irreparable mistake 3




図書室の閉室時間が迫っていた。

テニス部の部活が少し前に終わったのは、さっき窓から部員がコートの片づけをしていたのが見えたので知っている。
今日はもう連絡ないんだろうか。
机の上に出してあった携帯に、チラリと目を向ける。
はぁと吐くため息が、我ながらぎこちなく感じた。

いつもこうやって彼からの連絡を待つだけで、自分から呼び出したことはなかった。
別に呼び出すなと言われたわけではないのだけど、それが暗黙の了解のような気がしていた。
最後くらい、私から、メールしてみようか。

図書室に残っている生徒は、もう私一人だけ。
何となく、入口のドアの方に視線を向けた後、私は鞄に本を仕舞い始めた。
立ち上がり、最後に携帯を手に取る。
返事は――あるんだろうか。
私はカウンターに座っていた司書の先生に挨拶し、携帯を開いた。
別に、始まりと同じ場所を選ぼうと意識したわけではなかったのだけど、そこしか思いつかなかったので「教室にいます」と一言だけ。

この時間の本館では、生徒の姿は殆ど見ない。
通り過ぎる教室は悉く消灯されて真っ暗な状態。
それは自分の教室も例外じゃなく、私はドアを開けて電気を点けようとした。

「――呼び出しといて、遅ぇんだよ」

その時、教室の奥から声がして、まさかまだ来ているとは思っていなかったからびっくりして持っていた鞄を落としかけた。

「電気点けんじゃねーよ」

大きな声ではないけれど、相変わらずのやや乱暴な口調。
私がスイッチに手をかけたまま躊躇っていると、「電気なんか点けたら教師が来て話も出来ねぇんじゃねーの」ともっともらしい理由。
私は電気を点けるのを諦め、彼の方を向いた。
話。跡部くんは今「話」と言った。
つまり、私が呼び出した理由は見当ついていると言うことか。
コクンと、唾を飲み込む。

「――こっちに来い」

いつかの時のように窓際の壁に寄りかかり、手招きするわけでもなく、その目だけで自分の方へと促す跡部くん。
いつもならそんな言葉を待たず彼のもとへ近づくのだけど、今日はドアの側から離れなかった。
そんな私の様子に、跡部くんはフンと鼻を鳴らす。

「忍足に告られた途端、それか」

つまらない。
そんな顔をして目を背ける。

「……忍足くんが、話したの?」
「お前らの今日の態度見てれば分かんだよ。わざとらしく自然を装ってもバレバレだ」

だんだん彼の声に苛立ちが混ざり始める。
そしてこちらに近づいて来る彼の足音も、いつもより荒々しい。
自分の玩具が取られるのが悔しいのだろうか。
ふと思い浮かんだそんな自分の言葉に、虚しさが押し寄せる。

「もう――跡部くんとは、しない」

今日――いや、昨日の夜から心の中で何度も唱えて来た台詞を口にする。
言葉の威力はすごいらしい。
声に出して言うと、その重みのようなものが、ズシリと自分に圧し掛かる。
晴れやかさとは程遠い。
目の前が、ぐらぐらと揺らぎ始める。

「――そんなこと、出来んのかよ」

立ち止まり、吐き出される彼の低い声。

「……出来るよ」
「代わりに、あいつとやるってか?」

まるで、わざと私の神経を逆撫でするかのように、せせら笑う。
でも別に傷つきはしなかった。
それよりも――諦め、失望に近い。

「やらない。忍足くんとはしない」
「あいつだって男なんだから、付き合ってればいつか――」
「忍足くんとは、付き合わない」

暗がりの中、跡部くんの目が見開かれたのが分かる。

「勘違い、しないで。……別に、跡部くんのことが、好きなわけじゃ、ない」

何故だろう。そう言った後の方が、さっきの言葉を発した時以上に、足元がぐらつく。
息をしているはずなのに、空気が足りない。

「そんなことは――今さら言われなくても、分かってる」

ガタンと机が叩かれるような蹴られるような大きな音に目眩がして、私は倒れそうになるのを必死に堪える。
けれどそれは無駄な努力で、いつの間にかすぐ傍まで来ていた跡部くんにあっさりと床に押し倒されてしまった。
抵抗しようともがくけれど、何が何だか分からなくて、ただ無駄に手足をばたつかせているだけのようにも思えた。

