テイコウ 2
HRが終わり、落ち着かない気分のまま部活へ向かう跡部。
着替えを済ませてコートへ向かうと、ボールの音が響いていた。
階段を上がると、随分と熱心に練習している上級生達の姿。
跡部が完全実力主義を宣言してからは、皆の緊迫感は以前と比べ物にならないが、それにしても今日のこの皆のテンションの高さは何なのだろうか?
昨日までとは違う雰囲気に、跡部は怪訝な顔でグルリとコートの周りを見渡した。
そして、ベンチの前の方でじーっとコートを見ているジャージ姿の女子に目が止まる。
「――本当に来たのか」
ため息と共にその彼女のもとへ歩を運ぶ。
その跡部を振り返り、彼女――は「遅いぞ!」と叫びながら手を上げた。
「別に遅刻はしてない」
「可愛くない返事!」
「可愛くなくて結構」
「うわ、ますます可愛くない!」
呆れたような怒ったような顔をする。
そんな彼女にわざと大げさに冷ややかな視線を送る跡部。
さっきまで熱心に素振りをしていた部員が、チラチラとこちらを見ているのに気づく。
もしかしてこの変なテンションは、こいつのせいなのか。
なるほどと納得行くのと同時に頭が痛くなる。
女一人で練習が左右されると言うのはどういうわけだ。
「――、お前本当に来てたのか」
後ろから階段を上がってくる河野の呆れ声。
「しかもその格好は練習に参加する気バリバリじゃないか」と悩ましげに頭を横に振る。
「やだなぁ、この格好に深い意味はないよ。ほら、何かあったときのために、一応ね」
「『何か』を期待するんじゃないよ」
困った奴だと言った感じで、ぽんと頭を叩く河野に、彼女は不満そうに唸る。
彼と一緒にいた部員も、しょうがないなと苦笑い。
しかし皆一様にその表情は柔らかくて、彼女が彼らにどのように思われているかがよく分かる。
「もうお前の出番はない。今までとは違うんだ」
優しく、けれどキッパリした調子でそう言う河野。
その台詞は自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
「……今までって?」
訝しげに問いかける跡部の言葉に、そこにいた人間が一斉に彼の方を振り返る。
そしてどういうべきなのか迷うように顔を見合わせる部員の間から、彼女がヒョッコリ顔を出した。
「球出しとかでコートに入ることもあったんだよ」
「ってコントロールいいしな」
「ふーん」
すかさずフォローのような口を挟む男に、跡部はいかにもつまらなそうな顔を向け、そのまま彼女の方へと向き直る。
「そんなにコートに入りたいなら、女子のテニス部に入ればいいじゃねーか」
その彼の発言は、ごく自然な疑問から出たものだった。
まさか、それによってその場の空気が凍るなんて思いも寄らない。
ほんの一瞬の間。
けれど跡部には物凄く長い時間のように思えた。
何かまずいことでも言ったか?
不審に思い、跡部が目を細めた次の瞬間、の明るい声が響く。
「ごもっとも!でも残念ながら私は入れないんだ」
「入れない?」
「そう。出入り禁止なの」
「何かやらかしたのか」
「やらかしてないよ!ちょっと!そこは本気にしないでよっ」
これ以上はないというくらい頬を膨らませる彼女に、周りにいた者が皆一様にほっとした顔をしたのを跡部は見逃さなかった。
一体何だと言うんだ?
しかし深く考える前に、誰かの手が跡部の肩に回されて「ほら、もう練習開始だろ」とコートの方へと引き摺られてしまった。
ふと視線を向けた先。
そこにいた彼女の僅かな表情の翳り。
自分が彼女にそんな表情をさせたのか?
跡部は訳も分からず、罪悪感のような後ろめたさのようなものに襲われて、心がざわついた。
もしかしたらもう彼女は来ないかもしれない。
そんな跡部の予想は見事に外れ、は練習のあるときは毎日コートに現れた。
「新部長くんの必殺技を見るまでは諦めないぞ!」
大げさな仕草で鼻息荒くそう言う彼女を、跡部の方も大げさとも言える顔つきで、いつも鼻であしらう。
馬鹿馬鹿しい演技じみたやり取り。
けれど、彼女とそう言うくだらない会話を交わすのは、何故か嫌いではなかった。
そしてそれは彼に限ったことではないらしい。
休憩に入った部員の多くは自然と彼女のもとへ向かった。
最近は上級生だけでなく、一年もよく彼女と話している。
それは他愛ない会話だけでなく、彼女が色々と分かりやすいアドバイスをくれたりするからだ。
芥川や向日はすっかり彼女に懐いていたし、宍戸も「集中力が乱れる」と時折ぶつぶつ言っていたが、彼女に褒められると悪い気はしないようだった。
忍足は「やっぱり年上はええな〜」などと一人意味不明なことを言う。
「ええ香りするし」
「てめーは変態か」
「跡部だってそう思っとるやろ?」
「てめーと一緒にするな」
呆れた顔をする跡部に、忍足は意地悪い笑みを浮かべる。
「マネージャーやったら、もっと甘えられるのになぁ」
「……甘えるんじゃねーよ。気色悪い」
「なぁ、跡部。知っとった?さんて、小学生の頃はジュニアで活躍しとったって」
「――なに?」
「俺も真面目にそっちで活動してたわけやないから、よう知らんけど。確かに、雑誌とかでも名前見たことある気がするわ」
じゃあ、何でこんな所で男子の練習なんか見ている?
