忘年会




秋の終わり。
俺はアニキの部屋をノックした。
中に促す声が聞こえて、俺は緊張しながらそのドアを開ける。

「―――頼みがあるんだ。」

机に向かっていたアニキが、椅子ごと俺の方に向きを変えて目の光を鋭くさせる。
アニキの前で、こんな風に手に汗が滲むほど緊張することなんて、もしかして初めてだったかもしれない。
いや、今は「アニキ」に向かってじゃなくて、「レッドサンズのリーダー」に向かって話をしようとしているからかもしれない。


「俺を、テストして欲しいんだ。チームに入れるかどうか。」


喉が渇いて、声が少し掠れる。
駄目だ、と即答する隙を与えずに、俺は頭を下げた。

「俺、やっぱりアニキみたいに走れるようになりたいんだ。
今まで何ヶ月かサーキットとか行って走り込んで、思ったんだよ。
もちろん、あそこでも学ぶことは多いけど、やっぱり、俺はアニキと一緒に走りたい。アニキのもとで走りたいって。」

アニキは何も言わない。
でも、じっと俺を見ているのは分かってた。
俺は頭を下げたまま、深呼吸する。



「俺、プロのレーサーになりたいんだ。」



結局、たったの数ヶ月ではあったけれど、とにかく目いっぱい走り込んで、見つけ出した目標だった。
カートも何もやってなくて、この年でいきなりそんなことを言い出すのは、無謀なのかもしれないけれど。
どうなるかなんて、分からないけれど、とにかく、俺はレーサーになりたいと思った。
プロのレーサーになって、ずっとこの世界で、走り続けていたい。

「―――だから、アニキの力を借りたい。」

前は、ただアニキについて行きたいだけだったけど。
アニキみたいに走りたいって、何となく思っていただけだったけど―――そうじゃなくて。

「もう昔みたいなことはしない。だからテストさせて下さい。お願いします。」

暫くしても、何も言わない、動かないアニキ。
もちろん、一度断られたくらいで諦めるつもりなんか毛頭なかったけれど、やっぱり、壁は高くて厚いのだと思い知る。
ぐっ、と両手に拳を握り、顔を上げる。
俺は諦めないから―――と、口を開きかけて、アニキを見た。

冷ややかな目を、鋭い目をしているかと思っていたアニキは、脚を組んで俺を見据えたまま、微かに、口の端を上げていた。

「―――来週の土曜・・・だな。」
「え?」

さっきよりも、少し挑発的な笑みを浮かべる。

「お前だからって、手加減はしないからな。」

そうして一週間後、俺は漸くレッドサンズのステッカーを手にすることが出来た。




赤城に、雪がちらつき始める。
チームの交流戦で、俺が初めての勝利を収めて間もなく、オフシーズンに突入した。
冬だっていくらでもやるべきことはある、とアニキには山ほど課題を渡されたけど、それでもやっぱり夏よりも時間は出来る。
大学の方も、後期の課程が終わり、冬休みに入ろうとしていた。

早期締切のレポートを提出するため、大学へ行く。
提出期限ギリギリの夕方に、俺は教務課へ駆け込むと、学生の列の中に、の姿。
そいつが先に提出し終わって、出口へ向かおうと、俺の方に歩いてくる。
ふと、顔を上げて、俺と目が合った。
お互い、ちょっとバツの悪そうに、苦笑い。

「何だよ、お前もギリギリ提出かよ?」
「まあ・・・ね。」
「この後何か用事あんのか?ないんなら、ちょっと待ってろよ。」



二人で、外に出る頃には、もう外は暗くなっていて、外灯が灯っていた。
その明かりに、時折、白いものが照らされる。
今日は朝から寒いと思っていたけれど、ついに雪まで降り出したらしい。
二人並んで、白い息を吐き出す。
そして、ふと、あの初めて会った朝を思い出した。
あの日もすごく寒くて、吐き出す息は真っ白だった。
あれから、一年も経っていないなんて―――変な感じだ。

「―――もう、いなくなってんのかと思った。大学でも全然会わねぇじゃん。」
「それはこっちの台詞だよ。きみ、ちゃんと講義出てたの?」
「まあ・・・体育と語学は。出席日数足りるくらい。」
「・・・留年する気?」
「うるせぇな。」

そいつの腕を、肘で突く。
そのとき伝わってきた僅かな体温じゃ物足りなくて、俺はその手を掴んで、自分の手と一緒に、ポケットに入れた。

「―――いつ、いなくなる?」
「・・・春には、向こうに行くと思う。学校は秋からなんだけど、その前から向こうの先生の家に住み込んで教えてもらうの。」
「ふぅん・・・。」

自分から聞いておきながら、そいつにはっきり言われると、堪らなく―――苛々して。
ポケットの中で、そいつの手を、思いっきり握った。
痛い、って、そいつが思わず言うくらい。