「やだ――っ」

零れた涙は、跡部くんの行動に対するものだけじゃない。

「もう跡部くんとは――」

いきなり指を奥まで入れられ、痛みに一瞬息が出来なくなる。

「や、め……」

ボロボロと止めどなく落ち始める涙。
でも、そんなものを流さない彼の顔の方が泣きそうに見える。
ううん――それは気のせいだ。
私は目を閉じ、手で口を押さえて声と息を殺した。




「――おはようさん」

朝練を終えた忍足くんが教室に入って来る。
跡部くんと一緒のことが多いけれど、跡部くんの方は雑務でもあるのか忍足くんの方が先に教室に来ることもある。
今日も忍足くんは一人だった。

「おはよう」

私は小さく笑って挨拶を返す。
昨日あんなことがあったのに、こうやって平気な顔が出来てしまう自分は――最低だな。
忍足くんの目は何もかも見透かされそうで怖い。
私はすぐに前に向き直り、手元の文庫本に視線を落とす。
――その直後、後ろで大きな音がした。

驚いて振り返れば、一瞬前まで温和な顔をしていたはずの忍足くんが完全な無表情で立っていた。
後ろには椅子が倒れている。
シンと静まりかえった教室。
周りの子たちも、一体何ごとかと彼の方を見ている。

「――どうしたの?」

一体何がどうしたのか、私も分からない。
けれど、忍足くんは私のその問いには答えず、椅子もそのままに大股で教室を出て行ってしまった。

「ちょ、ちょっとちょっと!忍足くんどうしたの?」

途端に周囲がざわつき始める。
クミも慌てた様子でこちらに駆け寄ってきた。
私が呆然と首を横に振るのと、外で人の叫び声がするのが同時だった。

「――おいっ、侑士!やめろよ!」

それは、よく忍足くんと一緒にいるテニス部の男の子――向日くんの声だ。
そんなことを思って席から立ち上がると、今度は女の子の悲鳴が聞こえた。
そして忍足くんの怒声と、何かが壁に打ち付けられる音。

「ええ加減にせぇよ、跡部!」

クミに引っ張られ廊下に出て見れば、忍足くんが跡部くんの胸倉を掴んで壁に押し付けていた。
何が起きているのか全然分からない。
自惚れたくはないけれど――これは、私が何か関係している?
鼓動が早まって息が苦しくなってくる。
でも、私は歯をぐっと食いしばって、その場から動かなかった。

「ああ言うのは、もうやめぇ言うたはずや」
「……何のことだよ」
「あんなトコに、これ見よがしに痕つけといて、しらばっくれんなや――っ」

拳が振り上げられて悲鳴が上がる。
私は咄嗟に叫ぼうとしたけど、まるで出し方を忘れてしまったかのように声が全く出なかった。
跡部くんは抵抗する様子を見せず、その目の前で上げられた拳を冷静に見上げていた。
皆が固唾を飲んで見守る中、その腕は下ろされずに空で止まったまま。
そのとき、跡部くんが、一瞬私の方を見て――僅かに、口元を歪ませた。

「――あいつは、渡さない」

躊躇い、微かに震えていた拳が、その台詞を引き金に彼に振り下ろされた。
床に崩れ落ちる彼に、女の子の悲鳴がひときわ大きくなる。
床に手をつき、唇を拭う跡部くん。
信じられなかった。
いつも、あんなに自信に満ち溢れて自他共に認めるこの学園の王様然としている彼が、殴られて口の端を切り、顔を歪めている。

「よぉ――そんなこと、言えたな」

ゾクリとするような低い声と、表情。

「そこにおるセコい女のショボい嘘に引っ掛かって。そのクセ未練たらたらであのザマか。学園のキングが聞いて呆れるわ」
「お前に、何が分かんだよ」
「分かるわけ、あらへんやろ!」

埃を払い立ち上がった跡部くんに、再び忍足くんが掴みかかる。
さっきまで呆然としていた彼らの友達――向日くんが「侑士!」と慌てて忍足くんに走り寄り。
私も、気が付いたら夢中で人垣をかき分けて、二人の前に立っていた。
振り上げられ掛けていた忍足くんの腕を掴む。

さん」
「……ごめん、忍足くん」

忍足くんの目に少しずつ表情が戻って、腕の力が抜けて行く。
跡部くんはその腕から解放されたけれど、乱れたネクタイはそのままにそこに立ちつくしていた。
頬を腫らせて唇が切れて、シャツは皺くちゃでネクタイもボロボロ。
酷い格好。
でも、私は、こんな彼がたまらなく――

