曼珠沙華




同じクラスの彼女とは、別れた。

とっくに気持ちは冷めていたけど、それでも、今までずるずると続いていた。
構ってやらないと怒るくせに、構ってやれないからと別れ話を切り出したら、それでもいいからと泣きついてくる。
一応、それなりに好きだった時期もある。
悪いとは思った。
でも、もう気持ちが揺らいだりすることはなかった。


峠を走るのも、やめた。


走ることをやめたわけじゃなく、今、峠を闇雲に走ってもあんまり意味がないと思ったからだ。
アニキに認めてもらうには、許してもらうには、ただ今までやってきたことを繰り返すだけじゃ駄目だ。
俺は、サーキットやジムカーナへ行くようになった。
とにかく、そこで色んなやつらが走っているのを見て、もちろん自分も走って、頭を下げて色々と教えてもらったりした。

貪欲になった。
与えられるのを待つんじゃなくて。
とにかく、知識を、技術を身につけようと。

そうして、初めて分かる。
アニキが俺に出してくれた課題の数々が、どれだけ効果的で、的を射たものだったか。
改めて、アニキのすごさってものを、思い知る。
今までも分かってはいるつもりだったけど、そんなもんじゃなくて。

無我夢中で走った。
あいつが今まで全てを捨てて弾いてきたように―――なんて言うのは、図々しいけれど。

あいつは、あれから家に来ることはなくなった。
大学でも、殆ど会うことはない。遠くで歩いているのを見かける程度。
寂しくないことは、ない。
今まですぐ手の届くところにあった体温が、すごく、遠くなって。

でも、あいつも走ってる。
まだ、先のことなんて見えなくて、分からなくても。
怖くても。




いつの間にか、風は冷たくなっていて、冬が近づいてきていることを知らせる。
サーキットの駐車場の片隅で、赤い花が風にゆらゆらと揺れてる。
何て、名前だったっけ―――?
その、血のように鮮やかな色の花をぼんやりと眺めてたら、その向こうから女が歩いてきた。

「―――は?」

どう見ても、この場所には不似合いな格好の。
絶対に、いるはずのない、女が。

「何で―――お前がここにいるんだよ?」

そいつは口元を僅かに綻ばせるだけで、黙って近づいてくる。
俺の前で立ち止まる。
風に乗ってふわりと甘い香りがするのは、こいつなのか、赤い花なのか。
眩暈が、する。

「一時間くらい前からずっといたんだけど、気付かなかった?」
「・・・全然。」

その存在を確かめるために、手を伸ばす。
前よりも、少し、温かい頬。

「どうやってここまで来たんだ?」
「きみのお兄さんに乗せてきてもらった。」
「・・・は?」
「さっきまで一緒に見てたんだけど、終わったら、先に帰るって言って、さっさと帰っちゃった。」
「アニキが?ここにいたっての?・・・冗談だろ?」

一応、行き先はいつも教えているけど、アニキはいつだって興味なさそうに聞き流していた。
第一、そんな突飛な事実が信じられるだろうか?
アニキとこいつは大して面識がない。
以前、こいつがピアノを弾きにうちに来ていたときに何度か顔を合わせた程度。
あのアニキが、そんなやつと一緒にこんな所に来るなんて、信じられない。

「きみに、報告したいことがあって、今日直接家に行ったの。携帯つながらなかったけど、まあいいかな、と思って。
そしたら、お兄さんが出てきて、きみがここにいるって教えてくれたんだよ。」
「・・・で、連れて来てもらったって言うのか?」
「ん。行きたいって言ったら、乗せてってくれるって。」
「嘘だろ?」

俺は信じられなくて、首を横に振る。
でも、そいつは肯定するように、微笑んだ。

「たぶん―――何か理由が欲しかったんじゃない?」
「りゆう?」
「たぶん、ね。」

俺はまだよく分からなくてそいつをじっと見下ろしたけど、そいつは変わらず微笑むだけだった。



「―――で、報告したいことって?」

アニキに置いて行かれたから帰れない、と言うそいつを車に乗せる。
途中、飯を食って―――そのまま別れるのも何となく嫌で、そいつの話を聞くと言う理由をつけて家に連れて帰った。
アニキはいなかった。
たぶん、もう、赤城に走りに行ってるんだろう。
親がいないのは、いつものことだ。
そいつは、以前の定位置だったピアノの前に腰掛ける。

「きみって・・・ああ言う世界の人だったんだね。」
「って、おい、話逸らすなよ。」
「ちょっとビックリした。お兄さんの車にもビックリしたけど。」

そう言って、小さく笑いながら、また、愛おしそうに、ピアノに触れる。

「実は、きみってカッコよかったんだ―――と、思いました。」

その、ゆっくりと鍵盤の上を滑る指に、煽られて、曲が奏でられるのを、心待ちにする。
それは、やっぱり今も変わらない。
こいつに、こんな顔をさせるものに嫉妬を覚えながら、自分の体が、どんどん熱くなっていく。

「―――今頃気付いたのかよ。」

俺はそいつの指に触れようとして―――躊躇って、すぐ、隣りの鍵盤を、ポンと鳴らす。

「お前は?・・・最近、全然うちに来ないじゃん。」
「いつも弾いてるよ。自宅で。」

まさか、一日中このピアノを占領するわけにもいかないでしょ?
そう言ってちょっと苦笑いする。

「今は―――静岡の先生のところに通ってる。週に一回。」
「静岡?」
「高校まではずっと通ってたんだよ。」

静岡って言えば、東京のもっと先の方じゃねぇか。
そう言う世界のことは全然分からず、俺は半ば呆れてそいつを見下ろす。
そんな俺の顔を見て可笑しそうに笑って、そして、深く、息を吸い込んで。

「―――私、たぶん、留学する。」

俺の目を見た。
―――たぶん、なんて嘘ばっかり。
もう、ちゃんと決めてるくせに。

そう言って俺を見上げる顔は、やっぱり、すごく、綺麗だ。
あの花よりも、ずっと。

「まだ―――怖いけど。先のことなんて見えないけど。やりたいことを、やれるだけ、やってみる。」

その美しさってのは、たぶん、俺とはまったく関係がなくて。
俺がいなくても、こいつは、きっと、綺麗で。
悔しくて、手折ってしまいたくて―――でも、何故か泣きたいくらい、嬉しかったりする。



俺たちの道は重ならない。



あんたに会ったのは、本当に奇跡みたいなもんで。
ああやって、好きでもない男とやった帰りに公園にいたあんたも、あんな二流の四大にいるあんたも。
うちでピアノを弾いてるあんたも―――俺に、抱かれたあんたも、本当のあんたじゃない。

だけど。

「―――きみに会えて、よかった。」

あんたに、会えてよかったよ。

「あの冬の朝に、きみに会えてよかった。」

たとえ、それが偽者のあんたでも。

「大学で、あのホールの前で、きみに会えてよかった。」

たとえ、迷った人間同士の、傷を舐め合うような関係だったとしても。

「今までの私と、これからの私を繋ぐのは―――啓介だから。」

本当は、そんな通過点じゃなくて。
これからのあんたを作り出すのが、全て俺ならよかった。
あんたの未来の全てが、俺のものならよかった。
そう思いながら―――やっぱり、俺から離れて行くが、好きで、たまらない。


「泣いてるの?」
「―――泣いてねぇよ。ばぁか。」


好きだから、俺も、あんたの所には留まらない。