花冷え




大学なんかそっちのけで、車にかかりきりだった。

走るのも楽しい、弄るのも楽しい。
それはもちろん、まだ自分の思うとおりになんて走れやしなかったけど、それでも、少しでもコーナーとか綺麗なラインで曲がれると嬉しかった。
アニキの後ろを必死について行って、アニキの真似をして。
ガキの遊びの、そのまた遊び。
自分では必死なつもりだったけれど、結局はそんな感じだった。

女とも、付き合った。
大学のクラスが同じで、一番可愛いって人気のあったやつ。
顔は申し分ないし、性格もサッパリした感じだし、体もそこそこだし、向こうから付き合ってくれって言われて、二つ返事でOKした。
周りの連中に羨ましがられて、内心、悪い気もしない。

車に乗って、いい女と付き合って、大学もそれなりに楽しい。
今までにない、充実した日々。

でも、何故だか、あの朝を思い出すと、何かが胸の奥に沈んでいく。

名前も聞かず、あのまま別れた女。
苦しいわけじゃないし、つらいわけでもない。
また会いたい―――って訳でもない、と思う。
けど、ふと、あの冷たい指を思い出しては、そのたびに、何かが自分の中に積もっていく気がする。

「―――さむ。」

朝から降り続いている雨が、夕方になってもまだ降り止む気配がない。
キャンパスの桜並木も、もう殆ど花びらが散ってしまっていた。
息も、微かに白い。
最後の講義を終えて外灯がちらつき始める中、俺は傘を差すのも面倒で、早足で駐車場へと向かった。
バシャバシャと、水の音が響く。
構内を歩いてるやつなんて、もう殆どいなくて、自分の足音ばかりが耳につく。
靴に跳ねる泥水に舌打ちしながらも、そのまま足を止めずに歩き続け、掲示板の前に差し掛かった。
ふと、横に目をやると、そこに、黒い人影。
こんな時間に、こんな場所にいるなんて、変なやつだな。
そんなことを思いながら、何気なくその横顔を覗き込む。

足が、止まった。

何で?
何でこいつがこんな所にいるんだ?
薄暗がりで、見間違いかとも思った。
でも、それと同時に、絶対、あいつだと思った。

あのときは、厚手の白いコートだったけれど、今はベージュの薄いコート。
長いブーツは、パンプスに変わっていて、細い脚を見せてる。
それらの服装は、確かに季節が変わったことを示していたけど、そいつの顔は相変わらずつまらなそうな表情のままだった。

さっきまで聞こえていた足音が、突然自分の近くで止んで不審に思ったのか、そいつが、ゆっくりとこっちを振り返る。
一瞬、驚いたように、目を大きく開く。
俺のことが分かったみたいだけど、どう声をかけていいか分からないようで、僅かに口を開いたまま、俺をじっと見ていた。

「―――何、してんの。」

本当は、今こいつがここで何してるのかなんて、大して興味ないくせに、この台詞ってのは便利だ。
俺が近づいていくと、そいつは少しだけ目を細めた。

「別に。ただ、寒いなと思って。」
「何で寒いと掲示板見んだよ?」

自分だっていい加減な質問をしたくせに、いい加減な返事をされるとムカつくなんて、全く勝手なもんだ。
ちょっと斜めにそいつの顔を覗き込んで、睨む。

「ちょっと時間つぶしてただけだよ。」
「時間って?バスか何か?」
「違うけど・・・何となく家に帰りたくなかったから。」

何で?
―――って、聞きたくなって、思わず口から出かけた言葉を慌てて飲み込んだ。
こいつには、こいつの事情って言うのがある。
他人に干渉するのは、本来の俺じゃない。
それでなくても、こいつは名前も知らないような女なのに。
自分の彼女のことはロクに聞き出そうともしないくせに、こんなやつのことは気になるなんて―――馬鹿げてる。

「・・・ふぅん。」
「君も、ここの学生だったの?」
「この春からな。・・・あんたも?」
「うん。私も、この春、から。」

そう言って、少し俯いて、複雑な笑みを見せる。
掲示板の上に付いているぼやけた明かりが、そいつの濡れた髪と頬を照らし出す。
伸ばした指に、そいつの白い息が触れた。
やっぱり、その頬は馬鹿みたいに冷たい。
そいつは一瞬ピクリとしたけれど、そのまま俺の手に頬を寄せて少しだけ口元を緩ませた。

「・・・相変わらず、温かいね。」
「お前の顔が冷てぇんだろ。」

俺の熱がそいつに伝わって、だんだんと頬に赤みが差してくる。
その様子を、ただ黙ってじっと見てる俺と、じっと待つそいつ。
こんな所で何してるんだ、って内心自分を嘲りながらも、手を離すことも動くことも出来なかった。

