テイコウ 3




河野と少し話をしたせいか、跡部は忍足に話を聞いた時よりも幾分冷静さを取り戻していた。
自分の発した台詞は取り消すことは出来ず、罪悪感が消えることはなかったが、それを彼女の前で表に出さないように細心の注意を払った。

は変わらず練習には欠かさず顔を出している。
決して練習そのものに口を挟むことはなかったけれど、跡部の方から意見を求めることもあった。
基本的な部分で二人の意見が分かれることはなかったし、彼女の口から出たものの方が上級生に受け入れられやすい。
別に先輩に気を遣うつもりはないが、どうせ同じ意見なのであれば、余計な摩擦なく聞き入れられた方が面倒がなくていい。
そう考える跡部に対して、彼女の方も自分に求められている役割は心得ているように見えた。
普段の会話は相変わらずだが、そう言うところは相手の気持ちを読むらしい。

「いい加減出し惜しみしてないで、見せてくれてもいいと思うんだけど。必殺技」
「必殺技っつうのは、滅多に出さないから必殺技って言うんだよ」
「練習しとかないと、いざと言う時に使えないよ!」
「余計なお世話だ」

普段の会話は相変わらずだが。
ため息をつく跡部に、口を尖らせる
たまに彼女をなだめに入る河野。
休憩時間のコートでは、そんな三人の構図がすっかり出来あがっていた。




ある練習がオフの日、跡部が放課後に図書館へ行くと奥の書棚脇にいるを見つけた。
哲学書の分厚い本を広げ、顔にかかる髪を鬱陶しそうに耳に掛ける。
隣りの窓から僅かに入り込んでくる夕陽の光が、彼女の顔に繊細な陰影を形作って、跡部は不本意にもしばし見惚れてしまった。
黙っていれば、それなりに見えるのに。
我に帰った跡部は、慌ててそんな毒を呟き、小さい咳払いをする。
するとその声に気づいた彼女が顔を上げ、跡部と目が合った。

「あれ。新部長くん」
「――あんたでも哲学書なんて読むのか」
「ギリシア哲学は退屈しのぎにいいって知り合いに聞いたから探してたんだけど。君のお勧めとかある?」

退屈しのぎにギリシア哲学なんかを勧めるヤツがいるのかと内心呆れながら、跡部は自分の読んだことのある本を何冊か棚から探し出して取り出した。
そんな跡部の様子を見て、はちょっと感心したように目を見開く。

「君ってそんなに読んだことあるんだ。昔そんなに退屈だったことがあるの?」
「……俺は別に退屈しのぎに読んだんじゃねーよ。興味があったからだ」
「ふーん」

こんなものに興味を持つ跡部が信じられないとでも言いたげに肩を竦め、手渡された本をパラパラと捲る
伏せられた睫毛は思ったより長くて、そう言えばこんなに近くで彼女の顔をじっと見つめることなんて初めてだったことに気が付く。
そしてすぐに、そんなことに気付いてどうするんだと自分を揶揄し、ため息を吐いた。

「あんたは、そんなに今退屈なのか」
「うん?うーん、昔よりはね。勉強するって言っても限界あるし、他の趣味って言っても今いちピンと来ないし。だから本読んでる」

他の趣味。
その「他」と言うのは、やはりテニスに対する「他」なのだろうか。
そんな愚問が頭に浮かんだが、もちろん口に出して聞くことはなく、跡部はただ彼女がページを捲る指を眺めた。
2ページ、3ページ、捲られた後にピクリと彼女の指が止まる。

「君は何を借りに来たの?」
「ああ……俺はちょっと小説を」
「小説?へー、君でもフィクションを読むんだね」
「どういう意味だよ?」
「現実主義者って感じだから、そう言う作りものにはあんまり興味ないのかと思った」
「別に現実主義だからって小説を読まねーことはねーだろ。いい文学は心を豊かにする」
「……ほんと、君って面白いよね」
「てめー、馬鹿にしてんのか」

いやいやそんなつもりはないよ、と抑揚なく言う彼女。
跡部はそんなをジロリと睨んで腕を組んだ。

「で、小説って何の?」
「ああ……昔英訳されているのを読んだことがあるんだが――」

跡部が本のタイトルを言うと、は「それ、私持ってるよ!」と嬉しそうに笑った。

「ふーん、あれ、英訳なんて出てるんだ」

そう言って彼の手を引っ張り、小説の並ぶ棚へ連れて行く。
ねーねー、あの部分って英語だとどうなるの?そんな会話をしながら二人で目的の本を隈なく探したが――見つからない。
検索をしてみたら、貸出中となっていた。

