春待ち




普段は叩き起こされたって、なかなか目が覚めないくせに、こう言う所だと、何故かやけに早く起きてしまう。昔から。
数えたことはないけど、たぶん、三回に一回くらいの割合で。

まだ体の中に残っている酒のせいなのか、この、異様に乾燥した空気のせいなのか。
それとも、夜の余韻のせいなのか。
安っぽいシーツを押しのけて、上半身を起こす。
隣りの女は、まだ眠っていた。

どんなにうざったくても、一応、一緒に部屋を出て、最低でも近くの駅までは送っていく。その女とは一晩限りだとしても。
変なところはマメなんだなと、いつだったかアニキには笑われたけど。
でも、何故か今日はそんな気になれなかった。
別にこの女が悪いわけじゃない。
お互いそれなりに楽しんだし、後腐れありそうな女ってわけでもない。
ただの気分で。

しかも、その気分に抗うだけの気力が、今の自分にはなかった。
女を起こすのも億劫、書置きなんて、さらに面倒。
ベッドから起き上がって、その辺に落ちていた服を着て、静かに部屋を出た。
ホテルの外に出た瞬間、冷たい空気が、肌に突き刺さる。

模範的な「更正」を遂げた俺は、二流ではあるけれど、何とか大学に合格した。
殆ど聞いちゃいなかったけど、まともに高校の授業に出て、家ではアニキの家庭教師で受験勉強して。
一体、何がどうしちゃったんだと周囲は驚いたけど、理由は簡単。

ただ、俺も車が欲しかっただけだ。
アニキと同じ、RX−7。

さすがに、あれをポンと買えるほど俺は小遣いを貰ってないし、金も貯めてなくて、
二流以上の大学に入れたら合格祝いに買ってやる、と言う親父の言葉に乗っただけ。
昔から親父には反発ばっかりしていて、今だって良好な関係とは言えなくて、そいつの力を借りるのは正直不本意ではあったけど、
そんな見栄とかプライドとかを捨ててでも、あの車が欲しかった。

RX−7。
FD−3S。

あの車が欲しい。
あの車を、アニキみたいに操りたい。
アニキの、あのダウンヒルはずっと忘れられなくて、俺も同じように速く走りたいと思った。

―――その、ずっと先の目的や、目標なんて、まだ見えなかったけど。

だから、俺の今のすべては「車」で、実はそんなに「更正」してガラリと変わったわけじゃない。
毎日目的も何もなくて苛々する、なんてことは確かになくなったけど、でも時々は―――訳もなく不安になったりして、むしゃくしゃすることがある。
それで、こんなことをすることも、あった。

目に付いた自販機で、缶コーヒーを買う。
まだ街は夜の名残りでネオンがチラつき、それが朝の薄明かりの中で寂しく見える。
動き出す気配のない眠ったままの街に、ガコン、と缶の落ちる音が響いた。

「―――さむ。」

その缶ごと、手をポケットに突っ込む。
吐き出す空気は真っ白で、頬や耳に突き刺さる空気は痛いほどで、街は静かで、自分の足音しかしなくて。
これから春が来るなんて、想像もつかない。

冷たい空気を少しでも避けようと、俯き気味に歩く。
薄汚れたアスファルトが続く。
それに見飽きて、ふと顔を上げると、小さい公園が見えた。
公園って言っても、ベンチぐらいしかないような所だったけど。
その、腐りかけたような小さなベンチに、女が、座ってた。

白っぽいコートを着て、地面に何かあるのか、じーっと下を見つめている。
何となく、俺もそんな彼女を公園の入口でじっと見ていたけど、気付いたら、そのベンチに向かって歩いていた。
昨晩やった女は放っておくくせに、こんな所にいる怪しげな女には興味を持つなんて我ながら勝手だと思ったけど―――気分で。

