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(幸村さんがちょっと黒いです.ご注意を)




「幸村、お前さん、っちゅう子を知っとるか」

思いがけない人物から思いがけない名前を聞いて、俺は一瞬思考が停止した。
何で仁王がのことを?
部活の後、制服に着替える手を止めて振り返る俺に、仁王は少しだけ満足そうな顔をした。

「やはり知りあいか」
「えっ、マジっすか!?幸村部長とさんが?」

俺たちの間に入り込んで来たのは赤也。
赤也までを知っているって言うのか?
遠く離れた女子校に通うと二人の接点なんて思いつくはずもない。
俺は訝しげに、と言うよりは明らかに不愉快さを全面に出して眉根を寄せる。

「実は昨日会ったんじゃ。話の弾みで赤也がお前さんの名前を出したら僅かに反応しとったから、もしやと思ったんだが」
「昨日?に?」

昨日は少し早目に部活が終わって、仁王は合コンに行くと言っていなかっただろうか。
赤也まで「一緒に連れてって下さいよ〜」とついて行ってしまい、確か真田が思い切り渋面を作っていた。
が合コン?まさか。
あの子がそんなものに興味を持つわけがない。
俄かには信じられず、俺は仁王を睨みつける。
しかし彼は余裕の表情。

「どうやら人数合わせに連れて来られたと言った感じだったの。端っこで大人しくしとった」
「ふうん、そう」
「でも仁王先輩、色々話し掛けてましたよね。先輩の方から話しかけるなんて珍しいなぁなんて思ってたんスよ」
「なかなか興味深い子だったしの」
「可愛いかったですしねー」

俺は反射的にロッカーの扉を蹴る。
一瞬部室内はシンと静まり返ったけれど、俺は素知らぬ振りをして着替えを続けた。
シュルリとネクタイを襟の下に通す。
が可愛いなんて、そんなこと、分かり切っている。

「も、もしかして、部長のカノジョ……とか?」

懲りもせず、恐る恐ると言った口調で聞いて来る赤也に向って即座に否定したのは仁王の方だった。

「それはないだろ。昨日だって幸村のことは知らんと言っとった」
「……仁王」

ロッカーの扉を閉め、彼の名前を静かに呼ぶと、部室がまた水を打ったように静まり返る。
ゆっくりと振り返って、相変わらず食えない顔をした仁王を見据えた。

「彼女は俺の――大切な幼なじみだ。いい加減な気持ちで近づいたりしたら、承知しないよ」

俺は一応仁王に向かって言ったつもりだったんだけど、隣りに立っていたブン太の方がゴクリと唾を飲み込んでいた。
チラと視線を移した先の赤也も、青い顔をしている。
まあ――これで少なくとも赤也はにちょっかいを出そうなんてことは思わないだろう。
俺は視線を仁王に戻す。

「そんなことは分かっとるよ」

しかし肝心な仁王には、俺の言葉の効果があったかどうか。
――まあ、いい。
「お先」と出て行く彼の背中を見届けた後、俺はふうと息をついた。

「――か」

ポツリと彼女の名前を呟いたのは、俺の隣りにいた蓮二。
「どこかで聞いたことがあるな」と、自分の記憶を辿ろうとしている。

「気のせいだろ」

俺は何てことないようにそう言ったけど、きっと明日には色々と彼女の情報が引き出されてしまっていることだろう。
彼女のことを調べるのは、それほど難しいことではないから。




物心ついた頃から、ラケットとはいつも一緒だった。
二人で黄色いボールを追いかけている時が一番楽しかった。
俺が思うようにテニスが出来なくて苛々していた時、は黙ってずっと隣りにいてくれた。
がスランプに陥りかけた時、二人で一緒にもがき足掻いた。
俺たちは幼なじみで、戦友で――その関係がずっと続くと思っていたのに。

「幸村。……先ほどのと言うのは、あの子の、ことなのだろう?」

部室を出て校門の方へと向かう途中、さっきから何か言いたげだった真田が躊躇い気味にそう問いかけて来た。
そうか、真田は以前テニスクラブで彼女に会ったことがある。
打ち合う前は細身な彼女を見て「このようなか細い腕で、テニスなど出来るのか」なんて言ってたのに、いざゲームが始まったら随分と苦戦していたっけ。
ふふ、と思わず笑いを漏らすと、真田もその時のことを思い出したのか苦々しい顔をした。