「あらら……残念」
「まあ、別に急いでるわけじゃねーし」
「じゃあ明日持ってきてあげるよ、たぶん本棚のどこかに埋まってると思うから」
「……あんたが?」

別に急ぐわけではないから本当は返却されるのを待って図書館で借りればいいのだが、跡部は彼女のその好意を素直に受け取ることにして頷いた。
とりあえず、今日の図書館での用事は済んでしまった。
跡部は小さく肩をすぼめ「それじゃ、俺はこれで」とその場を去ろうとする。
が、が「ちょっと待ってて」とその腕を掴んで引き止めた。

「これ借りてきちゃうから。一緒に帰ろう」
「――え?」
「もう帰るんでしょ?私も帰るから。それとも何か用事ある?」
「いや、そういうわけじゃない……」
「じゃ、寄りたい所もあるから、付き合って?」

普段、跡部は行きも帰りも車を使用している。
もちろん今日だって、何も問題なければ校門の前まで迎えが来るだろう。
しかし彼女の「寄りたい所」に多少興味が湧いたこともあり、この申し出にも素直に頷くことにした。
そして何より、こんな風に人に誘われることが新鮮だった。
最近は忍足を初め同じテニス部のメンバーが話しかけてくるようになったが、それでも彼に対して普通に話しかけてくる人間は極少数だ。
それ自体跡部はどうとも思っていないけれど、こうやってに誘われるのは――悪くない。
カウンターの方へ早足で向かう彼女の後姿を目で追いながらそんなことを思い、前髪をかき上げた。




「――で、寄りたい所って言うのはここかよ」

冷ややかな目つきをする跡部が今立っている場所は、駅の近くにある公園の中。
そして目の前には全面をピンクに塗装した車が止まっており、中から甘い匂いが漂っている。
車の側面には、写真入りのクレープのメニュー。

「最近ここに来るようになったんだって。クラスの子達が話してて私も来たかったんだけど、なかなかチャンスがなくて」

そう言いながら、店員から受け取ったクレープの一つを「はい」と跡部に手渡した。
彼はクレープなどいらないと言ったのだけど、が勝手に適当なものを注文してしまったのだ。

「こう言うのは人と一緒に食べるから美味しいんだよ」
「なら、あの河野と食えばいいじゃねーか」
「ああ……あいつねぇ、甘いものがダメなんだよね。ホント、つまんないったら」

幼なじみを散々に言い、は笑いながらスタスタと公園の奥の方へ入っていく。
そして適当なベンチを見つけて座り、前に立ったままの跡部を見上げて「座らないの?」とでも言いたげに肩をすぼめた。
本当に、好き勝手やる女だ。
ため息を吐きながらも、跡部も大人しく彼女の隣りに腰を下ろす。

「俺は甘いものがダメじゃないのかとか考えなかったのか?」
「ああ、そっか!そう言う可能性もあったね!」

特に反省する様子なく手元のクレープに齧りつく。
「あ!すっごく美味しい!」と嬉しそうに言いながら。
別に跡部も甘いものは嫌いではない。
こういうお店のクレープを食べるのは初めてだが。
手渡されたチョコレートのクレープを一口齧る跡部。
隣りで美味しそうに食べている彼女に影響されてか、結構美味しいものなんだなと感心する。

「そう言えば、あんた、盲腸だとか言ってたけど、もう大丈夫なのか」
「もうちょう!?」

以前コートで他のテニス部員と話していたときと同じような、素っ頓狂な声を上げる
そう言えばそんなことになっていたんだっけと思い出し、ふうと息をついてまたクレープを一齧り。

「盲腸じゃなくて、本当はリハビリ施設に行ってたの」
「え?」
「まあ、結局そこじゃダメだってことが分かったんだけどね」

乾いた笑いが、近くで遊ぶ小さい子供の声にかき消される。
飄々とした口調が、暗に別に大したことじゃないのだと主張しているようだ。
無言で二口三口と齧り付く様は、そんな必死の主張を無駄なものにしていた。
しかしここで跡部が暗い声を出すことを彼女は望んでいないだろう。
この前、河野の言っていたことを思い出す。
同情すると、彼女は自分を傷つけるのだと。

「盲腸って言えば、河野の方が大変だったんだよー。昔、ただの腹痛だと思ってずっと我慢してたら盲腸でね。死に掛けてた」
「……笑い事じゃねーだろ」
「ホントにねー。あの時は笑い事じゃなかった。どんだけ忍耐強いのよって、今は笑い話だけど」

