テイコウ 1




「うわー、随分可愛い新部長さんだね」

放課後、跡部がコートに入ると、背後のベンチから声がした。
反射的に後ろを振り返ると、制服を着た女子生徒が一人、コートの方に身を乗り出すような格好で立っていた。
どうせいつものギャラリーかと無視しようとすると、「あ!待って待って!」と慌てて呼び止める声。

「君が新部長さんなんでしょ?はい、これ」

もう一度振り返ると、今度は何か分厚いノートを差し出している。
ニコニコと笑う彼女。
訝しげな表情をしつつもそれを受け取り、パラパラと捲る。
どうやらテニス部の練習メニューなどが書かれているようだった。
何故彼女がこれを持っていて自分に渡すのだろうか。
彼の眉間の皺が更に深くなる。

「――これは?」
「去年の夏からの練習メニューノート。プラス、スコア表。本当は部長さんが持つものだから」
「部長が持つものを何であんたが持ってるんだ」
「おお!いきなりタメ口か!」

なるほど、あいつの言うとおりだね。
可笑しそうに笑う彼女。
一体こいつは何なんだ?マネージャーか?
一向に怪訝な表情の晴れない跡部の背後から、上級生の声。

「あれ、さん。盲腸治ったんですか?」
「もうちょう!?誰がそんなこと言ったの!?」
「部長が……じゃなくて、河野さんが言ってましたけど。違ったんですか?」
「うんまあ……似たようなもんだけど」

どことなく不満そうに口を尖らせる彼女に笑みを浮かべた上級生――二年の男子が、跡部の手元のノートに視線を移し表情を曇らせる。

「もしかして、引継ぎですか?」
「別にそんなたいそうなモノじゃないけど、もう私が持っててもしょうがないでしょう?」

その男とは対照的に、あっけらかんとした表情でそう言う彼女。
男の方は一瞬寂しそうな顔をし、そして跡部に恨めしげな視線を向ける。
そんな視線を向けられる理由など全く検討のつかない跡部は彼をジロリと見返した後、一体どういうことなんだ、と彼女の顔を見た。
その視線に気づいた彼女は、ちょっと肩を竦めて見せる。

「それ、さっきは部長が持つものって言ったけどね、それは単なる慣習だから。別に使っても使わなくても、君の好きにしていいよ。ま、良かったら参考程度に」
「あんたは……マネージャー?」
「ううん。河野とは腐れ縁でね、時々練習とかで手伝ってたの」
「ただの腐れ縁で、部外者が?」
「おい、跡部!」

横にいた、先ほどの男が跡部の言い方に抗議する。
そんな彼を遮るように彼女は「ごもっとも〜」と言って笑った。

「ま、いろいろと事情があって黙認されてた所があるんだ。けど、それも今日でおしまい。君に全部託すよ」

跡部はもう一度、手元のノートに視線を落とす。
そんな彼の肩をポンポンと叩く手。

「ねえ、新部長くん。みんなを全国まで引っ張ってってあげてね?」

優しくて温かい声。
跡部が我に返るように顔を上げると、もう彼女は階段をパタパタと降りてしまっていた。
目の前にいた時は胡散臭さばかり感じていたくせに、急に目の前からいなくなると、何かが欠落したような焦燥感に襲われる。
そんな自分に驚いて、次の瞬間、馬鹿馬鹿しくなって、やや乱暴な仕草でそのノートをベンチに置いた。



次の日、跡部が廊下を歩いているときに楽しそうな笑い声が聞こえて、ふとその方向に目を向けると昨日の彼女がいた。
さん。確かそう呼ばれていた。
一緒にいるのは、ついこの前まで部長だった河野。
腐れ縁だっと言っていた。
腐れ縁でテニス部の仕事を手伝っていると。
しかしただの腐れ縁だけで、あれだけのノートを残すものなのだろうか。
昨日、部活が終わり部室に戻った後、跡部は彼女から手渡されたノートを開いた。
公式戦や練習試合のスコアから、各メンバーの癖、長所、問題点、改善するためのメニュー。
それらが綺麗な字で、理路整然と無駄な言葉なく、丁寧に記載されていた。
非常にシンプルだけれど、的確と思われる記載。
そのノートを最後まで目を通し、なるほど黙認されるわけだと納得した。

