テイコウ 4




「景吾くんてさ、ナルシストだよね」
「は?いきなり何言ってんだ」

練習が始まる前、一人準備運動を終えてストレッチをしている跡部の様子を眺めていたは、ベンチに腰掛けて手に持ったシャーペンと片足をプラプラとさせながらそんなことをボソリと言った。
跡部は怪訝な目で見上げたが、彼女の方はノートに視線を落としたまま、難しい顔をしている。

「筋肉の音とか、大好きでしょ」
「別に大好きじゃねーよ」
「変態」
「好きじゃねーっつってんだろ」

しかし自分の筋肉の状態を把握することは必要だ。
一人で入念にチェックしながらストレッチしている様を見てそんなことを言っているのだろう。跡部はフンと鼻を鳴らす。

「今までも周りに筋肉オタクって居たけど、君には負けるね」
「……お前だって、人のこと言えねーんじゃねーの」

そう言って意地悪く笑い、夏服に変わった半袖のシャツから伸びる彼女の腕に視線を向ける。
脚の方は今までもよく「逞しい」とか、直接的に「太い」とか言って彼女をからかっていたが、腕にも綺麗な筋肉が付いていた。
からかうときはわざと酷い単語を使っているけれど、本当はそんな彼女の手足はその辺のどんな女よりも美しいと思っていた。
無駄のない筋肉は決して「過去」のものではない。
彼女が今も筋力トレーニングを続けている証拠だ。

「ほんと、君ってデリカシーない」
「人のことナルシスト呼ばわりしてるお前はどうなんだ」

腕を擦りながら睨んでくるに、跡部は肩を竦めつつ立ち上がる。
衣服に付いた砂埃を払っていると、その頭にノートが載せられた。

「はい。今日の練習のオーダー表」
「ああ……珍しく時間かかってたじゃねーか」
「都大会も近いしね。どうしても慎重になるよ」
「いつもは慎重じゃないのか」
「そうじゃないけど!ほんっと、君って性格悪い」
「今さらだろ」

彼女の作ったオーダー表をざっと見て、大体自分の考えていたものと変わらないことを確認する。
今日は試合形式の練習が行われる予定だった。
都大会を間近に控えていて、その出場メンバーを決定するのにこれが全てとは言わないが、大きな判断材料の一つになるだろう。
頬を膨らませる彼女を振り返り、微かに目を細める。

「別に、に責任を負わせるつもりはねーよ」
「そう言う問題じゃない」
「まぁな」

自分の言葉が彼女のプレッシャーを軽減するとは思えなかったが、敢えてそんなことを言ってみる。
そしてその台詞に即座に反論する彼女に、内心、安堵する。
彼女のプレッシャーは、決して外部からのものではなくて、自分自身が課しているものだ。
第一、彼女はマネージャーでも何でもない。
本当は逃げようと思えばいくらでも逃げられる。

さんって、何でマネージャーにならんかったんやろ」

普通のマネージャー以上に働いている彼女を見て、時折忍足がそう呟くように言う。
備品の購入や掃除洗濯などの雑用はもう殆ど一年生に引き継いだようだが、今でもたまに下級生達と一緒になってパタパタと走り回っていた。
別に部としてマネージャーを絶対取らないと言う方針はなかったし、入部した方が彼女自身だって色々と都合がよかったのではないだろうかと跡部も思う。
「部外者」と言うだけで無駄な摩擦も生んでいたはずだった。

決して責任を負うことから逃れようとするタイプではない。
しかし、何度か顧問や河野が勧誘しても決して入部することはなかったと言う。
彼女の真意は分からない。
けれど跡部は敢えて聞こうとはしなかった。
それだけ何度も迷わず断っていたということは、彼女の中には明確な理由があるのだろう。
それに今さらそれを聞いて彼女がマネージャーとなれない障害を取り除いたとしても、もう彼女は三年で、数ヵ月後には引退してしまうのだ。