あははと言う笑い声は、また子供の声と重なった。
クレープを食べ終わった跡部は、包み紙を弄ぶ。
言うべきなのか、言うべきでないのか判断に迷う。
これを言うのは単に自己満足でしかないのかもしれない。

「――この前は、配慮の足りないこと言った」
「うん?」
「女子テニス部に入ればいいって。……悪かったと思ってる」
「ああ!何?まさかずっと気にしてたの?案外いい子なんだね」

そう言って、いい子いい子と跡部の頭を撫でる
そんな彼女の手を、ガキ扱いするなと慌てて払いのける。

「君っておかしな子だよねー。すごぉく生意気だけど、真面目だし。テニス部の皆も、君にはムッカーってするみたいだけど、でも一番テニス部のこと考えてるのって君だったりするんだよねー。だから皆結局君について行っちゃうんだ」
「……それは、褒めてんのか、けなしてんのか」
「すんごく褒めてるでしょ!」

そんなことを疑問に思われるなんて心外だとばかりに、跡部にデコピンする。
やっぱり褒められてるのか、暗に怒られているのか分からない。
跡部は額を押さえて、非難がましくを見上げた。

「――入部して半年は球拾いだけなんて、馬鹿げた伝統だって思ったでしょ?一年の時は誰もが皆そう思うはずなのに、結局自分も同じことやっちゃうんだよね」
「……」
「河野もさ、入部した当時そこそこ強かったから、歯がゆい思いしてたみたい」
「……でも、本人はあんたに全然勝てなかったって言ってたぜ」
「それはねっ!私に勝とうなんて十万年早いけどね!」

あははと冗談めかして高笑いし、はクレープの包み紙を綺麗に折りたたみ、跡部の持っていたそれも奪う。
そして、当時の記憶を辿るかのように少し目を細めて遠くを見た。

「だけどさ、ああやって君みたいに先輩に堂々と歯向かう度胸はなくて。よく練習終わった後一人で素振りとかしてたよ」

だから、たぶん、君のことが少し羨ましかったんだと思う。
そう言っては遠くを見たまま小さく笑った。
きっと今、彼女が考えているのは跡部ではなく、あの河野のことだ。
その柔らかい笑みを見て跡部はそう悟り――心臓の奥のどこかに一瞬痛みが走った。
いや、気のせいだろう。
跡部は拳を握り、首を小さく振る。

「ま、だから何だってワケじゃないけど!とりあえず、まあそんな感じだから、あいつをコキ使っちゃっていいと思うよ」
「随分と無理やりな結論だな」
「え?そう?すっごく理路整然としてなかった?」
「……あんた、あのノート書いている時と別人格だろ」
「やだなぁ。そんなこと言うなんて、案外君ってファンタジー好き?」

ケタケタと笑うに、跡部はやってられるかとでも言いたげに、さっきとは違い大げさな位首を横に振りベンチから立ち上がった。
そして手を制服のポケットに突っ込もうとしたけれど、後ろを振り返りが立ち上がろうとしているのを見て――気まぐれを起こし、手を差し伸べる。
彼女も一瞬だけ驚いたように目を大きく見開いたけど、すぐにそれを細め、その手の上に自分の手を乗せた。
ひんやりとした彼女の手指に、跡部も僅かに驚いたけれど、そんな心の動きを読ませないかのように、その手をやや乱暴に引っ張った。

「新部長くんは紳士だね」
「……その呼び方、何とかならないのかよ」
「呼び方?」
「その、『新部長くん』ってヤツ。あんた、実は俺の名前知らねーんじゃねーのか?」
「そう言う君だって、私のこと、いっつも『あんた』って呼んでるでしょ。私の名前知ってる?」
「知ってるよ。……だろ」
「おお!いきなり下の名前で呼び捨てか!」

まるでいつかの会話のようにそう言って大げさに驚いた風に仰け反って見せ、が笑う。
でもその笑顔が何故かまともに見ることが出来なくて、跡部は少しだけ目を伏せた。

「じゃあ、私も君を景吾くんと呼ぼう」
「――それも、出血大サービスってヤツか」
「君も大分私との会話を心得てきたみたいだね」
「別に心得たくなんかねーよ」

そんなに意地張らなくてもいいじゃん。
そう言って手に持っていた包み紙を、近くにあったゴミ箱へ投げ入れ、彼の方を振り返る。

「ねー、景吾くん。……私のこともコキ使っていいからね」
「……言われなくても、そうする」
「うわ、やっぱり可愛いくない!」

憎まれ口に頬を膨らませる
跡部はやっぱりそんな彼女の顔をまともに見ることが出来なかった。