留学先はイギリスって言ってたっけ。
遠いようで、近くて―――やっぱり、すごく遠い場所。

「お前、これから何も用事ないって言ってたよな。なら、どっか行こうぜ。」
「どこか?」
「そう。なんつーか・・・忘年会、かな。」
「何、それ。」

そいつが呆れたように笑って俺を見る。
俺も、冗談ぽく笑って見せた。

本当は、送別会、って言おうと思った。
けど、そう言いかけて―――何か、やっぱり怖くなって、やめた。
俺って、結構女々しいんだな。
そんなことを、初めて知る。

駐車場に止めてあった俺の車の前まで来て、以前にもまして色々とチューニングされたその姿に
そいつがちょっとビックリして、笑う。

「ずいぶん逞しい姿になっちゃったんだね。」
「別に、そんなに外見は変わってねぇだろ。」
「そうかなぁ。」

そう言いながら、そいつはその車の周りをグルリと回る。
雪も降るくらいに寒いって言うのに、ゆっくりと、何かを確かめるように。すべてを、目に焼き付けるように。
するりと、指を滑らせる。
以前、俺の家のピアノに対してやったのと同じその仕草に、俺はまた、性懲りもなく、欲情する。
―――酒飲むより、あんたを一晩中抱いてたい、なんて言ったら、やっぱ呆れるんだろうか。

「この車って、きみみたいだね。」
「そうか?」
「色が。」
「・・・喧嘩売ってんの?」

冗談だよ。
くすくすと笑うそいつの髪を手で梳く。
冷たくて、気持ちよくて、周りに誰もいないのをいいことに、今度は唇で触れる。
腰に手を回しても、そいつはまるで気にしないように、車に触れる。

「しなやかで、鋭くて、扱いづらそうで。思わず、鳥肌が立つくらいに―――綺麗。」
「―――それは、あんただろ。」
「そうかな。」

あんたは、これより大人しそうに見えて、弱そうに見えて、でも本当は、この何倍も扱いづらくて。
そして、思わず震えるくらいに、キレイ。
雪が、髪に、肩に、落ちる。
俺はそいつの熱でそれが解けていく様子を、じっと見つめる。


「―――私、ピアニストになる。」


俺の腕の中で、はっきりと、強い声で、言う。
だから、俺も、同じように言った。


「俺は、レーサーになる。」


強い声で、ちょっと、いや、かなり緊張して。
何となく、こいつの前でそれを言えば、もう、後戻りは出来ない気がした。

「レーサーにピアニストって・・・何か、すごいね。」
「ばーか。俺さまはすげぇんだよ。」

そいつが顔を上げて、俺を見て微笑んだ。
ちょっと、照れくさそうに。

「・・・私は、もしかしたら挫折して帰ってきちゃうかも。」
「別にそん時はそん時だろ。挫折味わうくらい、メッタクソに打ちのめされるくらい、やってみりゃいいんだよ。」
「そうだね。」
「まあ、本当に駄目で、帰ってきたら・・・残念会くらいやってやる。」
「忘年会じゃなくて?」

二人で声を出して笑って、それから睨み合って―――キスした。
それが、互いへの励ましで、別れ。

もし帰ってきたら、馬鹿って笑ってやる。
笑って、また、抱きしめてやるから。
キスしてやるから。





ピリピリと、痛いほどの緊張の中、プラクティスが始まる。
メカニックが、これから始まるバトルのために、二台の車をセットアップしていく。
俺は、少し離れたところで、煙草を片手に、だんだん仕上げられていく自分の車を眺めていた。

「―――また、すげぇ逞しい姿になっちまったよな。」

ふと、そんなことを思って苦笑い。

別にいつも考えているわけじゃない。
四六時中思い出してるわけじゃない。
でも時々、本当に時々、思い出す。
突然ポッカリ空いた時間にとか、逆に、痺れるくらいの極度の緊張状態のときとか。
あいつのことを。

あれから、もう、三年近く会っていない。
手紙もないし、電話もない。
あいつは大学辞めちまったから、噂なんかも入ってきやしない。

俺はあいつのいる世界のことはよく分からないから、あいつがどんなコンクールとか目指してるかなんて知らない。
たまに、本屋とかフラフラと行って、そんな関係の雑誌に目がとまることもあるけど、開いてみようとはしなかった。
入賞なんかしてたら悔しいし、もし、万が一凱旋公演なんて日程が載ってたりなんかしたら、たぶん、すごく―――ムカつく。

「啓介さん、準備出来ました!」
「おう。」

俺の方が、少し出遅れてんのかな?
でも、俺だってあの頃よりは速くなったんだぜ?



いつか、追いついて、追い越して―――その後はどうしようか?



「とにかく、こんなところで負けてらんねぇ。」

あいつの冷たい頬と、細い指と、無表情と、綺麗な笑顔を思い出して。
最高潮に、気分高めて。







あいつの名前を小さく、唱えるように呟いて。

煙草を捻り消し、俺はFDに乗り込んだ。