uncertainty 6





名前はよく、聞いていた。

アニキがあれだけ特定の人間の名前を頻繁に口にするなんて珍しかったから、結構、すぐ覚えた。
何だかすんげぇ昔からその名前を知ってるような気がしてたけど、実はそれ程でもなかったらしい。
正直、アニキと史浩の会話にそいつがよく出てきても、あんまり興味は湧かなかった。
俺があんまりコンピューターとかプログラムとか得意じゃないって言うのもあったし、二人とも、何か知らねぇけど、俺にそいつのことを説明とか紹介とかしようとしなかったし。

もしかして、こうなるって、分かってたのか?
でも、あいつは俺のタイプじゃねぇ。
―――つっても、そんなの、何のあてにもならねぇことぐらい、俺自身も分かってるけど。

あの時ファミレスで遭ったのは偶然なのか、それともアニキの企みか何かなのか、俺にはよく分からない。
けど、今のこの状況は、ぜってぇ、偶然なんかじゃねぇだろう。

が、アニキの机の前に座ってる。
一人で。
「おかえり」って、なに普通に言ってんだよ?

「―――なんでお前がここにいんだよ?」
「このマシンのセットアップに。」

机にどんと置いてあるデスクトップパソコンを指差して、相変わらず飄々と答える。
後でよくよく考えてみればおかしいことだらけだ。
今アニキがメインに使ってるのはその脇のノートパソコンで、殆どそのでかいのは使っちゃいない。
第一、いちいちパソコンのセットアップなんかに人を呼ぶなんて、あのアニキがするわけがない。
玄関に靴も置いてなかった。
アニキのFCはそのまま。

「アニキは?」
「大学の友達か何かから電話があって、出かけてった。」
「・・・でも車はあったぜ?」
「タクシーで出かけた。」
「なんで。」
「お酒でも飲むからじゃない?」
「・・・・・・。」

今日中に片付けたい仕事があるって言ってたのに、飲みになんか行くか?
そんなに断れないやつだったのか?
だからって、何でこいつをここに残していく必要があるんだよ。

「おかしい?」
「・・・おかしすぎるだろ。」

そいつにはちょっとでかすぎる位の椅子に座って、膝に両手を置いたまま俺を見上げて肩を竦める。
最初は呆然とするだけだった俺も、何だかだんだんと腹が立ってきた。
何なんだよ、いったい?
そいつを睨むけど、そんなの何の意味のないかのように、そいつは俺をじっと見上げた。

パソコンのカリカリと言う音が部屋中に響く。
その音が、まるで手足を縛りつけるように俺をそこから動かなくさせてる。
そいつの傍まで行って問い詰めることも出来なければ、さっさとドアを閉めて自分の部屋に戻ることも出来ない。
部屋の奥の椅子に腰掛けてるそいつと、ドアの前に立つ俺は、にらみ合うように互いの目を見てる。
すごい長い時間そのままだった気もするけど、ほんの数秒だったのかもしれない。

「お前、実はよく家に来てたのか?」
「よく、は来てない。2回か3回くらいだと思うけど。」

アニキの部屋にそれだけ入ったことがあれば十分だっての。
アニキは自分の領域っつーのに踏み込まれるのをすごく嫌う。
弟の俺は別として、今までの彼女だって部屋に入ったことある奴なんて殆ど、いや、一人もいないかもしれない。
たとえ「仕事」だとしてもここに入れるってことは、それだけアニキに気を許されてるって証拠だ。

「こんな夜に男の部屋に来てたってわけ。彼氏いるくせに節操ねぇな。」
「大概は昼間だよ。それに仕事なんだからしょうがないでしょ。」
「どうだか。アニキが仕事っつったら服も脱いじまうんじゃねぇの。」

だんだんムカついてきて、何も考えず頭に浮かんできた言葉をそのまま口に出す。
本当にそんなことを思ってるわけでもないし、言いたいわけでもないし、黙り込ませたいわけでもない。
傷つけたいわけでもない。

