untruth 1




先輩、俺と付き合いましょうよ」

放課後、部活の休憩時間だという切原が、委員会の仕事で残っていたの前に現れて開口一番。
机に手を突いて少し身を乗り出すような体勢の彼は、本当に練習の合間に走ってきたと言った感じで呼吸は荒くて汗をかいている体は湯気でも立ちそうに見える。
額を流れる汗を拭う切原をじっと見た後、は何事もなかったように仕事を再開しようと机の上の資料に向き直る。

「ちょっと。無視しないで下さいよ」

頭の上から不機嫌そうな声。
がチラリと視線を上げると、覗き込んで来た切原と至近距離で目が合った。
この男は本当に理解が出来ない。
人懐こい顔をするかと思えばテニスの試合などではイキナリ無茶なことをするし、子供みたいな表情をするかと思えば急に男の顔をすることもある。

「……そんな冗談に付き合ってる暇ない」
「冗談なんかじゃないっスよ。俺本気で言ってんですけど」
「部活の休憩時間に?」
「別にいつ言わなきゃいけないって決まりなんかないっしょ」

いつもと変わらない軽い口調に、それとはアンバランスなくらい真剣な目。
このまま適当に流し続けようか迷った。
はあ……と息を吐いて視線を逸らし俯く。

「私、好きな人がいる」
「知ってますよ」

切原の速攻の返事に、は訝しげな目をして顔を上げる。
相変わらず真剣な目つきのまま。
けれど口の端が少しだけ上がる。

「柳先輩でしょ?」

自信満々に答える彼の様子には密かに動揺し、それを隠すようにむっとした顔をする。
そんなに、周囲の人間にばれるような態度を取っているだろうか?
そんな彼女の心の呟きを見透かしたかのように切原は「たぶん誰も気づいてないっスよ」と言っての机から手を放し、後ろにあった椅子に寄りかかる。
そしてニヤリとまた意地悪い笑み。
ますますこの男が解らない。
は彼を睨むように見上げる。

「―――それなら、答えもわかるでしょ」
「わかんないっす」

いけしゃあしゃあと答える切原を、今度は遠慮せずに思い切り睨む。
けれど睨まれた当人は全く動じることなく、脇に立てかけていたラケットを掴んでを見返した。

「―――俺、考えたんすけど。先輩、俺のこと利用すればいいんですよ」
「は?」
「だってあんた、柳先輩と全然接点ないっしょ?でも俺と付き合えば話す機会もあると思うし」
「それ、本末転倒って言わない?」
「そんな難しい言葉使われてもわかんないっすよ。とりあえず、続きは部活終わった後にしましょ」
「ちょっと待ってよ、切原くん!」
「あ、俺そろそろ戻んなきゃなんないんで」

そう言って切原は逃げるように走り去る。
一人になった教室は一気にシンと静まり返り、ついさっきまで交わしていた会話も一気に現実味を失う。
……なんかの冗談だろう。
は即座にそう思い直し、目の前の仕事に向き直った。


切原の言うとおり、と柳の接点は殆どなかった。
去年は真田と同じクラスでしかも後半はずっと隣りの席だったので、彼に用があった柳がクラスに来て時折伝言を頼まれたり預かり物をしたりした程度。
しかし、そんな些細なやり取りでもの中に特別な感情を抱かせるに十分だったらしい。
穏やかで静かな口調。時折見せる笑み。
気まぐれで見に行ったテニスの試合でも常に冷静で―――でもどこか熱を秘めていて。
気が付けば彼ばかりを目で追っていた。

けれど、周りには知られないように気をつけていたつもりだ。
何故なら彼には既に彼女がいたから。
見ているだけで幸せだなんて、そんなふうには思わない。
だから、さっさと諦めればいいのにといつも自分に対して呆れながら―――結局諦められずにいる。

接点と言えば、本当なら切原とも殆ど存在しない。
その気まぐれで初めて行ったテニスの試合のときに話し掛けられて、それ以来学内で会うたびに声を掛けられるようになった。
とは言え、学年の違う彼と会う機会はそうそうあるものではない。
後輩の中では比較的話をする方ではあると思うが、「仲がいい」と言うほどの関係でもない。
だから、いきなりあんなことを言われて、混乱しないわけはない。



