五月雨
今日も、雨が降り続いてる。
朝から太陽が姿を見せることもなく、ずっと。
その鉛色の空のように、俺の気分も晴れないままだった。
思った以上に、ダメージが大きかった。
あの男の台詞が、って言うんじゃない。調子に乗って事故を起こしかけたことが、って言うのともちょっと違う。
自分の甘さを―――結局何も変わっちゃいないのだと言うことを思い知らされて。
アニキに無言で咎められたことよりも何よりも、そんな自分自身の馬鹿さ加減に。
赤城には、今までのようにアニキについて行くことは出来なくなった。
表立って出入り禁止になったわけじゃないけど、明らかに、アニキは俺に峠には行って欲しくないようだった。
当然って言えば、当然。
アニキにとって峠って言うのは、すごく神聖な場所だ。
そこを、他の誰でもない、弟の俺に汚されたって言うことは、どうしても許せることじゃないんだろう。
明け方に一人でこっそり走りに行くことはあったけれど、何となく、今までのように熱くなれない。
機械的にアクセル踏んで、ブレーキ踏んで、ステア切って。
だんだん、峠に行く回数も減っていった。
あのときのアニキのダウンヒルを思い出そうとしても、霞んでよく思い出せない。
何がしたいのか、どうしたいのか、どんどん、分からなくなってく。
朝、起きてリビングに行くと、珍しくアニキとお袋が揃って飯を食っていた。
あれ以来、普通に会話しているつもりでも、やっぱりどこかアニキとは不自然で、俺はそこにお袋がいてちょっとほっとする。
「おはよう、啓介。今日は早いのね?」
「・・・今日は午前に必須が入ってんだよ。」
コーヒーを用意してくれるお袋。
俺が隣りの席に腰掛けるとアニキは目を合わせずに挨拶してくる。
俺も、顔を背けて挨拶を返す。
「そうだ、啓介。今日の夜空いてる?」
「何で?」
「ピアノリサイタルの招待券、オオタキさんから貰ったのよ。私もお父さんもちょっと行けそうにないから、よかったら啓介行かない?」
オオタキさんって言うのは、うちの病院の顧問弁護士だ。
付き合いってのも分かるけど、はっきり言ってそんなタルいものに行ってられない。
「・・・んな面倒くせぇ。何で俺がピアノなんか聴かなきゃいけねぇんだよ?」
「いいじゃない。そのピアニスト、オオタキさんの親戚なんですって。」
「俺よりアニキの方が、ウケがいいんじゃねえの?」
「涼介には、たった今断られたばかりよ。」
アニキは隣りでしれっとした顔をしてコーヒーを飲んでる。
どうせ週末の夜なんて峠に行くだけで、どうしてもって用事なんかじゃないくせに。
俺はジロリとアニキを睨む。
「啓介、どうせお前、夜は用事ないだろう?」
やっと俺の目を見て言ったのがそんな台詞。
それにどんな意味が含まれてるかなんて―――考えたくもない。
「分かったよ。リサイタルだろうが何だろうが、行ってやるよ。」
殆ど吐き捨てるように言って、結局飯も食わずに大学へ向かった。
鬱陶しい天気。
灰色の空から、絶え間なく、しとしとと雨が落ち続ける。
それは夜になっても止むことはなくて、些かうんざりしながらホールへと向かう。
こんなコンサート、別にドタキャンしたところで大して問題はないんだろうけど、半ば意地だった。
車を降りて傘を差す。
もうじき夏だって言うのに、少し肌寒いくらいで、傘の柄を握った手が冷たくなっていく。
ホール入口に差し掛かってスーツの内ポケットからチケットを取り出す。
そして、受付に渡す直前、ふと何気なく横を向くと―――見憶えのある顔。
傘の下で、じっと、立ち尽くす女。
チケットを握り締めた指は、前よりも一層白くて、痛々しくさえ見える。
俺はチケットを再びポケットにしまい、そいつの方へと近づいた。
「きみ・・・。」
「―――あんたとはいつも変な所で会うな。」
今日のそいつの顔は、つまらなそう、と言うよりは、悲しそうに見えた。
「―――お邪魔します。」
「どうぞ。」
そいつは俺の差し出したスリッパを履いて、恐る恐るといった感じで後をついて来る。