―――いや、嘘だ。
ちょっとは傷つけたかった。
何か、そいつに少しでもアトを残したかった―――残せるもんなら。
でも本当につけたいのは、そんなアトじゃないんだけど。

は俺をじっと見たまま微動だにしない。
そいつもまるで椅子に括りつけられてるかのように。

カリカリ―――って音が止まる。
ぼんやりとの背後に見えるディスプレイの表示が変わる。
でも俺もも動けない。
は、口の端に少し力を入れただけで泣くでも怒るでもなく俺を見つめたまま。

「―――涼介くんじゃないよ。」
「―――なに?」
「会いたかったのは、涼介くんじゃない。」

さっきまでと違う、少し低い声。
泣きそうになるのを我慢してたのか。
いや、違うか。もっと力強いような、何か覚悟を決めたような、そんな声。
でもそんなこと、その時の俺は半分頭に血が上ってて攻撃的になっててワケわかんなくて。
思ってもないことしか、口にすることが出来ない。

「じゃあ、俺に会いに来たとか言うわけ?本当に節操ねぇな。」

うそだ。
本当はそういう非難めいた台詞じゃなくて―――

お前を見た瞬間、すげぇ嬉しくて、自分がどれだけお前に会いたかったのか思い知った。
けど、同時にお前のいる理由がアニキだってことに―――当たり前っちゃあ当たり前なんだけど―――すげぇムカついた。
分かってる。これはむちゃくちゃ子供じみたやきもちだ。
がそれを分かっていたのか、それとも俺の台詞を真に受けちまったのか分からないけど、膝に置いてあった手をぎゅっと握り締めて、目を少し細めた。

「―――そうだね。」

どういうことだよ?
どういう意味なんだよ、それ?
俺は頭が悪いからそれだけじゃ分かんねぇ。
イラついて目を細めるけど、はそれっきり何も言わない。
何か言えよ。説明しろよ。
じゃなきゃ、都合よく解釈しちまう。

ディスプレイが一瞬暗くなり、それからその上に小さいアルファベットが並ぶ。
それと同時にまたカリカリと音が響き出す。
俺は漸く解放されたかのようにドアから身を離し、部屋の奥へと進んでいく。
その間、そいつはずっと椅子に腰掛けたまま、俺の動きを見守るだけ。

そいつの前に立って、見下ろす。
そいつも、俺をじっと見上げる。

いつもより少し緊張して見えるのは、多分俺も一緒だろう。
―――ああ、5秒以上見られて顔が強張っちまったか?
以前あの店でこいつが言った台詞を思い出して、ちょっと笑う。

俺は少し身体を屈ませて、そいつの後ろにあった机に両手をかけた。
必然的に、そいつの顔に俺の顔が近づく。
そして、当然のように、俺はちょっと首を傾ける。
目を開けたまま、まだじっと見てるそいつに苦笑しながらも、俺は気にせずその唇に自分の唇を重ねた。
ほんのちょっと触れただけだってのに背中がゾクリとして、それを誤魔化すようにもっと深く口付ける。

何度も角度を変えて重ねてるうちにワケ分かんなくなって、呼吸とも声ともつかないものが二人から漏れて、互いの手が互いの背中に回される。
名残惜しくも唇を離せば、既にもう二人とも戻れないところまで来ていた。
たかがキス一つで―――笑える。

「―――このままここでやっちまったら、アニキにぶっ殺されそうだな。」

冗談言って余裕かまそうと思ったけど、やっぱ無理。
そいつの顔を見て、抑えがきかなくなって、俺はそいつを抱え上げた。




「おお、派手にやられたなぁ。」

相変わらず史浩は暢気に言いやがる。
俺は口の端をさすりながら目の前で笑う奴をジロリと睨んだ。

夜の峠に集まった連中がこっちに好奇の目を向けてくるのを見て、ちょっと失敗したかな、とも思う。
でも仕方がない。
タイムアタックの前にちゃんと片を付けたいと思ったんだ。


