mots manquants 4




「もう、やめようと思う」

最後の試合の後、は俺に向ってそう言った。
あの初戦――はまるでテニスを忘れてしまったかのように全く動けなくて。
見るに見かねた監督が途中で棄権を申し出た。
今までにだって、何度もスランプに陥りかけたことはある。
俺も、も。
今回の様子はちょっと今までとは違ったけれど、でも、きっとまたすぐに元に戻る。
一緒に練習さえ続けて行けば。
そう思って、いつもと変わらない調子で彼女に声を掛けた。
「また頑張ろう」って。
けど、返って来たのはそんな言葉。

「もう、何だか嫌になっちゃった」
「は――?何言ってるんだよ、。冗談だろ?」
「冗談なんかじゃないよ」

淡々とした顔で、目の前のコートを見つめながら。
そんなとは対照的に、俺は頭がおかしくなりそうだった。
問いただすまでもなく、の目が、本気だって言っていたから。

ずっとずっと一緒だったのに――はそんな一言で、簡単に捨てられるの?

「冗談じゃないって言うなら何だって言うんだよ!?まさか、これくらいのことで嫌になったって言うの?たったこれだけのことで――」

また一緒に頑張ればいいじゃないか。
心の中では必死にそう叫んでいたような気がする。
けれどそれは全く言葉として出て来なくて、を責めるような台詞しか出て来なかった。

「甘えるなよ!」
「――精市には、分からない!」

散々なじって。
そんな俺が最後に吐き捨てた台詞に、それまでムカつく位冷静に見えたが、最後の最後に見せた激情だった。
その目には、憎悪さえも湛えて。
俺は言葉を失って――絶望して、走り去って行くの姿を呆然と見つめるしか出来なかった。




「――精市は、彼女の父親を知っているのだろう?幼なじみなのだから、もちろん」

蓮二の言葉に、俺は眉根を寄せることしか出来ない。
いきなりこいつは何を言っているんだ?

「……知って、いるさ」
「そうか」

けれど、知っているだけだ。
実際のところ、おじさんとは殆ど会ったことがなかった。
テニスの大会とかには大抵おばさんとかお祖父さんが来ていたし。
おじさんは仕事で忙しい人で――それに、彼女がテニスをすることにあまり賛成ではなかったから。

「彼女がテニスを始めた切欠は知っているか?」
「きっかけ?」

思わず聞き返す。
俺たちにとって、テニスは既にそこにあるものだったから。
俺自身のきっかけだって、ハッキリしたものはよく分からない。

「以前、雑誌の取材に答えているのを記事で読んだが、お祖父さんが彼女にラケットとボールを与えたのが切欠とのことだった。……間違いないかな」

蓮二が振り返ると、は無言のまま小さく頷く。
そう言えば、そんなことを言っていた気がする。
俺は嫌な予感がする。
そうだ。
それ位、蓮二じゃなくても、推測は出来たからだ。
おじさんはテニスを本格的にやることは反対だった。
お祖父さんはあの大会の前に他界してしまった。

「――これは、俺の憶測だが」

蓮二が俺の方を向き直る。
その後、彼の口から説明された内容は、俺の頭の中に描いたものと大して違わなかった。

さんは、あの大会の前に父親と約束をさせられたのではないだろうか。今度の大会でいい成績――もしかしたら優勝に限定されたかもしれない――それを収められなかったら、もうテニスをやめろ、と。小学生の子供に拒否権などなかっただろう、調べた限り彼女の父親はビジネスでもなかなか厳しい人物のようだ。結果を残せねば意味がない、精市もよく言っている言葉だ。もちろん彼女だって小さい頃からそのような勝負の世界にいたのだから、それ位の覚悟はあっただろう。そして、自分の未来を賭けて試合に臨んだ」

の手が、震えるのが分かった。
あの試合を思い出しているのだろうか。
まともにサーブも入らない、レシーブも打てない、あの地獄のような試合を。

「しかし――結果は精市も知っている通りだ」

しん、と静まり返る。
周りでは子供のはしゃぐ声が飛び交っているはずなのに、このコートの上は完全な沈黙が支配していた。
そんなこと、知らなかったんだ。
そう言うのは簡単だ。
何で言ってくれなかったんだと、なじることも。
一言相談してくれればと――気休めのようなことを言うことも。
今のように、少し考えれば分かりそうなこと。
何であの時の俺は、分からなかったんだろう。