「私、やっぱり、この人が好きだったの」

知ってたよね。
目を見開く跡部くんと対照的に、忍足くんの目は静かにゆっくり細められる。

「奪いたいと思ってたの。でも――そんなことを言って嫌われる方が怖かった。だから――最低だと分かってたけど、ずっと、そのままだった」
「……漸く認めたか」

深くため息を吐き出す忍足くん。
訳が分からない、と目を白黒させる向日くんの顔が目に入って、思わず、苦笑する。

「――で、跡部は、女の子にこんなこと言わせといて、何ボケッとしとんのや」

そろそろさんにもカッコいいとこ見せたらどうや。
そう言って、跡部くんの肩を突く。
呆然としたまま少しよろけた彼は、漸く気が付いたようにネクタイを締め直し、私を見た。
こんなふうに、昼間こんな間近で見つめあったのは初めてだ。
今さらそんなことを思って、ちょっと恥ずかしくなる。

「俺も――去年から、お前のことだけを見ていた」
「去年からとか言ってへんで、入学式のときからて正直に言うたらえーやんか」
「黙れ、忍足」
「おー、こわ」

睨まれて肩を竦める忍足くんは、何故かすごく楽しそうだ。
いつもの二人の関係で、私も、そしてたぶん、周りの子たちも、ほっとする。
そんなことにばかり気を取られて、私は、彼から公衆の面前で堂々と告白されたということに気付かなかった。
一瞬の沈黙の後、女の子たちのざわめきとか悲鳴に近い声に、やっと我に返る。
――と言うか、私も、かなり恥ずかしい告白を公衆の面前で……してしまった、気がする。
今頃そんな考えに至り、忽ちのうちに顔が熱くなる。

「なに、今頃恥じらってんだよ」

ぐいと引き寄せられて跡部くんを見れば、いつもの、俺様な笑み。
……切り替え早いよ。
呆れた目をして彼から離れようとその胸に手を突いたけれど、それより彼の引き寄せる力の方が強い。

「――ちょっと、跡部くん」

ここは始業前の廊下だよ。
そう抗議しようと思ったのに。

「これからは普段から景吾って呼べよ」

唇を塞がれる方が、先だった。




「あー、戻ってきた」

お説教にグッタリして教室に戻ると、クミと忍足くんが出迎えてくれた。
後ろには全く反省している様子の見えない跡部くんが立っている。
一応説教は甘んじて受けたけれど、あれは必要なパフォーマンスで反省なんかするつもりなんか毛頭ない、とでも言いたげだ。

「教師があそこに居たんは計算外やったなぁ。さすがに目の前で見たら注意せんわけにはいかんもんなぁ」
「別に、大したことじゃねーよ」
「大したことだよ」
さん、跡部の彼女んなるならこれくらいのこと慣れとかんと」
「慣れたくない」

口を尖らせ、忍足くんを小さく睨んだ後椅子に腰掛ける。
すると、隣りの席に座っていたクミが私以上に口を尖らせて恨みがましい目を向けて来た。

「ちょっと。私の方が怒ってるんだからね。ぬけがけしないって約束したのに!」
「……ごめん」
「でも確かに付き合うてたわけやないもんなぁ?」
「……俺が悪かったって言やぁいいんだろ」
「そこはちゃんと反省してもらわんとなぁ」
「調子に乗んじゃねーよ」

ジロリと睨む跡部くん。
やれやれと肩を竦める忍足くん。
その二人の様子を見て、私とクミは思わず笑ってしまった。

「なーんかさー、跡部くんって、可愛いんだね」
「――は?何言ってんだ、この女」

クミの発言に、不機嫌さを全面に表す。
そう。
皆の前に立つ彼は強くて、格好よくて、派手で。ちょっと近寄りがたいけど。
この距離に立っていると、実は可愛いんだよ。
――なんて、私は本人には言わないけれど。

「次のLHRは席替えだ」
「うわ、跡部、何やそのあからさまな職権濫用!」
「てめーをの後ろになんか、いつまでもしておけるか」
「きゃーっ、だって!」
「ク、クミ……」

はしゃぐクミ。
思い切り嫌そうな目でそんなクミを見下ろす跡部くん。
そんな彼をニヤニヤと見上げる忍足くん。
……周りの女の子の、ちょっと攻撃的な視線。
順風満帆とはいかないんだろうけど――でも、もう私は間違わないと思う。

「近くの席になれるといいねー」

笑ってそう言うクミに、私も笑って頷いた。