cross - Maria -




週末から訪れた寒波で、随分と冷え込んだ朝だった。
いつもより早く目が覚めた跡部は、礼拝の時間までにまだ余裕があったのでジムに向かう。
汗を流すと多少の爽快感は味わえたが、どうも気分が落ち着かなかった。
それはシャワーを浴びた後も変わらない。

鞄の中に入れていた十字架のペンダントを取り出す。
鎖は家の人間に直させた。
結構な年代物ではないかと、その男が言っていたのを思い出す。
観月も鳳と同様、誰かに貰ったものなのかもしれない。
それを彼女に上げるということは―――
跡部にとってあまり面白くない結論になりそうで、それを打ち消すように、やや乱暴にそれを鞄に突っ込んだ。

跡部は一目ぼれは信用していない。
一目見ただけで、相手の一体何が分かるというのか。
彼のファンクラブを作っている女の子たちを必要以上にぞんざいに扱うつもりはないが、周囲で騒いでいるだけの彼女たちと恋愛に発展する確率は、ほぼゼロに近い。
もちろん自分自身が誰かに一目ぼれするなんて、未だかつて経験がないし―――これからも、ないはずだ。
彼が自分の主義を曲げることなんてありえない。
けれど、彼女のことを思うと、彼女には日曜に礼拝に行けば会えるのだと思うと、何故かほっとした。

マリアの声にやられた。
そうかもしれない。
けれど、それなら、その歌声だけを聴ければいいはずなのに。




聖ルドルフに着くと、この前と同じくチャペルに入っていく人の姿がポツポツとあった。
けれど、やはりアドヴェントのときよりは人の数は少ない。
中央の噴水を回り込み、チャペルの階段に足をかける。

「―――は今日は来ませんよ」

後ろから、少し、冷ややかな声。
跡部が振り返ると、前髪を指で弄りながら立つ観月の姿があった。

は風邪を引いちゃいましてね、大したことないんですが大事を取って今日は休みです」
「―――観月」
「残念でしたね」

小さく笑う姿も、この前より冷たい印象。
跡部の方も自分が歓迎されるとは思っていないので、その態度には特に動じることはなかった。

「神に祈るのは好きじゃなくても『マリアの声』は聴きたいってわけですか?」
「……まあな」
「随分と素直ですね」

あっさりと肯定した跡部に、観月は幾分毒気を抜かれる。
跡部の方は、多少覚悟していたこととは言え、観月のそのあからさまな敵意に面食らった。
跡部は階段に足をかけたまま、観月は下ろした手を前で組んだまま、黙ってお互いを見る。
先に降参したようにため息を吐き出したのは、観月の方だった。

「ちょっと外へ行きませんか?礼拝には出なくていいのでしょう?」

そう言って跡部の返事を待たず観月が歩き出す。
確かに、礼拝自体に出席することが目的だったわけじゃない。
跡部も彼の後に続いた。

校舎の裏手にある並木道に差しかかったとき、チャペルの方から鐘の音が響いてきた。
足を止めると二人の間を風が通り過ぎ、木々の葉を揺らす。

「―――お前は礼拝出なくてよかったのか?」

漏れ聞こえる賛美歌の調べ。
そう言えばこいつも歌が上手かったなと思い出し、どうでもよい質問を投げる。
すると観月の方もどうでもいいと言った風に笑った。

「俺が来ると思って、わざわざ見に来たのか?」
「本当に来るとは思ってませんでしたけどね。―――来なきゃいいと思ってたんですが」
「訳分かんねぇな」
「跡部くん、君、本当にの歌を聴きに来ただけですか?」
「どういう意味だ?」

回りくどい観月の台詞に苛立ちを感じ、跡部は睨むように目を細める。
背中を向けたままの観月は跡部の問いには答えず、大げさな位の深いため息を吐いて見せた。

「―――彼女、ああ見えて結構もてるんです」
「は?」

思ってもみない言葉に、訝しげな跡部の顔。
けれど相変わらず観月の方はマイペースだ。
ゆっくりと木々の間の小路を進む。

「見た目はそこそこ可愛いでしょう?それにあの声です。特にイースターの後なんて馬鹿な新入生があの歌に騙されちゃうんですよ。礼拝以外でもイベントがあるごとに駆り出されてよく歌ってますから、程度の差はあれ殆どの生徒は憧れを抱いたりするようですね。どこかの誰かと似ていると思いませんか?」
「……」
「でもあの子は本当に歌だけで、カリスマ性があったり、強かったりするわけじゃないんです」
「何が言いたい?」
「マリアじゃないんですよ、あの子は」

くるり、振り向いて、いつもより少し低い声で、強い目で跡部を見て。
その表情と言葉に、他の男への牽制などと言う安っぽい感情などではないのだと感じて、跡部は小さく息を呑む。
暫く黙ったまま見合った後、跡部の方が目を逸らして、さっきポケットに移したあのペンダントを取り出した。

「―――これ、魔除けだって?」

差し出されたそれに、観月はちょっとだけ驚いた顔をする。

「これを届けに来たんですか?」
「それだけじゃない。―――あいつに、会いに来た」
「歌を聴きに、じゃなくて?」
「歌なんかどうでもいい」

跡部が自分の主義を曲げるなんてあり得ない。
けれど、目の前の男の真剣な眼差しに、嘘や誤魔化しで応えたくなかった。
確かに、彼も彼女の歌に魅せられた男の一人だ。
でも今は歌よりも、ただ彼女の声が聴きたい。
楽しそうに笑う顔が見たい。
跡部も、強い視線で観月を射抜く。

「―――魔除けは、君には効かなかったってワケですか」
「多少は効果あったぜ」
「肝心な時に効かないようじゃ、全然意味がないですね」

やれやれと首を横に振りながら、観月はそのペンダントを手に取る。

「君のような人が相手じゃ、苦労するのが明らかじゃないですか。まだ馬鹿で無神経な男の方がマシです」
「俺じゃあ不満だって言うのか」
「不満ですよ。大いに不満です。彼女の泣くのが目に見えてます」
「泣かせねぇよ」

即答する跡部に、観月は一瞬目を大きく開き、すぐに呆れたように小さく笑う。

「テニスに限らず自信家ですね」
「自信じゃねぇ。確信だ」
「余計タチが悪い気がしますけど」

そう言って笑った彼の顔は、少しだけ柔らかい表情に戻っていた。

「―――あのときを紹介したのは、逆効果でしたね」

木々の間から差し込む陽の光が、観月の手の中の十字架に反射する。

「あれも一種の魔除けか」
「歌だけ聴いて幻想を抱かれても困るので。―――あの子には、歌なんか歌わなきゃよかったとは、もう言わせたくないんです」

彼女の過去に何があったのかは分からない。
だが大体の予想はつく。
この観月がただの「保護者」と言う立場に甘んじている理由もよく分からないが、ただ少なくとも、彼が一番彼女の歌声に魅せられている人物なのだということは確かだ。

「では、行きましょうか」
「―――どこへ?」
「このまま会わずに帰っていいんですか?」
「でも風邪引いてるんだろ」
「声が出ないから寮で休んでるだけです。暢気なことを言ってると来週のクリスマス前に他の男に取られますよ」

さあ、行きましょう。
そう言ってまた跡部の返事など待たず、今来た道を戻り始める観月。
邪魔をしたいのか後押ししたいのか分からない。
そんな訝しげな表情の跡部の方を振り返り、その心の中を見透かしたようにフフと少し意地悪く笑った。

「泣かせたら、すぐに返してもらいます」