「―――何してんの。」

そいつはゆっくり顔を上げて、目の前に立つ俺を見上げる。
そしてニコリともせずに、ポソリと言った。

「別に・・・何も。寒いなぁと思って。」

こんな所にいるくらいだから、その辺で働いている風俗の女かと思ったけれど、そんな雰囲気は全然なかった。
―――と言うか、こんな場所には不似合いな女だった。
顔も、服装も、髪型も、ごくごく普通の女。
いや、むしろ服はぱっと見、質のよさそうなものだったし、顔立ちはそこそこ育ちのよさみたいなものを感じた。
それに細くて長い指は、すごく、綺麗に見えた。
こいつ、夢遊病じゃねえだろうな?なんて、一瞬考える。

「なら、さっさと家に帰ればいいじゃねぇか。」
「うん、そうなんだけど・・・冷やそうと思って。」
「何を。」
「頭を。」

そう言いながら、やっぱり無表情でつまらなそうな顔のまま、はあ、と自分の両手に息を吹きかける。
白い息が、その細くて白い指にかかる。
見るからに冷たそうで、でも、何故か温かそうに見えて―――触れてみたく、なる。
俺はそんな衝動を誤魔化そうと盛大に息を吐き出して、そいつの隣りにドカッと勢いよく腰掛けた。

「さむ。」
「なら帰ればいいのに。」
「俺も冷やすわ。」
「何を?」
「頭だろ。」

はっきり言って、馬鹿みたいに寒い。足のつま先からどんどん感覚がなくなってくる。
真冬の早朝の公園なんて、長居する場所じゃない。
ほんと、馬鹿みてぇ。
そう思いながらも、何だかそこから動けなくなった。

「―――私、その気はないけど。」
「こっちだって間に合ってるよ。」

二人並んで息を白くさせて、陽が昇っていくのをぼんやりと眺める。
隣りの女からは、おおよそ外見には不釣合いな、安っぽいシャンプーの匂い。
俺と似たような状況なのか何なのか、そんなことは分からなかったし、それ自体には興味もなかったけど、
とても、幸せな時間を過ごしてきた女には見えなかった。
そうやって口から吐き出しているのは、ため息なのか、何なのか。
俺は今頃やっとポケットに入っていたコーヒーを思い出し、そいつに差し出す。

「やるよ。」

ちょっとだけ目を大きくしたけれど、やっぱり笑顔の一つも見せず、一応「ありがとう」と礼を言ってそれを受け取る。
その缶を包む指は、変わらず、白い。

「・・・ぬるい。」
「文句言うなよ、ないよりマシだろ。」
「飲んでもいい?」
「ああ。」

指先の感覚がなくなってるのか、なかなかプルタブを開けられなくて、見かねた俺は横から奪い、それを開けた。
そいつに戻すとき、ふと指が触れる。
恐ろしいくらい、冷たい。

「お前、いつからここにいるの?」
「さあ・・・30分くらい。」
「馬鹿じゃねぇの?」

吐き捨てるように言って、そのときはもう、衝動って言うよりは、寧ろ本能で、そいつの手を掴んだ。
缶を持つそいつの手を、上から包むようにして。
その細さに驚くより何より、とにかく冷たくて、自分の体温をそいつに移すことだけ考えた。

「温かい。」
「つーか、お前が冷てぇの。」

そのときの俺は、男の本能なんて全くなかった。
でも、何かしらのホンノウみたいなものが、働いたのかもしれない。

「―――あったかい。」

そいつが、初めて、笑う。

目を閉じて―――口の端がほんの少し、持ち上がる程度のものだったけど。
たったそれだけのものだったけど、氷が融けていくような、やわらかい陽の光が射すような―――。

耳朶に触れる。頬に触れる。唇に触れる。
そのすべてが冷たくて、手が、痺れてくる。
何も言わず、何も考えず、それらに、自分の唇で、触れた。

「―――あったかい・・・。」

雪が融けて、微かに赤みが差して、笑みを浮かべる。
でも、さっきより悲しそうに見えるのは―――気のせいだろうか。


暖かい春は―――まだ、遠い気がする。