「真田、あいつらに余計なことは話さなくていい」
「それは無論だ。しかし合コンとは……あいつはテニスをやめてしまったと言うのは、本当なのか」
「ああ、本当だよ。中学へ入る前にやめている」

自分から確認しておきながら、真田は俺の言葉に納得のいかない顔。
小学生の時とは言え、自分とそれなりにいい勝負をしていた彼女が、すっぱりテニスをやめてしまったと言うのは、やはり認めたくないものなのか。
そうだな、俺だって認めたくない。
ずっと一緒だったのに――はっきりした理由も知らされずいなくなってしまうなんて。



帰り道、彼女の家の前を通る。
たいていは彼女の部屋に明かりが点いていて、いつもちょっとだけホッとしながら、そこを通り過ぎる。
今日もそこには明かりが点っていた。
立ち止まり、彼女の部屋を見上げながら一瞬考える。
いや、こう言うのは色々と考えるより、まず確かめた方が早い。
俺はテニスバッグを肩に掛け直すと、玄関へと向かった。
数か月ぶり――いや、もしかしたら数年ぶり位のインターホン。

「あらあら。まあ、精市くん?」

あまりに久し振りで、不義理をなじられても文句が言えないほどなのに、おばさんは昔と全く変わらない様子でニコニコと俺を迎えてくれた。
開いた玄関のドアからは、夕飯のいい匂い。

「まあ……ちょっと見ない間にまた大きくなったんじゃない?」

エプロン姿で懐かしげに見上げて来るおばさんに挨拶をして、俺は遠慮なく上がらせてもらった。

「ちょうど今ご飯の支度を始めた所なんだけど、精市くんもよかったら食べてらっしゃいよ」
「ありがとう、おばさん。でもうちでももう準備してると思うから」

ああそうね、と残念そうな顔をするおばさんにニコリと笑みを返して、目の前の階段を見上げる。

は……帰ってる?」
「ええ、部屋にいると思うわ。部屋の場所は前と同じよ?後でお茶を持って行くわね」
「ありがとう。でもすぐ帰るから」

キッチンの方へと消えて行くおばさんから、また階段の先へと視線を戻して、慎重な足取りで上って行った。
パタンパタンと小さく音を立てるスリッパ。
絶対、彼女は俺の来たことに気付いているはずなのに、部屋から出て来る様子はない。
廊下も慎重にゆっくりと歩き、彼女の部屋の前に立つ。
中から物音は全く聞こえて来ない。
ノックして返事があるかどうか。
俺は大して期待しないまま、ドアを軽く2回叩いた。
案の定、中は静かなまま。
俺が彼女の名前を呼ぼうと口を開きかけた時、ようやく短い返事が聞こえて来た。

「――はい」
、俺だけど――入るよ」

静かに、でも拒絶を許さない声でそれだけ言い、ドアノブを回す。
けれどそれを押す前にカチャリとドアが開いて、彼女が姿を現した。
実際、彼女をこんなに間近で見るのは久し振りだ。
ドアに掛けられたほっそりした白い指も、戸惑いがちに向けられた瞳も、何か言いたげに少しだけ開かれた赤い唇も。
何もかもが、この前会った時より「女性」のものに思えた。
思わず言葉を失った俺は、彼女の「精市」と呼ぶ声で目を覚ます。

「話が、ある」
「うん」

もしかしたら、今日俺が来ることを予想していたのかもしれない。
は小さく頷いて素直に俺を中に入れた。
控え目ながら、女の子の部屋の匂い。
昔は教科書とラケットとぬいぐるみが乱雑に置かれていたのに、今は可愛らしい雑貨が綺麗に棚に並べられて、ベッドにはきちんとカバーが掛けられて――ラケットは1本もなくて。
まるで普通の女の子の部屋のようだ。

