mots manquants 5




「――ねえ。テニス、しようか」

どれ位時間が経過したのかは分からない。
嗚咽が治まった彼女の真っ赤になった頬を緩やかに撫でながら、俺はそんな提案をした。

「え……?」
「ほら、そこにラケットもあるし」

俺はベンチに立て掛けてあった真田と赤也のラケットを指差す。
どうせ彼らもそんな俺の行動を見越して、荷物を全部置いて行ったんだろう。
それなら有効に活用すべきだ。
まだ潤んだままの瞳に戸惑いを浮かべるに、俺は微笑を向ける。

「別にここで少しくらい打ち合っても、おじさんに殺されたりしないだろ?」
「う……うん、そうだけど、でも」
「なに?久し振りで怖い?」

ふふ、と笑いながらラケットを掴んで、に赤也のそれを差し出す。
おずおずとそれに手を伸ばして。
握ると、ほんの少しだけ表情が変化したように見えた。
嬉しそうな、緊張したような。
その顔が、今もテニスが好きだって言っている。
――本当に馬鹿だよね、こんな君がテニスを捨てたって、本気で信じてしまうなんて。
それでもなかなか動く気配のなかったに構わず、俺はコートの端に転がっていたボールを拾い、ポンポンと地面につく。

「ほら、早く」
「うん……」

反対側のコートに立ち、迷う様子を見せながらも膝を少し曲げて腰を屈める
一度覚悟を決めてしまえば昔の感覚を思い出すものなのだろうか。
ラケットを手に構えた彼女の視線に、俺は背筋がゾクリとした。

3年のブランクがどれ位のものかなんて知らない。
俺は手加減なしにサーブを打ち込んだ。
ボールがコートに刺さる音がするまで全く動けない
目を大きく見開く彼女は、そんな自分に驚いたのかもしれない。
そして次の瞬間にはさっきよりも鋭い視線。

「ふふ、すっかり忘れちゃった?」
「――そんなことないよ」

次のサーブには反応出来たけど、何とかボールを捉えたラケットはその威力に負けて弾き飛ばされてしまった。
彼女の握力も腕力も弱っていて、俺の方はあの過酷な環境で部活を続けているんだから、それ位は当然なんだろう。

「精市、強くなった?」
「これでも一応あの立海テニス部の部長だからね」

間抜けな彼女の問いにも、何だかふわりとした気分になる。
俺がクスクスと笑うと、もバツの悪そうに笑った。

の方は少しだけ勘を取り戻して――でもやっぱり身体は思い通りに動かない様子で。
俺はそんな彼女に少しだけ合わせて、でも、時々意地悪がしたくなって。
も隙あらばと攻撃を仕掛けて来る。
相変わらずだな、なんて笑いながら。
すごく長い時間だった気もするし、ほんの僅かな時間だった気もする。
ただ、あっと言う間に過ぎてしまって、空の色がオレンジ色に変わっていたことに気付かなかった。

「あいつは容赦ないのぅ」
「いや、そんなことはないだろう。十分手加減している」
「精市も動きにくい服装だしな」
「えーっ、あれでですか!」

いつの間にか皆が戻って来ていて、すぐ傍で好き放題言っている。
そしてネットの向こうでは数時間前の赤也のように、が大の字になって寝そべっていた。
お嬢様が台無しだな。
俺は呆れ笑いと共にネットを越えて彼女のもとへ行き、その手を引っ張った。

「――容赦ないよね」
「あれ、真田の言葉を聞いてなかった?すごく手を抜いてたつもりだけどね」
「……やっぱり容赦ない」

ジロリと抗議の視線を向けながらも、大人しく起き上がる。
俺は汗で彼女の顔に貼り付いた髪の毛を指でのけた。
さっきとは違う頬の赤み。

「精市」
「うん?」
「やっぱり、私――好きだ」
「……うん」

照れたように目を伏せて、微笑う
うん。俺も好きだよ。
やっぱりテニスは、楽しいから。




「でも、F女の制服、超似合ってたのにな〜。ちょっと残念ッスね」
「うちの高等部の制服も捨てたもんじゃなかろう」
「そうっすか?ま!でもこれからしょっちゅう会えるんスね!」
「いや、お前さんはそんなに会えんだろ」
「会えないだろうな」
「うむ」
「会わせないよ」

にっこりと笑って最後に俺の言った台詞に赤也は顔を引き攣らせたように見えたけど、俺は気にせず手に持っていたジュースを飲み干した。
卒業式間近の昼休み。
がうちの高等部への入学試験に合格したことを蓮二や真田に話していたら、耳聡く聞きつけたのか何か匂いでも嗅ぎ分けて来たのか、部活以外では滅多に声を掛けて来ない仁王が近寄って来た。
続けて赤也まで。

「しかし、よくF女から立海に移ることを両親が許可してくれたな」
「まあ、F女なんて結婚の時に受けがいいってだけだろ?あと合コンの時とか。ねえ、仁王?」
「……まだ何か根に持っとるんかの」

本気でそうとは思っていないけど。
俺は黙ったまま微笑った。
も俺も、立海に入りたいって言ったらきっとおじさんは反対するんだろうなと覚悟していて、でも許して貰えるまで二人で説得しようって話していた。
けど、おじさんは拍子抜けな位、あっさりと許してくれたらしい。

「テニスの一件以来、がすっかり元気をなくしちゃったから、お父さんもずっと気にしていたのよ」

おばさんがコッソリと俺たち二人にそう教えてくれた。
だから、彼女が「何かをしたい」と自ら訴えて来た時には可能な限り叶えてやろうと思っていたとのことだった。
テニスの方も部活程度ならまた始めて構わないとお許しが出た。

「高等部に入ったら、やっぱり女テニに入るんスか?」
「さあ、どうだろう?やっぱり3年のブランクは大きいから、うちに入ってもレギュラーは厳しいんじゃない?」
「そりゃ、お前さんたちみたいに、1年からレギュラーっちゅうのは無理だろうな。しかしそんな悲観せんでも――」
「レギュラーになれないんじゃ意味ないし、マネージャーにでもしようかと考えてるんだ」
「マネージャー?女子テニス部のか?」
「そんなわけないだろ、真田。男子の方だよ」

見当違いなことを言う真田に俺が冷たく言い放つと、隣りにいた蓮二が怪訝そうに眉を顰めた。
その向かいでは赤也がポカンと口を開ききっている。
仁王の呆れたような目には、ちょっとムカつきながらニッコリと笑って見せる。

「精市、それは彼女も同意しているのか?」
「うん?今説得中ってところかな」
「無理強いはしとらんだろうな?」
「ふふ……痛がることはしていないよ?」

わざとらしく意味深に笑ったら、赤也の口が更に大きく開いて顎が外れそうな位だった。
たぶん分かっていない真田は「うむ……婦女子に手を上げてはならん」なんて真面目くさって言っている。

「そろそろ今日あたり陥落するんじゃないかなぁと思ってるんだけど」
「……まあ、ほどほどにしときんしゃい」
「……彼女もきちんと納得するようにな」
「分かってるよ、誠心誠意手を尽くしてるつもりだけど?」

やれやれと言うため息に包まれたテーブル。
俺は「お先に」とトレーを手に立ち上がって学食を出た。
教室へ戻る途中の廊下の窓から見える桜は、今にもピンク色の蕾を花開かせそうで。

さて、今日はどんな風に説得しようかな。

桜の花びらのような彼女の唇を思い出しながら、俺はそんなことを考えて、笑みを零した。