欠片 4




何でそんな話になったか。
どういう流れでそう言う話題になったのか、よく覚えていない。
ただ、彼女がバイトばかりで、観光地にいながら観光らしいことを全くしていないと言って。

「今度のお休みに一緒に秋名湖の方に行かない?」

そう言い出した。

「私、今度の日曜にお休みもらえそうなんだけど。」
「え・・・と、でも俺、昼間は車出せないっすよ・・・。」

いくらあの親父でも、俺に昼間車に乗せようとはしない。
と言うか、もし乗って行ったりしたら、まず間違いなくグーで殴られるだろう。いや、そんなんじゃすまないかもしれない。
俺は渋々、そう返す。
でも、彼女はそんな俺の返事なんか分かりきってたみたいに、ケロッとした顔で言った。

「バスで行けばいいじゃない?」

はっきり言って、そのバスに乗るのは初めてだった。
考えてみれば秋名湖に行くのだって、小学校の遠足以来だったかもしれない。
すぐ側は毎朝通っているのに。変な感じだ。
考えられなくくらいノロノロとしたスピードで、バスが山道を上って行く。
殆ど乗客のいないそのバスの窓から、夏の日差しに照らされた木々を眺める。
いつもそんな景色に目をやることなんかなくて、しかもいつも薄暗がりの中しか通ったことがなかったから、やけにその木々の緑が鮮やかに見えた。

途中のバス停から、さんが乗ってくる。
俺を見つけるとニッコリ笑って手を振り、近づいてくる。
ほんの数時間前ホテルの前で見たはずの笑顔。
こんな昼間に明るいところで会うのは初めてだからなのか、彼女がワンピースなんか着ているからなのか、何かいつもと違う気がして落ち着かない。
隣りに座ったとき、ふと彼女の匂いがして。さらに落ち着かない。

「私、秋名湖でボートに乗ってみたいな。」

無邪気に笑ってそう言う彼女に、ちょっとだけ、罪悪感を抱く。

夏休みの日曜なだけあって、湖周辺にはそこそこの観光客が来ていた。
ロープウェイの前には人の列が出来てるし、小さなゴーカート乗り場では子供がはしゃいでる。
この場所にそんなに人がいるのを見ることなんかなかったから、やっぱり違和感があった。

「ね、ボート乗ろう、ボート。」
「・・・俺、漕いだことないっすよ。」
「きっと平気だよ。」

一度湖のボートって乗ってみたかったんだ、なんて言って俺の腕をぐいぐいと引っ張っていく。
手漕ぎボートに腰掛けて嬉しそうにはしゃぐ彼女を見て、本当にこの人年上なのかな、とちょっと呆れたけど、でも、何故か口元の力が緩んでしまうのを止められない。
俯きがちにいそいそとボートに乗り込み、店の人に湖面へと押してもらう。
少し緊張しながらもオールを水の中に入れて手前に引くと、ゆっくりだけど、ちゃんと前に進んで俺はちょっとほっとした。

「やっぱり湖の上は涼しいんだね。」
「でも頭のてっぺんは、すげぇ熱くないですか。」
「・・・拓海くんってロマンチストじゃないねー。」

真正面の俺を見たまま口を尖らせる彼女。
本当にこの人、俺より大人なのかな。
またそんなことを思いながら、ふいと目を逸らしてボートを漕ぐ。
水のちゃぷちゃぷという音と、時折その水の上を抜けていく風と。確かに、ちょっと気持ちよかった。

ボートに乗って、さんがワカサギフライ食べたいって言うからお昼にそれを食べて、湖の周りを歩いて。
全然、大したことやってないのに、あっという間に時間は過ぎていった。
気が付いたら、陽の光はオレンジ色に変わっている。

「バスの時間って大丈夫だっけ。」

そんな彼女の台詞が、少し恨めしく感じた。

バス停で二人でバスを待っていると、帰っていく車がたくさん前を通る。
来るときには鮮やかに見えた木々の緑が、今は夕陽に照らされて、やけに寂しく感じる。
蝉は相変わらずうるさいくらい鳴いているし、空気はまだ熱を持ってる。
だけど何か、寒いような、変な錯覚を覚えて、少しだけ、さんの方に近づいた。
彼女も、似たように感じたんだろうか。
その手が少し遠慮がちに伸びて、俺の手の指を掴んだ。

「また明日ね。」

さんがポツリと言う。
うん、そうだ。明日にはまた会えるんだ。すぐ。会える。
だけど、その手を離したくなくて、つい、指に力が入っちゃうのはなんでだろう。
何で寂しいなんて―――別れたくないなんて思うんだろう。

俺がさんを見下ろすのと、彼女が俺を見上げるのと、たぶん同時くらい。
彼女は、繋いでいた方と反対側の手で俺のシャツの袖口を掴んで、背伸びして。
ほんの一瞬。唇が、触れた。