の「元」彼氏は、随分と年上だった。
近所のお兄ちゃんとして小さい頃から慕ってたって話だけど、10コ上ってことは、男が二十歳ん時にはまだ小学生だろ。
それって、ある意味犯罪くせぇよな。
一体どんな奴なんだよ?と多少胡散臭く思ってたけど、実際に会ってみたら全然普通の男で拍子抜けした。

は、自分一人でその男にちゃんと話をすると言ったけど、俺も一緒に会いに行くと言った。
ケジメって言うのもちょっと変だけど、何つーか、自分の覚悟みたいなもんを相手にも示したいって言うか。
一ニ発殴られる覚悟で行ったら、本当に殴りやがった。

「いつかはこんな日が来るんだろうとは思ってた。」

自分たちは兄妹みたいな関係だったから、とそいつはため息まじりに言った。
で、最後に笑顔で「でもやっぱりムカつくから一発殴っていい?」と、左頬にストレート。
その力の入り具合に、そいつのへの気持ちの強さを感じ取ることが出来て、ちょっとだけ胸が痛んだ。
でも、後悔はしてない。
この男を傷つけても、二人の間を引っ掻き回しても、やっぱりが欲しいと思っちまったんだから。


「まあ、その程度で済んでよかったな。」

史浩の隣りに立っていたアニキがしれっとした顔で言う。

あの夜のことは、結局どこまでが本当でどこまでは嘘だったのか、どこからどこまでが誰のたくらみだったのか、俺はちゃんと聞いていない。
まあ、それ自体は別に大した問題じゃない。
ただ確かなのは、あいつが俺に会いたいと思っていたことだけだ。
それだけでいい。
―――つっても、やっぱちょっとアニキにはムカつく。
あんな釘刺すようなこと言っておきながら、あいつに協力なんかしやがって。

「俺は別にやめておけとは一言も言ってないぜ。」

見透かしたようにそう言って、ニヤリと笑うアニキ。

「おまえとあいつにそれだけの覚悟があるなら問題ないさ。」
「・・・とてもそんなふうには見えなかったけどな。」
「そうか?」

もちろん、アニキに諦めろってはっきり言われても、俺が素直に言うこと聞いたとは思えねぇけど。
メカニックに呼ばれて向こうに去っていく背中を見ながら思う。

アニキは―――そう言う覚悟、したことねぇのかな?

いや、聞かない方がいっか。
俺はもう一度、切れた口端を撫でる。

「今日はは来ないのか?」
「来てたまるかっつーの。」
「どうせすぐに自分のタイムは知られるぞ?」
「いいんだよ。」

その場で知られてアニキと比べられんのも嫌だし、事務的に聞かれるだけってのも、それはそれで面白くねぇし。
つっても、こう言うのにも慣れなきゃいけないんだろう。
チームの仲間なんだから。

「まあ・・・今までも大変だったろうけど、これからも大変だな。」
「分かってる。」

いいよ、覚悟は出来てる。
全部ひっくるめて、やっぱが欲しいと思ったんだ。
やってやるさ。

「とりあえず、今日のタイムアタックで、アニキをぶち抜く。」
「お、強気だな。」
「目標は高く持っとかねぇとな。」
「じゃあ、俺より遅かったら一ヶ月と会わないって言うのはどうだ?」

いつの間にか戻ってきたアニキが背後で企むように微笑む。
冗談めかして言っといて、マジでやるから怖ぇ。

「そのくらいの覚悟は必要だろう?」
「げ・・・。」
「そうだな、その間に俺が口説いてみるか。」

冗談だって口では言ってるけど、目は笑ってねぇよ、アニキ。



ああ―――いろいろと大変なのは、これからだ。