mots manquants 3
それからまた表向き平穏な日々が続いた。
仁王も柳も、誰もの名前は口にしない。
俺の中では何かが小さく燻ぶっている感覚があったけれど、そんなものは抑え込んでいた。
彼女のことで部活とか、自分の生活に影響が出るなんて愚かなことだから。
あの日以来、家の窓を見上げるのも止めていた。
「精市、ちょっと外に出て来ないか」
暫く経った後の、部活がオフの日曜日。
家で庭の花壇の手入れをしていたら、蓮二から電話があった。
俺の家の近くの古本屋に来ていると言う。
そこに蓮二が来るのは今日に限らずよくあることだったので、何も不思議に思わなかった。
今日のように帰りに俺を呼び出して近くの店でお茶をしたり、たまに俺の家に来たり。
そう言うことは今までにもよくあることだったから。
商店街の中にある古びた喫茶店に入ると、いつものように蓮二が奥の席に座っていた。
しかし読んでいたのは、先週学校で見たのと同じ本。
「あれ?今日は戦利品は無しかい?」
「ああ、だからせめて精市とコーヒーでも飲もうかと思ってな」
「ふふ、随分と勝手な言い草だ」
「まあそう言うな」
俺は蓮二の前に腰掛け、アイスコーヒーを注文した。
目の前でブラックコーヒーを飲む蓮二への嫌がらせのように、俺はたっぷりとシロップを入れてかき回す。
「相変わらずだな」と僅かに眉を顰める男に、俺は満足してストローを吸う。
いつもと変わらない日曜の午後だった。
けれど、店を出てから蓮二は珍しい台詞を口にした。
「天気もいいし、少し歩かないか」
てっきり帰るために駅へ向かうと思っていたのに、蓮二はそう言って反対方向へと歩き出した。
こいつは気まぐれにこんなことを言い出すタイプじゃない。
「何だよ、お説教か何か?」
暫く大人しく後について行って、遊歩道に差し掛かったところで俺が小さく笑いながらそう聞くと「何だ、説教されるような覚えでもあるのか?」と蓮二も笑った。
「この辺りは、いい所だな」
「そうだね、春は桜並木が綺麗だよ」
「ああ――そうか、これはすべて桜の木なのか」
蓮二が遊歩道の両脇に植えられた桜の木を見上げながら、感心したような声を上げる。
俺は思わずまた笑ってしまった。
「蓮二ならそれ位調べていると思ったよ」
「そうか」
「じゃあ、この少し先に大きな公園があるのは知っている?大きな池があって周りにジョギングコースとか――テニスコートがあるんだ。ジョギングコースはたまに走るかな」
以前はテニスコートもよく使っていた。
テニスクラブでヘトヘトになる位練習して、それでも物足りない俺たちは、よくそこを借りて打ち合っていた。
ほんの3年位前の話なのに、すごく昔のことのようだ。
随分と俺たちの距離は離れてしまった。
公園へ近づくと、子供のはしゃぐ声が聞こえて来る。
それに雑じってテニスボールの跳ねる音も。
最近はあまり使っている人を見なかったけど――そんなことを思いながら、公園の中へと入って行く。
池の周りには釣りを楽しむ数人の男たち。
そして奥のテニスコートには――
「……蓮二。君もグルなの?」
決まり切った台詞を吐く。それ以外に考えられないのに。
なぜなら、そこには真田と赤也の打ち合いする姿があったからだ。
そしてベンチには銀髪の男の背中。
隣りには――彼女の小さな背中。
「真田フクブチョー!もう勘弁して下さい!全然遊びじゃないじゃないっスか!」
「馬鹿もん!コートでは常に魂のぶつかり合いだ!」
ヘロヘロになってコートに寝そべる赤也。
その二人の相変わらずのやり取りに、今の俺は笑う余裕なんかなかった。
何で?何でがここに――テニスコートにいる?
手足の感覚がなくなる。
けど、何故か体は吸い寄せられるように彼らの方へと向かった。
「幸村――!」
真田の声なんか耳に入らず、俺は大きな音を立ててフェンスの扉を思い切り開ける。
振り返ったが、俺の顔を見て一瞬ぎょっとした目をした。
その顔にまた苛ついて、俺は容赦なく彼女の腕を引っ掴む。
「何、してるんだよ」
「……っ」
「幸村!」
声にならない声を上げる。
隣りで止めようとする仁王のことなんて、その時の俺の目には映らなかった。
「何を今さらコートになんか来てるんだよ?」
「おい、幸村……!」
「精市、手を放すんだ」
「うるさいっ!」
腹の底から、叫んだ。
こんなに怒りを覚えたのは久し振りだった。
そうだ、あの日以来かもしれない。
が最後の試合を棄権した日以来。
あの時も激しい怒りを感じて――次の瞬間、深い絶望を感じて。
「、お前はもうテニスなんか捨てたんだろう?今さら、のこのこやって来て、どう言うつもり?」
「幸村部長!放して下さいよ!折れちゃいますよ!!」
俺とは出来ないくせに――真田たちとは出来るって言うの?
もう嫌になったって言ってたのに。
俺の腕を掴んで、必死に叫ぶ赤也の声。
鬱陶しい――そう思った時、仁王の声が耳に響いて、ようやく、彼の存在を認識した。
「はテニスを捨てたりしとらん。……お前さんのことも捨てとらんよ」
力を緩めた隙に、赤也が俺の手から彼女の腕を引き抜く。
「……何を言っているんだい、仁王」
「捨てたのは……精市の方だよ」
「幸村もお前さんを捨てたりしておらんよ」
困った二人だ。
そう言いながら、仁王がやれやれと言った感じでの頭を撫でる。
怒りで、一瞬目の前が真っ赤になった。
「――に、触るな」
「酷い扱いをするくせに、独占欲は人一倍か」
「仁王、よせ」
「俺は怒っとるんよ」
「お前の言いたいことも分かるが、今日の目的は精市を怒らせることじゃない。二人で話をさせるためだ」
歯軋りをして仁王を睨む。
しかし蓮二の言っている意味が分からなくて、俺はそのままの視線を蓮二の方へ向けた。
「精市、お前は一度彼女とちゃんと話をした方がいい。感情的にならずに」
「俺はいつでも冷静だよ。それに、と話すことなんてない」
「そうやって逃げていては、二人とも先に進めないぞ」
「逃げてなんかいない。話をする必要性を感じないって言っているだけだ」
「――さん、君も精市に話すことはないか?」
蓮二がゆっくりとの方へ視線を向ける。
赤く痕の付いた手首をもう片方の手で掴んで、顔は俯いたまま。
「……ないよ。精市とはもう何の関係もない。昔馴染みってだけだもの」
「本当に?」
「本当だよ。……精市は、テニスの出来ない私なんて必要ないから」
吐き捨てるように発せられた彼女の言葉。
一瞬何を言っているのか分からなかった。
必要ない?何だよそれ。
「――冗談じゃない」
俺は視界がぐらつきながらも、何とか声を絞り出す。
物心ついた頃から、ラケットとはずっと一緒だった。
それなのに、君は俺もラケットも捨てたんじゃないか、あのとき。