「あれ?もしかして今度が君の日本での公式戦デビュー?」

目を大きく開いて聞いて来る彼女に、何を今さらと肩を竦める。
しかしデビューとは言っても、果たして彼まで回ってくるかどうはは甚だ疑問だが。

「君がここに入って数か月しか経ってないって言うのが信じられないよね。もう百戦錬磨って感じじゃない?」
「俺の試合なんか一度も見たことねーくせに、適当なこと言ってんじゃねーよ」

必殺技が観たいと繰り返し言っている割には、彼女は他校との練習試合でも校内のでも跡部の試合を見ることはなかった。
何だかんだと用事を作ってはその場から離れたり、他のコートでやっている別の人間の試合を見たりする。
それは結構あからさまだったので、面白くない――とまでは行かなかったが、多少は気になりもした。
興味がないのか、必要がないと思っているのか。

「あ、ねえ。この前の本の作者、久し振りに新刊出したの知ってる?」
「――いや」
「読むなら今度貸してあげるよ」
「あの作者好きなのか?」
「うーん、特に好きじゃなかったんだけどさ、君がこの前好きなフレーズとか読んで聞かせてくれたじゃない?そしたら何か、あの人の表現とか好きになった」
「……ふうん」

宝物を見つけた子供のような目をしながら、は以前跡部が諳んじたフレーズを口にする。
ごく自然に「好き」だと言う。
何の思惑もなく、屈託なく、単純に。
そんな彼女に跡部の口元にも思わず笑みが漏れるが、同時にどこか物足りないようなもどかしいような感覚。

「そう言えば、哲学書はどうした」
「ああ、うん。すっごく面白かった」
「目ぇ泳がせながら言ってんじゃねーよ」

しょうがねーなと跡部がため息をつくと、はあっけらかんと明るい笑い声でそれを吹き飛ばした。

「ほんと、あんなの読む君を尊敬する」
「真顔で言うな」

今度もっと読みやすいのを貸してやる。
跡部がそう言うと、は顔に張り付けた笑みを引き攣らせた。
哲学書も読んで聞かせたら好きになるのか?
ふとそんなことを思い、何考えてるんだと自嘲した。




さーん!明日の大会来るよね!」

大会の前日、ミーティングの後に芥川はのもとへ駆け寄った。
初戦に出場が決まった彼は、彼女に向って無邪気に笑う。
その時に彼女の返した笑みが、どことなくぎこちないのを見て跡部は怪訝な顔をした。

「――来ないつもりなのか?」

芥川達が先に教室を出て行き、が一人になったところで静かに聞く。
そんな跡部の声にびっくりして振り向いた彼女は、即座に否定することをせず、一瞬視線を彷徨わせた。

「冷たいな、お前は。俺達の最後の試合になるかもしれないんだぜ?」

彼女の隣りに来た河野が、からかうような口調でそう言い、彼女の頭に手を置く。

「最後なわけないじゃない!」

頬を膨らませながら河野の手をどけようとする彼女は、自分でも少し後ろめたさのようなものがあるのか、いつもの勢いがない。
そんな彼女に、跡部は微かな苛立ちを覚える。

「あれだけ練習に口出ししておいて、随分と無責任だな」

思わず口にした言葉は、別に本心じゃない。
練習に協力してもらったのは跡部や河野の方だし、試合を見に来るかどうかなんて、全くの彼女の自由だ。
でも、どうしても、何か言わずにはいられなかった。
きっと彼女も心のどこかでそんな風に思っていたのかもしれない。
跡部の台詞に少しだけ、傷ついた表情が浮かぶ。
それが、彼の中の苛立ちをさらに増幅させた。

「――別に、見たくないなら見なければいい」

言い捨てるようにして、二人をそのままに教室を出る。
一体何をこんなにイラついているのだろう。
まるで自分が駄々っ子になったかのようで、それがまた彼を苛立たせて、深いため息をつくことで遣り過ごそうとした。



