欠片 5




夏休みが、もうじき終わる。

俺は―――何もかも、忘れていた。
彼女の前では、俺はただの藤原拓海で、高校生でも、子供でもなくて。
彼女も、俺にとってはただので。
年上でも、大人でもなかった。

毎朝の、一時間にも満たない、朝もやの中の二人の時間。
それがすべてで。何もかも、忘れていた。

「寄り道してねぇでさっさと帰って来いよ。」
「分かってるよ。」

高校が始まっても暫く変わらない生活を送っていて、だからもうずっとこの生活が続くと錯覚していた。
だけど、そんなわけはない。
それに気付かされたのは、本当に、ぎりぎりになってからだった。

「―――私、今日でバイト最後なんだ。」

ここ数日、確かにさんは何かを言おうとしているのは分かっていた。
でも、そんなことだったなんて、俺は全く想像していなかった。
よくよく考えてみれば十分ありえることだったのに。寧ろ、それしかなかったのに。
間抜けだ。
間抜けで―――何も言葉が出なかった。息の吸い方さえも分からなくなりそうだった。

「ごめんね、急に・・・。言おう言おうって思ってたんだけど。」

いつもみたいに明るく笑って言う。
でも、その声が震えるのは、隠せなかったみたいだ。
俺も何か言わなきゃいけない。そう思うのに、声が、出やしない。

「今日の夕方―――東京に戻るの。」

その言葉を聞いて。
俺はもう何も考えられなくなって。
気が付いたら、彼女を連れ出していた。

この前来たばかりの秋名湖は、薄暗がりの中で静かに湖面が揺れてて、寂しいというよりも、何か怖いくらいだった。
こんなところにさんを連れてきて、どうしたかったのか分からない。
でも、あのままいつもと変わらずに手を振って別れてそのまま―――なんてこと、出来そうになかった。
何かを言いたい、何かを伝えたい。そう思ったのかもしれない。
でもやっぱり言葉なんて全然出て来やしなかった。

車のエンジンを切って、ただ、フロントガラスの先を見つめる。
彼女も膝に両手を置いたまま、同じように前を見つめていた。

好きだって―――言いたかったのか。
帰るな、って言いたかったのか。
元気でなって、笑いたかったのか。
どれも当たっているようで、嘘のようだった。

明日の今ごろは、もう彼女はいないのだ。
それが、信じられなかった。

「―――拓海くん。」

さんの方が先に口を開く。

「拓海くんに会えて、本当に嬉しかったよ。」

―――そんな風に、寂しそうに笑うなんて、ずるい。

「ありがとう。」

俺に、何も言わせないなんて、ずるい。
そうやって、キスだけ残していくなんて―――あんたは、やっぱりずるい。

ずるい、大人なんだ。