。
何に対する痛みなのかよく分からないままシャツの胸元を掴むと、後ろでクスリと小さな笑い声が聞こえた気がした。
怖くて振り返ることが出来ない。
こんな罪悪感を抱くならやめてしまえばいいのに。
そんなこと出来ないくせに心の中でそう自分に毒づき、もう一度シャツを掴んで、放す。

予鈴が鳴り、クミがノートをしまって自分の席に戻ると、私はほっとして教科書を取り出した。
まだ少しざわつく教室。
本鈴が鳴る直前、後ろから小さく私の名前を呼ぶ声。

「――なあ、さん。今日の帰り時間ある?」
「え……」

今日はテニス部の部活がオフだから、跡部くんは彼女と帰る日だ。
クミとも特に約束はしていない。
戸惑いながら後ろを向くと、断ることを許さないような視線。
頬杖を突いたまま、にっこりと微笑ったけれど、やっぱりその視線は変わらない。

「話したいことあるんやけど、付き合うてくれる?」
「……」
「そんな怖い顔せんといて」

ほな、放課後な。
そう言って忍足くんがもう一度微笑うのと、本鈴が鳴るのが重なった。




「ほな、行こか」

帰りのHRが終わるや否や、忍足くんはそう言って廊下へと出た。
途中、まだ自分の席に残っていた跡部くんに軽く挨拶をして。
私も慌てて追いかければ、必然的に彼の前を通ることになる。
彼は隣りの彼女の方を向いていて私の方を見たかどうかは分からない。
私は俯き気味に、でもなるべく意識しないようにと彼の前を通り過ぎた。

「どこ行こか」

暫くして忍足くんがそう言って立ち止まった。
すたすたと歩いて行くものだから、てっきり行き先を決めているのかと思っていた。
私はちょっとびっくりして彼の顔を見上げる。

「静かな所ならどこでもええんやけど。さん、どこか知っとる?」
「……図書室、とか?」
「それはちょっと静か過ぎやな。せやなぁ……部室でも行こか」
「え……」
「今日はオフやし。部外者が入っても問題ないやろ」

ちょっとむさ苦しいかもしれへんけど。
忍足くんは笑うけど、何故か表情は今いち読めない。
なるべく過剰に反応しないように気を付けて、曖昧な笑みを浮かべたけれど不自然になったりしていないだろうか。
頭の中で必死に他の適当な場所を探す。
きっと冷静に考えれば沢山あるはずなのに、全然思い浮かばない。
私は小さく頭を横に振ったけど、忍足くんは気付かなかったのか、気付かないふりをしたのか、気にせずどんどん部室の方へと歩いて行ってしまった。

オフの日の部室は当然のように誰もおらず、忍足くんは電気を点けて中へと入る。

「――さんも入って」

入口の所で立ち止まっている私に、困ったような、安心させるような笑みを向けて、それでもなかなか動けないでいた私の背中に手を回し、中へと促す。
ドアは閉めたけれど、内鍵は締めなかった彼に、ちょっとほっとして息を漏らす。
私は何を怖がってるんだろう。
その後は抗わず、促されるまま、ソファに腰をおろした。

「――で」

向かいの机に寄りかかり、私を見下ろす忍足くん。
顔はいつものように穏やかなまま、首を少しだけ傾げる。

「俺の話って、予想付く?」

彼の問いに、私は真っ先に跡部くんのことが頭に浮かんだけど、それを振り払うように、ふるふると首を横に振った。
「そっか」と言って天井を見上げ、少しの間、沈黙が支配する。
次の言葉を、断罪の言葉を待つ私は、膝の上に乗せていた手を、ぎゅっと強く握る。
けど、彼の口から出てきた言葉は、全く予想外のものだった。

さん。俺と付き合わへん?」
「――え?」

この人は「あのこと」を知っているんじゃないの?
私をからかっているんだろうか?
訝しげな顔の私に、忍足くんは苦笑い。

「本当に予想しとらんかったって顔やな」
「だって、それは……」
「前からさんのこと、ええなぁと思っとったんやけど。気付かんかった?」

そんなことを言われて、信じられるわけがない。
首を横に振ると、忍足くんはまた「そっか」とため息交じりの声で言った。

「さっき、彼氏おらん言うとったやろ?なら俺と付き合わへん?」
「……」
「――好きな人でも、おるん?」

その言葉に、跡部くんの顔が浮かぶ。
好き?
違う。たぶん、一番好きになっちゃいけない人だ。
私はまた首を振る。

「俺のこと嫌い?」

今度は強くプルプルと横に振ると、忍足くんは少し目を細めた。

「なら、付き合うてみても、ええんちゃう?それとも他に駄目な理由でもあるん?」

そう言いながら、彼は壁際に並ぶロッカーへ視線を移す。
一番奥には「跡部」の文字。
並んで忍足くんの名前もある。

「――なんて、回りくどい言い方はやめよか」

少しつまらなそうな声を出し、再び彼がこちらを向く。
上がった口角は、僅かに歪んで見えたのは、自分自身の中にある後ろめたさのせいだけだろうか。

「跡部への、義理立て?」
「……っ」

やっぱり知っていたんだ。
そうだろうとは思ってたけど、改めて本人の口から聞くと、ガツンと、頭を殴られたような衝撃が走る。

「――なあ、さん。俺もそうそう人のこと言えた義理やないけどな。あいつ、彼女おんねんで?あいつのこと好きなん?奪いたいと思うとるん?ならしゃあない、諦めるわ」

きっと忍足くんは私の答えなんか分かっているはずだ。
別に奪いたいわけじゃない。
何でだろう、跡部くんに彼女と別れて欲しいと思ったことはなくて、彼が私を好きになってくれるなんて想像も出来なかった。

「分からないよ」
「なにが?」
「分からない……何で、跡部くんとのこと知ってるのに、付き合おうなんて――」

震える声をごまかそうと顔を伏せたけど、隣りに腰を下ろした忍足くんが覗き込んで来る。

「知ってるからやろ」

ギシリとスプリングの音がして、ソファが沈みこむ。

「勘違いせんといて?別にさんを救いたいとか思うとるわけやない。ただ――もう、ええやろ?」
「おしたり、くん」
「あいつとは終わりにして――俺にしとき?」

囁くように言い、躊躇いがちに私の髪に触れる忍足くんの手は悲しいほどに優しくて。
涙が零れるのを隠そうと俯いたけど、スカートに落ちて出来た小さな沁みは隠せなかった。
そっと撫でる彼の手が心地よくて、でも、ゆっくりと刺さる棘のような鈍い痛み。

「無理だよ……私、忍足くんのこと、利用したくない」
「好きなだけ利用すればええやん」

小さく首を振る私の動きを遮るように、抱きしめる。

「俺に――しとき」

もう一度、耳元で、少し苦しそうに言う忍足くん。
でも私は最後まで首を縦に振ることは出来なかった。