「あ!新部長くん!」

視線に気づいたらしい彼女が、跡部の方を見てブンブンと手を振っている。
隣りの河野は一瞬気まずそうな顔をしたが、彼女の様子に影響されてか、彼も小さく手を上げてみせる。
跡部はどうしようか迷ったが、そう言えばノートの礼も何も言っていなかったことを思い出し、ゆっくりと二人のもとへと近づいた。

「ねーねー、君って必殺技あるんだって?」
「必殺技?」
「えーと、何だっけ?破壊のワルツ?」
「……美的センスゼロだな」
「え?違うの?」
「破滅への輪舞だ」
「大して変わらないじゃない!」
「全然ちげーよ!」

なーんだ、って顔をする彼女に、思わず熱く反論してしまう跡部。
横で笑いを堪えている河野を見てハタと我に返り、小さく舌打ちする。

「ま、名前なんてどっちでもいいや。その破滅へのルンバを見たいなーと思って」
「それ、全然強くなさそうだな」
「てめー、わざと間違えてるだろ」

呆れる河野に、睨む跡部。
でもそんな二人に全く動じる様子なく、彼女はマイペースに続ける。

「と言うわけで、今日の練習見に行くから。よろしくね!」
「今日はスマッシュの練習をする予定はない」
「あ、スマッシュの一種なんだ。じゃあ私がトスを上げてあげよう。出血大サービス」
「……あんた、もしかして人の話を聞かないタイプか」
、お前もう練習には手を出さないって約束しただろ。早速それ破るのかよ」
「じゃあ河野が上げて?」
「それ以前に、今日はスマッシュの練習はないって言ってんだろうが!」

何なんだ、こいつらは。
いや、たぶん河野の方は彼女のマイペースに引っ張られているだけなのだろう。
本当なら適当にあしらえばいいはずなのだが、つい、突っ込みを入れずにはいられないと言うか――構わずにいられないと言うか。
自分のペースを崩されて、跡部はため息をつきつつ額を押さえる。

「じゃあ、いつやるの?」
「さーな」
「うわ、ケチ」
「そういう問題じゃねーことくらい、あんただって分かってるだろ」

ジロリと睨みそう言う跡部に、彼女は不満そうに口を尖らせる。
その隣りで、河野は少し意外そうな顔をして跡部の方を見ていたが、見られた本人は気づいていない。

「じゃあしょうがない。これからその破滅へのサンバを見るまで、練習見に行くからね」
「てめーは一体どんだけラテン好きなんだよ」
「あれ、君、南米のジュニアで活躍してたんじゃなかった?」
「……」
。ヨーロッパだ」
「分かってるわよー。もう!これくらいのボケについて来れなくてどうするの?」

こいつと話していると疲れる。
まるでこちらが悪いかのように頬を膨らませる彼女に、跡部は心の中でそう呟き、ため息をつく。
もうちょっと理知的な女なのかと思っていたが、どうやらただのボケ好きらしい。
跡部はノートの礼などすっかり忘れ、クルリと体の向きを変えてその場を去ろうとした。

「あ!じゃあまた部活でねー!新部長くん!」

背後からまた元気な声。
そのまま無視して行こうかと思ったけれど、何となく気まぐれを起こして振り返る。
そこには当然のようにニコニコ顔。

「練習、行ってもいいよね?」

そう言って目を細めると、明るいだけの笑みに柔らかさと大人びた翳りが差す。
さっきまで自分と変わらない、むしろ子供っぽく見えていたその姿が急に大人に見えて、その細い指先に――訳も分からず心臓が変な音を立てる。

「――勝手にすればいい」

一体、何なんだ。
跡部はまた心の中で呟く。
一体、この思い通りに行かない感覚は、けれど、どこか心地いいような妙な感覚は何だというんだ?
小さく首を振った後それだけ言い残し、跡部は自分の教室へと早足で戻った。