結局、彼女は最後まで皆の前には現れなかった。
芥川はあからさまに落胆した様子を見せていたが――とは言え、試合はストレート勝ちだったが――他の上級生達は特に気にする様子もなかった。
聞けば、今までにもこう言うことはよくあったらしい。
見に来ても途中からいなくなったり、大会が終わるギリギリになって来たり。

「そりゃ、来てくれた方がテンション上がるけどさぁ……」
「まあ、にも色々用事とかあるだろうし」
「でも、試合のテープは全部その日のうちに見てんだよな」
「そうそう!次の日のあいつ、ほんっと、ひでー顔してんの。寝不足で」

帰り道、上級生が彼女の顔を真似て、可笑しそうに笑う。
そんな彼らに呆れた視線を向けつつ、跡部は心臓の奥の方がどこか小さく傷み、それが彼の足を止める。

「――どないしたん、跡部」

急に立ち止まった跡部に、忍足が不審そうな声で振り返る。
気のせいかもしれない。
――しかし、気のせいではないかもしれない。

「ちょっと、学校に寄ってから帰る」
「ええっ、自分、打ち上げはどないすんねん」

都大会で優勝したくらいで打ち上げている場合じゃないだろうと突っ込みたくもなったが、最近ようやく美味しいお好み焼き屋を見つけたと言う忍足はその店に行く気満々だったので、わざわざ水を差すこともないかと「後から行く」とだけ言い、皆と別れた。
樺地は跡部について来ようとしたけれど、先に帰れと言い置き、一人学校へ向かう。
別に何かの確信があるわけではなかったけれど、「何か」あるとしたらそこであるような気がする。
こんな曖昧な直感めいたものに左右される自分が愚かにも思えたが、敢えて気にしないようにした。

「うわ、向こうの空真っ暗じゃん」

すれ違った他校の生徒の言葉に、跡部はふいと空を見上げる。
確かに彼らの言うとおり、さっきまで真っ青だった空が、ものすごい勢いで真っ黒い雲に覆われ始めていた。




日曜の夕方の学校は、当然のように閑散としていた。
休日に練習のある部活も、もうこの時間だと大半が終わっている。
帰り際に思いがけず跡部に出会えた女子生徒達の歓声など耳に入らないかのように、まっすぐ奥へと進む。
気のせいかもしれない。
――しかし、気のせいではないかもしれない。
たとえ気のせいでなくても、ここに来ているとは限らない。
そう思いながらも、奥へと進めば進むほど、跡部の中で「それ」は何故か徐々に確信へと変わって行った。

毎日のように登るテニスコートの観客席への階段。
その薄暗い空間を抜けたが、もう分厚い雲はすぐそこまで覆い尽くしていて、大して明るさは変わらない。
ネットの張られていないコート。
人気もなく、やっぱり気のせいかと来た道を戻ろうとしたとき、目の端に人影が映った。
しゃがんでいる――いや、シューズを履き替えている女子生徒。
顔を確認するまでもない、それはだった。

使い古されたテニスバッグの横に、これまた長い間使われて来たと思われる一本のラケット。
シューズの紐を結び終えると、ゆっくりと立ち上がり、脇にあったネットを抱えてコートへと入る。
跡部は少し離れたベンチに腰を下ろし、慣れた手つきでネットを張る彼女の様子を眺めた。
は試合の後にここに誰かが来るなどと思ってもみないのか、ボールの入ったカゴをコートまで運ぶ時にも、ラケットを手に取った時にも、観客席で頬杖を突いている跡部に気づかない。
跡部の方も隠れるつもりはなかったが、声を掛けようとも思わなかった。
掛けられなかった――と言う方が正しかったのかもしれない。
彼女の顔には、いつものような飄々とした表情など微塵も窺えなくて、完全に一人の閉じられた世界を作っている。