結局、リサイタルは聴かなかった。
チケットはゴミ箱に捨てた。
こいつは、ホールを前にして動けなくなっていて―――俺はそれを放っておくことが出来なかった。
何でホールの前まで来て、チケットまで持って中に入れないのか、俺にはさっぱり分からなかったけど、理由は聞けなかった。
聞いたら、泣き出しそうな気がしたから。
いや、もうすでに、泣いてたのかもしれない。
「うち、来る?」
ナンパにしては、結構突飛な台詞。
自分でも笑えたけど、口に出したときはそれなりに真剣で。
そいつも、ちょっとは驚いたようだったけど、すぐに、コクリと頷いた。
「うちはコーヒーかビールしかないけど。」
「・・・コーヒーがいい。」
リビングに通す。
その、決して狭くはない部屋の窓際で、かなりの面積を陣取っているモノに、そいつの視線が止まる。
自分の部屋じゃなくて、ここに連れてきたのは、たぶん、それを見せるためだった。
何で―――って聞かれても、上手く説明できないけれど、何となく、直感みたいなもので。
「・・・君が弾くの?」
「んなワケねぇじゃん。お袋とか従妹がたまに弾くくらいだな。ただのインテリア。」
グランドピアノ。
その価値は俺にはよく分からないけれど、そんなに悪いものじゃないはずだった。
そいつの目が、まるで一目惚れでもしたかのように輝き出す。
その、微かに紅潮した頬に何となく嫉妬を覚えながら、俺はそいつの頭をポンと撫でる。
「別にいいけど。弾いても。」
躊躇った顔つきで俺を見上げて、リビングの入口に立ち尽くす。
俺は気にしない振りをしてそのままキッチンへ向かい、コーヒーを淹れた。
戻ってきても、まだそいつは同じところにじっと立っている。
「何だよ、まだそこにいたの?弾かないんなら座ろうぜ。」
「・・・弾いていいの?」
「だから、いいって言ってんじゃん。」
わざと呆れたようにため息ついて言えば、そいつは躊躇いながらもピアノに向かう。
そのまま、ゆっくりとピアノの周りを一周して、指を滑らせる。
鍵盤を一つ一つなぞって、目を閉じる。
まるで、何かの求愛行為であるかのようで。
照明を抑えめにした部屋で、それは妙に官能的に―――扇情的に映った。
そんな彼女の動きをじっと見つめていると、何だか、非現実的な感じがして、手や足の感覚がなくなっていくようで、
でも頭の芯だけは異様に冴えているような錯覚を覚える。
「―――大屋根を開けても?」
「夜なんであんまり大きい音は勘弁。」
そいつはちょっと残念そうな顔をして、椅子に腰掛ける。
指を乗せ、深く、息を吸い込む。
曲なんか、全然分からない。
ピアニストの演奏の違いなんて、さっぱり。
でも、それが、今まで聴いてきたヤツとは全く違っているのは、すぐに分かった。
従妹の緒美やお袋より上手い、とかそう言うレベルじゃなくて。
それは、さっきまでのそいつの指の動き以上に、恐ろしいくらいに、自分を惹きつける。
今まで音楽に感動するなんてことはなくて―――いや、これは、感動、なんてもんじゃなくて。
もっと、肉感的なものだ。
こんなのは、不謹慎なのかもしれないけれど、俺は、こいつの奏でる音楽に、間違いなく欲情していた。
細い、白い指とか。
伏せられた目とか。
時折薄く開く唇とか。
それ以上に、この、音楽そのものに。
いつもは退屈でしかないクラシック音楽が、今日は、止んでしまうと寂しくなる。
「―――もっと弾いてよ。」
「どんな曲?」
「何でも。」
「・・・いい加減。」
そいつが、隣りに立った俺を見て、ちょっと笑う。
その顔が、幸せそうで、楽しそうで―――痛そうで、つらそうで。
伸ばしかけた俺の手を避けるように、俯いて、またピアノを弾き始める。
俺は構わずにそいつの顎を掴んだ。
「・・・もっと弾くんじゃなかったの?」
「気が変わった。」
「私、その気は―――」
最後まで言わせずに、口付ける。
その気がない―――なんて、嘘だろう?
あんたの舌は、こんなに熱い。