「―――家に、帰りたくないって?」

雨は、まだ降り止まない。

「うん・・・。」

吐き出す息は、相変わらず、白い。

「それなら―――」

それなら、ちょっと付き合えよ。
そう言いかけたとき、後ろから女の声。

「啓介?」

そいつは、何もなかったかのように、すっと俺から離れた。
途端、手から熱が消えて冷たくなる。
さっきまで俺の手の方が温かかったって言うのに、いつの間にかその熱をすべて奪われて。
堪らずにその手をぐっと握り締めて、声のした後ろを振り返る。

「車の方で待ってたんだけど、なかなか来ないから迎えに来ちゃった。」
「―――あぁ・・・。」

俺を見上げて嬉しそうに笑う彼女。
いつもは結構気に入っているそれも、今は何だか自分を苛立たせるものでしかなかった。
分かってる。勝手だってことくらい。
だから、何とか女に笑って見せる。
ジャリと言う音に振り向くと、そいつはもう背中を向けて歩き始めていて、俺は声をかけることも出来ない。

「どうしたの?」

女が俺の腕に手を絡ませてくる。
俺のよりも温かいはずの、その女の腕。
なのに、その触れた部分からどんどんと冷たくなっていく気がするのは何でだ?

いつもなら飯食って、適当にその辺のホテルに入ったりするのに、今日はそれも面倒だった。
本当は一緒に飯を食うのも億劫で、俺はさっさと峠に行きたかった。
すぐにでも走りたかった。
走れば、とりあえずスッキリするだろうと思ったから。
でも、今日に限って女は「まだ帰りたくない」なんて言って、最後には泣きべそまでかく始末。
それでも、無理やりにでも降ろせばよかったのに、俺は苛々しながらも、そのまま赤城へ行ってしまった。

「本当に泣いても知らねぇからな。」

そんな脅し文句と共に、アクセルを踏み込む。
とにかく速く―――何もかも吹き飛ばせるくらいに速く走りたかった。
すげぇ、馬鹿。
自分はまだどうしようもないド初心者で、下手ックソだってことが、頭から抜け落ちちまっていた。

少し、見通しの悪いコーナー。
でもそんな大した角度じゃない。
さっき遠くに対向車のライトが見えた。
まだ、大丈夫だと思った。

女の悲鳴なんか聞こえない。

いつもより速いスピードでコーナーに突っ込む。
ブレーキが少し遅れる。
でも、これくらいなら大丈夫だと思った。

根拠のない自信。

「―――っ!」

頭が真っ白になりかけて、声なんか出やしなかった。
目の前に現れた対向車は、何とかやり過ごす。
もう、何をどうしてるのか、自分でも分からない。
タイヤがすごい音を立てて滑って、ガードレールが目前に迫って、訳も分からないままステアを切った。

本当に、助かったのは、奇跡に近かった。

手も足もガクガク。
対向車のドライバーが駆け寄ってきても、なかなか体が動かなかった。
二輪では散々ヤバいこともやってきたはずなのに、馬鹿みたいに震えてる。
それでも、何とか隣りに目をやると、女はシートベルトをぎゅっと握り締めて、固くなっている。

「―――大丈夫か?」

俺は震える手で何とかそいつの頭を撫で、車を降りた。

「―――すいませんでした。」

俺はただ謝るしかなくて、そう言って頭を下げる。
すると、さっきまで、ただ心配そうな顔つきをしていたその男が、俺の顔を見て眉根を寄せた。

「あんた―――あの高橋涼介の弟か?」
「・・・はい。」

アニキは、既に「赤城の白い彗星」としてこの辺で名を馳せている。
最近その彗星様について走ってる弟として、俺もそれなりに知られていた。

でも、それは決してプラスの評判なんかじゃない。

「金に飽かせてそんな車買って、女なんか乗せてチャラチャラしやがって。」
「―――っ。」
「挙句には事故かよ?」

そいつは吐き捨てるように言って、車に戻っていく。

「兄貴とはえらい違いだな。」

眩暈がした。
目の前が、真っ暗になった。

優秀な兄を持って、もう散々聞きなれた台詞。
親戚に、友人に。
でもそのたびにアニキが「お前はお前だ、気にするな。」と言って、俺も実際そう思ってて、最近は気にもしなかった台詞。

息が出来なくなった。

そいつの言うとおりで。
反論の余地もなくて。
羞恥と悔しさに、手が震える。

アニキのように走りたい。
そう思ってきた。
でも、「アニキのように走る」って―――何だ?


俺は、どうなりたいんだ?


息が、まだ、白い。