その疑問は跡部の顔に表れていたのだろう、忍足は一瞬視線をさまよわせた後、彼に耳打ちした。
そして、その言葉に、跡部は目の前が暗くなる。
「二年前くらいに交通事故でな、足、思うように動かなくなったらしいで?」
信号無視の車に突っ込まれたとかで。酷い話やな。
続く忍足の同情交じりの言葉は、跡部の耳には届かなかった。
ああ、そうか。
そう言うことか。
この前の異様な雰囲気の理由がようやく明らかになって、それと同時に、今までもずっと奥の方でくすぶっていた後ろ暗い感覚が瞬く間に蘇って来る。容赦なく、暴力的に。
つまり、俺は、もうテニスが出来ない人間に――テニスをすればいいと言ったのか。
グラグラと足元がぐらつく。
「どないしたん、跡部?」
「――何でもない」
休憩は終わりだ。
そう言って跡部はコートに立つ。
少し離れた所から聞こえる彼女の笑い声。
いつもはうるさいと言いながらも心地よく感じているそれが、耳鳴りのように無機質に響いて聞こえた。
「――部誌の書き方、覚えたのか」
部活の後、着替え終えた跡部に河野が声を掛けて来た。
部長が代わってからもう半月近く経つ。今さら部誌の書き方も何もないだろう。
跡部は怪訝に思いながらも、普通に答える。
「あんなの、別に難しいもんじゃない」
「まあ、そうだな」
苦笑いしながらも、その場を去る様子はない河野。
何かを察してか、忍足は他の一年を連れて「ほな、跡部。お疲れさん」とさっさと帰ってしまった。
他の上級生も河野を置いて次々と部室を後にする。
残されたのは跡部と河野の二人。
「――で、何か?」
ロッカーを閉め、跡部はソファに腰を下ろす。
河野も近くにあったパイプ椅子の背に寄りかかった。
自分を見上げて来る跡部の視線はいかにもつまらなそうに見えるが、いつもより目の中の光が鈍く感じる。
気のせいかもしれないと思ったけれど、河野は今日の部活中に感じていたことを口にした。
「いや、俺に何か聞きたいことがないかと思って」
「あんたに?」
「たとえば――のこととか」
その名前にドキリと心臓が跳ねて、罪悪感が襲って来る。
けれど、何とかポーカーフェイスで遣り過ごす跡部。
「別に聞きたいことなんて、ない」
「そうか。……なら、いいけど」
ため息をつきながら、河野は立ち上がって自分のテニスバッグを肩に掛ける。
跡部はソファに座ったままその様子を黙って見守るだけ。
バチリと目が合って、暫く二人で見合って、視線を先に逸らしたのは河野の方だった。
「あいつに同情とかするなよ」
「……あいつ?」
「聞いたんじゃないのか、のこと」
「テニスが……出来なくなった……?」
ついさっきまで普通に話せていたはずなのに、一瞬にして喉がカラカラになって舌がもつれる。
それを隠すために、睨むように河野を見上げる。
「可哀想とか、絶対に思うなよ。思うのは勝手だけど、それをあいつの前で出さないでくれ」
「……」
「同情されるたびに――あいつは、自分を傷つけるから」
テニスが出来なくたって死ぬわけじゃないし。
ちょっと走れなくなっただけだし。
あいつはそうやって大したことないように言うから。
河野はそう言って複雑な笑みを浮かべる。
本当は大したことなのに。死にたいくらいつらかったはずなのに。
「――本当の、話、なのか」
「何が?あいつが昔テニスをやってたことか?それとも事故で足を怪我したことか?残念ながら、どっちも本当だよ」
一度は肩に掛けたバッグを床に置き、河野は宙を睨んだ。
「あいつとは幼なじみなんだ。テニスも一緒くらいに始めたんだけど、あいつの方が全然上達が早くて試合しても勝てたことなかった」
男女一緒に全国行こうよ。
冗談じみたあの明るい声でそう言って、二人でテニス部に入った。
けれど結局その夢は一ヵ月で潰えた。
みんなを全国まで引っ張ってってあげてね?
跡部が初めて会った時に彼女が言った言葉。
優しげで温かくて――けれどどこか悲しげにも聞こえたのはそう言うわけか。
「――あいつが練習に来てやりづらいんだったら、もう一度俺からもちゃんと言う」
「別に――そんなことはない」
「同情ならしないでくれ」
「別に同情じゃない。邪魔だと思ったことはないし、彼女がいた方があんた達だって気合いが入るんだろう」
淡々とした口調になるよう気をつけて、組んでいた手を解いてゆっくりとソファから立ち上がり、埃を叩く。
そんな跡部の一連の動作を黙って見守っていた河野は、最後に少しだけ肩をすぼめた。
「ちょっと意外だよ」
「……何が?」
「あいつって人のことお構いなしな所があるから。跡部はああいう自分のペースを乱すタイプは苦手かと思っていた」
今度は跡部の方が、河野の動作を追う。
ネクタイを正し、ジャケットを整えてバッグを担ぐ様子を、ぼんやりと。
確かに、いつも彼女のペースに引っ張り込まれて、彼女の突拍子もない発言に頭が痛くなることもある。
――確かに。
けれど、練習がオフで一度も彼女に会えなかった日は酷く落ち着かなくて、何かをやり残したような感覚は夜寝床についても拭われなくて。次の日に彼女を見て、やっと深く息を吸えるような気がする。
「――苦手だ」
深いため息のような息を吐き出すと、跡部は漸く動くことを思い出したように鞄を手に取った。
確かに苦手だ。
自分のペースを狂わせて、思い通りにならない。
眉根を寄せてそう言う跡部に、河野は小さく笑って見せた。
「そうか?でも、あいつの前の跡部を見てるとお前も中一なんだって思うよ」
河野の言ったことが分からなくて更に眉間の皺を深くする。
けれど河野はそれだけ言って「お先」と部室を後にした。