「精市、また大きくなった?」
「ふふ……おばさんと同じことを言うんだね」

笑いながら、昔の癖で机の椅子を引いて、そこに腰掛ける。
そして彼女も以前と同じように、クッションを抱えながら少し離れた床にぺたりと座った。
自分の部屋なのに、どことなく所在なさげな様子。
俺は机に肘を突き、そんな彼女の様子を暫く観察した。
おばさんが紅茶とお菓子を置いて行ってくれた後も、お互いじっと同じ体勢のまま。
俺は一度椅子から立ち上がり、紅茶の入ったカップをソーサーごと手に取る。
そしてまた椅子に戻った後、カップに顔を近づけて香りを楽しんだ後、ゆっくりと口をつけた。

「昨日、うちの学校の連中に会ったらしいね」
「……うん」
「合コンだなんて、おじさんが知ったら何て言うかな」

わざと笑いを含んで言ってみても、彼女は目を伏せたまま。
ぎゅっと抱えられたクッションの形が変わる。

がテニスをやめてやりたかったのって、こんなことなんだ」

挑発しても、は僅かに唇を噛み締めるだけで、言い返して来ない。
ここで声を荒げた方が負けなんだ。
俺は苛立ちをいつものように笑みで蔽い隠した。

「お嬢様学校に入って、放課後は男漁りか。人間変わろうと思えば変われるもんだね」
「……」
「けど、仁王や赤也に取り入ろうなんて考えない方がいいよ。なんて適当に遊ばれて捨てられるのが落ちだ」

慎重に、彼女の傷付く言葉を選んで。
悪趣味な自分に、口元が歪む。
けれど、俺はどうしてもに後悔させたかった。
テニスを――俺を捨てて、代わりに得ようとしたものって、そんなもの?

「……別に、仁王くんたちに対してそんなこと考えてもいないよ。連絡先だって知らないし」

ようやくノロノロと開いた彼女の口から仁王の名前を聞いて、言いようもない苛立ちが湧き上がって来る。
膝の上に置いていたカップが、僅かに震えるのが分かった。

「――そう。それは賢明だね。それとも他に目当ての男がいるのかい?」

彼女が手にしたカップも同じように震える。
そう、だって冷静さを装ってはいても、これだけ言われれば怒りを感じずにいられるはずがない。
俺の笑みは少しだけ満ち足りたものに変わり、幾分余裕を取り戻せた気がした。
カチャリと音を立てて、がカップをテーブルに戻す。

「心配しなくても、誰も目当てにしてないから。話はそれだけ?もういいでしょう、帰って」

さっきまで真一文字に結ばれていた唇から、ぽろぽろとキツイ言葉が零れ出す。
身勝手だと知りつつも、俺はムッとした表情を隠すことなく、しかし馬鹿が付く位丁寧に、カップをテーブルに置いた。
「もう帰って」と言うを、じとりと睨む。
けれどそんな俺の視線なんか全くお構いなしに、彼女は俺の腕を引っ張って無理やり椅子から立ち上がらせようとした。
シャツにほんの少し食い込んだ彼女の指は――いつの間にこんなに細くなってしまったんだろうか。
それを強引に引き剥がして手の平を見れば、マメ一つない柔らかい皮膚。
昔はマメだらけで、あんなに固かったのに。
恥ずかしい――なんて言ってたのにね。
俺は思わず彼女のその手の平を舐めて、そして指を噛んだ。

「――っ」

そんなに痛くしたつもりはなかったけど、あまりに憎たらしくて、ちょっと加減を誤ったかもしれない。
は小さな声を上げて、俺の手を振り払った。
うっすらと涙を浮かべて、僅かに頬を紅潮させて。
そんな顔を見せられると――もっと苛めたくなるよ。

「――帰って」

激情を必死に抑えた、低い声。
俺は口の端に笑みが浮かぶのを堪え切れない。

「酷いな、幼なじみを心配して忠告に来たって言うのに」

猫撫で声って言うのは、きっとこう言う声のことを言うんじゃないかな。
そんなことを自分で思いながら、にっこりと優しく笑う。
もう我慢の限界。
そう言いたげな目をして、俺を睨みつける

「私のことなんて――どうでもいいくせに」

何、それ。
どうでもいいと思ったのは――俺を捨てたのは、の方だろう?