テイコウ 5




次の日、は熱を出して休んだ。

「全身ずぶ濡れで帰って来たって……一体何やってたんだか」

渡したいものがあったので彼女の教室まで行ったのだが、会えたのは偶然廊下にいた河野だけ。
そう言ってやれやれとため息をつく河野に、跡部は罪悪感を隠しつつ肩を竦めた。

「渡したいものって?俺が代わりに預かっておこうか」
「いや……出来れば直接渡したい」
「ふうん?」

意地悪い笑みを浮かべる河野のことは無視して、手に持っていた封筒を持ち直す跡部。
なるべく早い方がいいけれど、休んでいるのなら仕方がない、明日にするか。
そう思って戻ろうとしたとき、河野が「じゃあ、帰りにあいつの家に行ってみたらどうだ」と言いだした。

「――え?」
「待ってろ、今、地図を描くから」

急ぐんだろう?
そう言って、河野は最寄の駅からの道を書いたノートの切れ端を跡部に無理やり渡す。
一瞬判断に迷った跡部は眉根を寄せたが、素直にそれを受け取ることにした。




「――もう!こんな狭い住宅地にあんなデカイ車で乗り付けないでよ!」

放課後、跡部が家に行くと、彼女はもう熱は下がったらしく、そう言いながら頬を膨らませた。
の家の近所にもそこそこ大きな家はあるし高級車は走っているけれど、跡部の家のような車はそうそう見ない。
玄関の前に止まったその黒塗りの車を見て、彼女の母親はこれ以上はないというくらい動揺していた。
家がすぐ隣りだからと、結局一緒に乗って来た河野は「広くて快適だな」などと暢気な感想を述べていたが。

「随分元気そうじゃねーか」
「そう言う景吾くんは、大丈夫だったの?」
「そんなヤワな鍛え方してねーよ」
「それはそれは、ヤワですいませんねー」

憎らしげな顔をして舌を出すに、跡部は苦笑いを浮かべ、鞄から白いA4サイズの封筒を取り出して彼女に差し出した。

「どうするかは、お前次第だ」

その言葉に首を傾げつつ、は目の前に差し出された封筒を手に取る。
中に入っていたのは、ドイツ語と英語で書かれた冊子で、の眉間の皺は更に深くなった。

「……これは?」
「リハビリ施設のパンフレットだ。有名な所だからお前も知ってるんじゃないのか?」

跡部のその言葉に表紙をまじまじと見る。
確かに、それは有名過ぎるくらい有名な場所だった。
数々の著名なスポーツ選手が、ここで治療を受けて復帰しているはずだ。
けれど費用の面や、紹介が必要だったりして、今まで彼女の選択肢からは外れていた。
それ位は跡部も予測済みで、涼しげな表情で紅茶を飲む。

「費用なら心配する必要はないし、お前が入りたいって言うのなら、すぐに手配してやる」
「ちょ、ちょっと待ってよ、何で……」
「一番のお前の障害って言えば、語学力だけだろうが――そんなの、何とかなるだろ」
「どういうこと?話が見えないよ」
「見えなくない。お前は諦めてないんだろう」

自分を真っ直ぐに見返してくる跡部の真意を図りかねて、の眉根は寄ったまま。
けれど、その目の奥の輝きが変化したのを跡部は見逃さなかった。

「勘違いするな。これは同情じゃない。あのサーブを見て、俺が、あんたと対戦したくなっただけだ」
「え……と、まさか、たったそれだけのために、費用を出してくれるとか言うの?」
「この俺様が対戦したいと思う奴は滅多にいないんだよ。この機会を逃したくないだけだ」
「……ムチャクチャだ」
「援助されるのが嫌なら、後で返せばいい」

カップをソーサーに戻し、彼女の手からパンフレットを取り上げる。
呆然としている彼女に、口角を上げる跡部。

「お前は、この機会を逃すのか?お前のテニスへの思いってのは、その程度のものかよ?」

そんな挑発をするまでもないと、彼自身も分かっていた。
でも、勢いは必要だ。
はぐっと口を噤み、跡部からパンフレットを奪い返す。

「……返し終わるの、いつになるか分からないよ」
「ま、プロんなって全英オープンでちょっと優勝したら返せるんじゃねーの?」
「わざと意地悪言ってるの、それ?」
「言ってねーよ。それ位目標にしてもいいんじゃねーか?」

上目遣いに睨むに、笑う跡部。
けれど、その目には嘘は含まれていなかった。
ムチャクチャだ。
やっぱりは思う。
でも、悔しいことに彼女の心はもう決まってしまっていた。




、忘れ物はないよな」
「あんた、の父親みたいだな」

呆れて言う跡部に、河野はジロリと抗議の目つき。
実際のの父親は仕事でここ――空港には来ていない。

「パスポートとカードがあれば何とかなるだろ。どうせ向こうに着いたらずっとリハビリセンターにいるんだ。食い物に困ることもねーし」
「跡部って案外楽観的だな」
「あんたが心配性なんだろ」
「ホント、二人って仲がいいよね」
「どこが」

の感心したような台詞に、跡部と河野の声が同調した。
やっぱり、仲がいいんじゃない?
はそう思ったけれど、口に出さないでおいた。

あれから数日後、達は空港の出発ロビーにいた。
跡部は自分が見送りに行くなんてガラじゃないと思っていたけれど、気が付いたら高速に乗っていた。
良くも悪くも、彼女の結果が出るまでには、きっと何ヶ月もかかるだろう。
さすがに今回は盲腸の手術と言ってごまかすわけにもいかない。
テニス部員は話を聞いて最初は一様に寂しそうな顔をしたが、皆「頑張れよ!」と明るく送り出した。

数ヶ月後には、昔のようにテニスが出来るようになっているかもしれない。
全然変わらないかもしれない。
彼女は今までもこう言うことを繰り返してきた。

「そろそろ行った方がいいんじゃねーか?」
「あ、うん。そうだね!」
!向こうに着いたらメールよこせよ!」
「分かってるよー。もう、ホントにパパみたい!」

可笑しそうに笑うに、河野はため息をついて彼女の髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
今まで、ずっと彼女を一番近い場所で見て来た。
心配するのは当然だ。
――けれど、これからは、一番近い場所に居るべきなのは、自分じゃないのかもしれない。
もう一度ため息をつき、河野はその場を去る。
その後ろ姿を見送り、目が合うと跡部。

「――まあ、心配はしてねぇけど。どうしても辛いことがあったら連絡して来てもいいぜ」
「……絶対連絡しない」

声を低くしてそう言う彼女に、跡部はわざと意地悪い笑みを浮かべた。

「ま、とりあえず、行って来い」
「うわっ、すごく適当な感じ!」

でも景吾くんらしい。
笑って言う彼女に、どんな言い草だと不満げに眉を上げると、はさらに笑った。

「そう言えば、結局景吾くんの必殺技って見てない気がする」
「帰って来たら見せてやるよ」
「うん、じゃあ、とりあえず行って来るよ」
「……真似すんじゃねーよ」
「面倒くさいなー、もう」
「てめーに言われたくねーよ、てめーに」

あはは、といつものように明るく笑い、鞄を肩にかける。
でも、これくらいが私達らしい。
は思う。

「帰ったら、勝負だよ!」
「ああ」
「ま、ダメだったとしても、サーブだけで勝負だ!」
「調子乗ってんじゃねーよ」

彼女の鞄をぐいと引っ張る跡部。
けれど、の方が跡部の唇に重ねる方が早かった。

「この前の不意打ちのお返しだよ!」

そう言って、少しだけ顔を赤くして笑い、は跡部に背を向けた。