委員会の仕事が終わって、さっさと帰ろうかと校舎を出て校門へ向かいかけたが、途中何となく気にかかってテニスコートの方へ足が向いてしまった。
けれど既にコートには片づけをしている一年生しかおらず、はほっとため息をついた。
そしてクルリと方向転換しようとしたとき、後ろから元クラスメートの声。

「―――?こんな所で何をしてる?」

振り返ると、そこに立っていたのは制服に着替え終えてテニスバッグを肩に掛けた真田。
は試合には何度か行ったことがあるが、普段の練習は見に来たことがない。
相変わらずの無愛想な真田の態度の中にも、珍しい場所で珍しい人物を見たと言うような空気。

「ああ……真田くん、久しぶり……」

何をしていると聞かれて、何と答えるべきか。
返答に困り、取ってつけたような挨拶をして曖昧な笑みを浮かべる
そんな彼女にますます不審げな表情をする真田の背後から、走ってくる人物。

先輩、迎えに来てくれたんスか?」
「えーと……うん」

迎えに来たという自覚はなかったけれど、でも実際にはそんな感じだ。
は一瞬躊躇ったが、駆け寄ってきた切原の言葉に素直に頷いた。
一瞬真田の目が大きく見開いたような気がしたけれど、気づかないふりをする。

「じゃ、帰りましょっか。真田副部長、お先に失礼しまっす!」
「あ、えーと、じゃあね、真田くん」

礼儀正しく真田に頭を下げた後、の方に向き直ってその肩に手を回す切原。
も一瞬目を大きくしたが、ここであれこれ揉めるのは面倒な気がして成り行きにまかせる。
真田が何か言いたげに口を開いて呆然と二人を眺めていたが、そのままにして校門へと向かった。

「―――で、切原くんの真意を問いたいんだけど」
「先輩、腹減ってません?何か食いに行きましょうよ」
「もう遅いから、やだ」
「うわ、つめてー」

あっけらかんとした表情で、抗議の言葉。
そして次の瞬間には可笑しそうに笑っている。

「ま、そう言うハッキリした所がいいんスけど」
「―――で、君の真意を知りたいんだけど?」

もう一度冒頭の台詞を繰り返す。
けれど彼はチラリと隣りのを見るだけで、また「腹減ったー」と言うだけ。
ため息を吐きながらジトリと睨むと、切原も一緒になってため息をついた。

「だから。さっき言った通りですって」
「君と付き合って、柳くんに近づけって?それ、おかしいでしょ」
「そうすかー?いい考えだと思うんスけど」
「どこがよ?別に君と付き合わなくても『友達』だっていいじゃない」
「わかってないなー、先輩。それじゃ柳先輩とかカノジョとかが警戒しちゃうじゃん。でも俺の彼女ならまさか柳先輩目当てとは思わないっしょ」
「……ばれたときは、そっちの方が最悪だと思うよ」
「そんなん、ばれなきゃいいんですって」

の呆れ顔など全く気にすることなく、切原が笑う。

「でも、切原くんにメリットがなくない?」
「ありますよ。美人の彼女が出来たって周りに自慢できる」
「あっそ」

冗談ばかりの切原には首を横に振り、彼を置いてスタスタと歩き始めた。
「待ってくださいよー」と追いかける切原の声は相変わらず暢気で、こんなの反応など予測済みなのだろう。

「冗談じゃなくてさー、俺も彼女とか欲しいし」
「切原くんなら、別にこんなことしなくてももてるでしょ?」
「ああ、そう言うのはダメ。俺、今の一番はテニスだから。ホントの彼女の相手って忙しくてやってられないんスよ」
「……つまり、恋愛ごっこがしたいと?」
「そ。適当に」

で、私に白羽の矢が立ってしまったというのか。
はまた深いため息。
何となく腹の立つ話ではあるけれど、ここでこの話に乗れば、彼を利用することになって「おあいこ」になるのだろう。
首を傾げ、俯き、空を仰ぐ

「―――やめとく」

簡単に承諾するわけはないと、これも予測済みなのかの言葉に「返事早いっすねー」と可笑しそうに笑った。
その笑みは意味深に見えなくもなかったけれど、その後は他愛ない話しかしなかったので、はあまり深く考えなかった。

―――が、翌日、学校に来て実はもう自分に選択権など与えられていなかったことに気が付いた。