「情報を集めて総合的に判断すれば、このような推測を導き出すのは決して難しいことではない。けれど――もちろんこれも推測だが――当時の精市からしてみれば彼女がテニスをしていることは空気を吸うのと同じ位ごくごく自然なことで、そんな彼女から誰かがテニスを取り上げるなどと思ってもみなかった。違うだろうか?」

悔しいことに蓮二の言うとおりで、俺は黙っていることしか出来なかった。
あの頃は、テニスが思うように出来ないことで悩むことはあっても、テニス自体が出来なくなるかもしれないと悩むなんて――想像もしていなかった。
あの病気を経験した今の俺は、そう言う危機は日常的に、暴力的に、起こりうると知っているけれど。
昔から、おじさんがあまりテニスをするにいい顔をしていないことは知っていた。
けれど、そんなのは大したことじゃないと勝手に決め付けていたんだ。

「テニスが嫌になったと言う彼女の台詞。本当はそんなものは本心ではなかったけれど、裏切られたと、捨てられたと思い込んだお前には見抜くことが出来なかった」
「……」
「きっと彼女の言葉に、精市は甘えるなと責めただろう。本当に言いたいことは別にあったはずなのに、その表面的な言葉に傷ついた彼女は耳を塞いで拒絶した」

も、目の前で口を噤んだまま。
蓮二はそこまで言い終わると、ふうと小さく息を吐いた。

「精市。これでもまだ話をする必要性は感じないか」

いつもの、冷静な口調なまま、蓮二が問う。
俺は目を閉じ、ゆっくりと、慎重に、深呼吸をした。
目を開く。
そこには、微かに震えたままのの姿。

「――蓮二。いつからこんなにお節介になった?」
「そうだな……恐らく中学に入ってからだ。何せ周りには何でも出来る割に不器用な奴が多いからな」
「なっ、なぜそこで俺の方を見る!」

顔を赤くして蓮二に抗議する弦一郎。
俺も、さすがに弦一郎よりは器用だと思うけど。
思わず笑みが漏れる。

「でもやっぱりあまりいい趣味とは言えないね」
「自覚している。――が、幼なじみと互いに誤解したままと言うのは、やはり悲しいものだ」

口の端に微かな笑みを浮かべてそう言った蓮二は、そのまま真田と共にフェンスの外へと出て行ってしまった。
続けて仁王が赤也を引きずって行く。

「ほら、俺たちも行くぜよ」
「ええっ!これからがイイ所なんじゃないんスか!?」

未練たらたらな様子で引き摺られていく赤也。
彼らが去り、そこに二人残された俺とは、黙ったまま視線を交わした。
昔は家族よりも長く一緒にいた二人で。
それでも、やっぱり言葉って言うのは、必要だったんだろうか。

「――本当は」

彼女の手を取る。
さっきの今だ、警戒しない方がおかしい。ピクリとその指が動いた。
まだ赤みの取れないその手首をソロリと唇でなぞると、またピクリと反応する。

と一緒にいたかった。……それだけだったんだよ」

テニスを続けていれば、君と一緒にいられる。
テニスをやめれば――離れてしまう。
そんな風に、単純に思っていたから。
でも、きっと君も同じように思ったんだろう?

「私も――」

手首に唇に触れたままの俺の頬へと、躊躇いがちに彼女の細い指が伸びて来る。
そっと撫でた彼女の指は、やっぱりまだ微かに震えていた。

「精市と、一緒にいたかっただけだったの。……でも」

テニスが続けられなくなって、一緒にいられなくなると思った。
痛々しい声と共に、の目から涙も零れ落ちる。
あの時も、一人で泣いたんだろうか。
俺はそれを拭わずに肩を抱き、そのまま自分の方へと引き寄せた。

「――

こんなに小さかったのかな。
嗚咽する彼女の肩はあまりに細くて、今にも壊れそうだ。

「ごめん」

本当は、俺が一番の味方でいなきゃいけなかったのに。
ふるふると首を横に振る彼女。
俺はその髪をゆっくりと撫で続けた。