irreparable mistake 4
「まさか、あんなしょっぼい嘘、真に受けたりしてへんよな」
当たり前だ。
忍足の台詞に笑おうと思って、笑えない自分に驚いた。
二年になって何度目かの席替え。
漸くあいつと隣りの席になれたと思ったのに、代わりに座ったのは別の女だった。
「さんにどうしてもって言われちゃって」
あからさまな嘘に呆れる気も失せる。
続く台詞もどうせ嘘だろうと思いながらも――何か苦いものを飲み込んだような不快感に襲われた。
「さん、忍足くんが好きみたい」
忍足が面白がってよくあいつに話しかけているのは知っている。
それに対して、さして興味もなさそうに適当に返事をしているあいつのことも。
とても好きなようには見えない。
――けれど、この先どうなるかなんて分からない。
この女にあっさり譲るということは、つまり俺に対する関心なんてものは、これっぽっちもないんだろう。
席も遠く、ろくに会話もしない俺なんかよりも、近くの席でああやって親しく話しかける忍足を好きになる可能性が高いのは、馬鹿みたいに明らかだ。
何で俺は、あいつを好きになったんだろう。
高校入学式の朝、教室に行くと既にそいつは自分の席に座って前の席の女子と話をしていた。
何か色々話しかけてくる女子に、時折控えめな笑みを零す。
たまに机に肘を突き、指を交差させる。
別に何てことはない、彼女のそんな仕草の一つ一つが、気がつくと記憶の奥底に焼きついていた。
入学式に上がった壇上で、一人面食らったような顔をしているそいつの顔が目に入って内心苦笑した。
その後も、今いち周囲の「ノリ」についていけていない彼女を見て、どこかほっとしていて――どこか落胆していた。
同じクラスと言っても全く話す機会もない。
一年の間に、二回くらい帰り際に挨拶をしたくらいじゃなかっただろうか。
しかも、友達につられて、ついでのように。
適当に機会を見つけて話しかけるくらいのことは、俺からも出来たはずだった。
今まで、興味のある女に対してはそうしていた。
けれど、あいつには「自分」が通用しない気がして――呆れるくらいに臆病になっていた。
「自分、ほんっまにさんと話さないんやな」
二年で一緒のクラスになった忍足が、呆れたように言った。
「まー、確かに、とっつきにくい子やけどなぁ」
そう言うことじゃない。
否定しようかと思ったけれど、面倒でやめた。
その「とっつきにくい」彼女に対して、忍足はよく話しかけていた。
大概はあっさり二言三言で会話が終了しているみたいだったが。
そうやって俺の神経を逆なででもしているのか。
そう思ったけれど、本人曰く「俺が話してたら、跡部も一緒に話しやすいんやないか」と言うことらしい。
結局俺はその機会を一度も利用したことはなかったが。
利用する前に会話が終わっちまってるんだから仕方ない。
隣りになれば、嫌でも話す機会は出来る。
そんな俺の考えを裏付けるように、あの二人の距離は縮まって行った。
それは傍から見ても明らかで、不意に、この隣りに座っている女の言葉が蘇る。
「さん、忍足くんが好きみたい」
例えば、この女と席を代わらなかったとして、俺は今の忍足の位置に立てたのか?
いつも俺の行動を一歩下がって見ている。
考えれば考えるほど――嫌な結論にたどり着く。
付き合って欲しい、自分を好きじゃなくても構わない。
隣りの女にそう言われた時、馬鹿じゃねーのかと呆れた。
自分を好きにならないヤツと付き合って何が楽しいんだ。
俺はそんなのはお断りだ。
いつもなら言葉に出して、はっきりそう言っているだろう。
それなのに、俺は頭の中を巡っている何かから逃れたくて、自棄を起こした。
まさかこのとき、その後に自分がこいつと同じようなことをやらかすとは思いもよらずに。
生徒会室を出たときには、既に分厚い雲が空を覆っていた。
これは一雨来るな。
そんなことを思いながら教室に戻ると、一箇所だけ、机の上に鞄が置かれているのが目に入った。
だ。
誰の席か考えるまでもなかった。
そう言えば今日は日直だった。大方、担任に下らない用事でも言いつけられているんだろう。
要領がいいようで悪いと言うか、単にお人好しと言うか。
遠くで雷鳴が聞こえる。
――急に、手の先が痺れるような感覚に襲われる。
ここで待っていれば、あいつは戻ってくる、のか?
だが待っていて何を話す?
大変だったな、お疲れ様、とでも?
気を付けて帰れよと?
――言えるのか?
細い指と指が絡まる光景を思い出す。
陽の光にやや茶色く透ける髪。
隣りを通り過ぎた時に見た、長い睫毛。
柔らかそうな唇。
このまま帰った方がいい。
頭の中でそんな声が響く。
ズキリと痛みが走る。
そんな俺を嘲笑うように、一つの足音が近付いて来る。
「あと、べ、くん」
自分を見て、名前を呼ばれるだけで体が震える。
重症だ。
逃げろ。
抵抗しろよ。
いやだと、やめろと、拒んでくれ。
引き込まれそうな黒い瞳。
いつもは冷めた鈍い光を湛えているそれが、僅かに熱を帯びているのが分かる。
そんなものを見せられて――抑えがきくはずないだろう。
「跡部、自分、何しとんねん」
それはすぐに忍足にばれた。
こいつのそういう勘は本当に侮れない。
「ちゃんと好きって言うたんか?あの女とはもちろん別れんねんな?」
「……」
「好きやって、言うたよな?」
黙る俺に、念を押すように一音一音区切って言う忍足。
「――アホちゃうか」
冷やかな視線と共に吐き出された台詞。
自分でもそう思っていたから、何も言い返せやしなかった。
こんなのはガラじゃない。
目の前のこの男と違って、俺は今までこう言う割り切った関係なんてものを女に求めたことはなかった。
正直あんな風にあいつに手を出すなんて、自分の中で何かがおかしくなってたとしか思えない。
けれど一度それを味わってしまえば、もう手放すことは出来なかった。
そして、月日が経てば経つほど、心の方はどんどん置いてけぼりを喰らう。
大体、あいつの方は一体どう言うつもりなんだ?