今日は出番がないかと思われたけれど、最後の最後、決勝で跡部はコートに立った。
自然と湧き上がった氷帝コール。
彼はその中で、一瞬だけ、彼女を見た気がした。

跡部に背を向ける形でコートに立ち、カゴから無造作にボールを掴みとる。
集中力を高めるかのように、そのボールを何度か地面につき、ラケットを構える彼女。
その表情は跡部からは見えなかったけれど、集中する様は離れている彼の方にもビリビリと伝わって来て、知らず息を呑んだ。
真っ暗な空に、鮮やかな黄色いボールが上がる。
綺麗にしなる彼女の背中。

みんなを全国まで引っ張ってってあげてね?

不意に、彼女の台詞が跡部の耳に蘇る。
その瞬間、彼女のラケットがボールを捉えて――次の瞬間には相手コートにそのボールが叩きつけられ、小さな砂埃を立てていた。
跡部は頬を支えていた手を膝の上に下ろし、拳を握る。
二年以上前に夢を断たれた人間が放つようなサーブではない。
河野が勝てたことがないと言う話は容易に頷けた。

は、皆を全国に連れて行きたかった訳じゃない。
本当は、自分が全国に行きたいのだ。
そんな当たり前のことを、跡部は今さらのように悟った。


たぶん、マネージャーにならなかったのは、彼女の精一杯の抵抗。


ラケットは容赦なく、絶え間なく振り下ろされて、黄色いボールにコートが埋め尽くされていく。
小さな雨粒が落ち始めても彼女のサーブが途切れることがなくて、微かな雷鳴と共に強まった雨足にも全く気付かないかのように打ち続けた。
跡部もまた観客席にじっと座ったまま、彼女だけをじっと見下ろす。

彼女がいつも笑っているから、いつも隣りにいるから、気づけなかった。

最後の一球が打ち込まれ、カゴがからっぽになる。
はようやく雨に気づいたように空を見上げて髪をかき上げた。
そして、ふうと息をつき、散らばったボールの方へと向かう。
跡部もベンチから立ち上がり、ゆっくりとコートの方へと降りて行った。

は、本当に跡部が居たことに気付いていなかったらしい。
びしょぬれの制服で、いつものように背筋を伸ばして近づいて来る彼を見て、彼女は目を大きく見開く。
しかしそんな彼女の所には行かず、跡部は足元に転がっているボールを拾い始めた。

「――いつから?」
「最初から」
「……性格悪い」
「今さらだろ」

拾ったボールをカゴに入れ、また散乱したボールを拾う。
二人で黙々と。

「やっぱり、君の試合は見たくなかったよ」

最後のボールを片付け終える時、が独り言のような小さな声でそう言った。
だんだん大きくなってきた雷鳴にかき消されそうなそれを、跡部は聞き逃さない。
けれど、聞こえなかった振りをして、カゴとネットを持ち上げた。

「……こんな恰好じゃ、打ち上げなんて行けねーな」
「打ち上げ?」
「忍足がお好み焼き屋に行くって、張り切ってた」
「あははっ、忍足くんらしいね」

いつものように笑う
やっぱり、は笑っている方がいい。
跡部がそう思うのと同時に彼女自身も、こうやって笑える自分に安堵していた。
そして咄嗟に、前を歩いていた跡部のシャツを掴む。

「――ありがとう」

口をついて出た言葉が、いったい何を意味しているのか、自身にもよく分からなかった。
でも、何かを言いたかった。
跡部の足が止まる。
手に持っていたカゴやネットを地面に置く様子を、が後ろで首を傾げつつ眺めていると、クルリと振り返り、彼女の首にかろうじて巻き付いていたネクタイをグイと引っ張った。
彼女には、最初何が起きたのか分からない。
ただ、直前に見た彼の挑戦的な目と、その柔らかい唇の感触だけが残った。