「さんて、実はそう言うの平気なタイプやったんか?」
「――そんなことねぇよ」
あいつは初めてだった。
あまりに自然に受け入れるから、俺ももしかしてそうなのかと思ったけれど。
だから、ますます分からない。
普段の俺に対する態度は一切変わらない。つまり、口をきくことも稀。
彼女のことは全く口にしない。
そして毎日のように――体は重ねる。
俺は今まで付き合った女なんかよりも、あいつの体を一番知り尽くしている。
「自分が、一言、好きやって言えばええだけやないか」
そんな簡単な問題じゃない。
あいつに好きだと言えば――たぶん、すべてが崩壊する。
身体だけでも手に入れた。
何かを変えることで、それさえも失ってしまうのが、怖い。
何だ、結局俺はあの女と同じことをしているのか。
その事実に愕然とした。
「もうそろそろ、やめとき」
煮え切らない態度のままの俺に、最近ことあるごとにそう言うようになった忍足。
どうでもいい冗談は言うことはあっても、こちらに立ち入ったことを滅多に言わないあいつが、うるさいくらいに言う。
俺達を見ていられない。
その台詞は友人としての意見なのか、それとも他の意図があるのか。
「――景吾」
追い詰めて追い詰めて、何も考えられないようにしてこっちから求めれば、俺の名前を呼ぶ。
吐息混じりのあいつの声でその名前を呼ばれるだけでイキそうだった。
でも、一人になるとどうしようもない虚しさに襲われる。
その時は確かに自分のものだと思えるのに、一瞬後には手の届かない存在になる。
あの友達の前では、忍足の前では普通に声を出して笑うのに、何で俺の前では笑わない?
――笑えるわけ、ねーじゃねぇか。
何言ってんだよ、俺は。
はたと我に返って自分の図々しさに反吐が出そうになった。
遊ばれてる。あいつはそう思っているに決まってるじゃねぇか。
今頃そんな事実に気が付く。
もう――やめよう。
サワイとは別れて、あいつに本当のことを伝えよう。
今さら都合がいいと、拒絶されるだろう。
ほぼ確実に俺はあいつを失うんだろう。
そう思うと、心臓がギリギリと締め付けられるように痛む。
そんなのは嫌だと頭の奥で何かが叫ぶ。
「ほな、さん借りるで?」
一向に動こうとしないまま何日も過ぎた後。
こんな俺に業を煮やしたのか、単に本性を現したのか、放課後に俺の席の前まで来て忍足はそう言って意味ありげに微笑った。
そしてその後を、が早足で追いかける。
不自然に俯き、俺とは目を合わせようとせずに。
待てよ。行くな。
そう言ってその腕を掴もうと思ったけれど、俺は馬鹿みたいにその場から動けなかった。
忍足と付き合うのか?
忍足には好きだって言うのか?
あんなふうに――忍足の名前も、呼ぶのか?
目の前が真っ赤になる。
「景吾?」
タイミング悪く、隣りのサワイが俺の名前を呼ぶ。
なるほど、感情の抑えが効かなくなるって言うのはこう言うことか。
どこかで冷静にそんなことを考えながら、俺は、自分でもぞっとするような低い声で叫んでいた。
「気安く呼ぶんじゃねーよ」
勝手な言い分だ。
サワイは悪くない。
確かに最初下らない嘘はついたが、そんなのは大したことじゃなくて――ちゃんと対応してやれなかった俺の責任だ。
「――悪い、サワイ。もう終わりだ」
あんなに何か月も堂々めぐりを繰り返していたのに、終わる時はあっと言う間だ。
翌日、あいつが苦痛に顔を歪めるのを見て、そんなことを思った。
「俺の作戦勝ちやろ?」
「――どこが」
部室でニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべながら、忍足が言う。
本当に作戦だったのか?
あんなにむき出しにした感情が単なる作戦には思えねーけどな。
「でもビックリしたぜ!侑士が跡部に殴りかかるなんてさ」
「あんなん、ポーズや、ポーズ」
「……ポーズで、俺は口の中が切れたんだが」
「ま、終わりよければ全てよし、や」
無理やりまとめようとする忍足。
「よく言うぜ」と言う向日の台詞に、俺も内心同意した。
「今日もさん、待ってるんやろ?」
「……ああ」
「ええなー。あ、でも部室使うんは、ほどほどにしとき?」
無言で俺は忍足のケツを思い切り蹴っ飛ばし、部室を出た。
調子に乗ると、ロクなことを言わねぇ。
――でも、ああいう冗談を言えるのは――悪くない。
コートへ向かう途中、特別教室棟の最上階を見上げ、ちょっとだけ、笑う。
あいつは今日も図書室で待ってる。