untruth 5




駅で別れて、どうやって家に帰ってきたのか、ちゃんとご飯を食べたのか、いつ寝たのか、よく覚えていない。
朝目が覚めて部屋のカーテンを開けると、いつもと同じように陽の光が眩しくて、昨日の朝と何も変わっていないような気がした。

それは学校に行った後でも変わらない。
友達と交わす挨拶も会話も、教室の空気も何もかも。
ただ、昼休みになって、やっぱり変わってしまったのだと実感した。

「今日は切原くんお休み?」

切原と一緒に食べるようになる前は毎日一緒に食べていた友達が、弁当箱を鞄から取り出しながら「珍しいねー」などと笑った。

「ああ……うん」

はハッキリしない返事をするだけで、曖昧に微笑う。
たぶんもうここには来ないと思う。
そう心の中で呟いたけれど、声に出して言うことができなかった。

「久しぶりに一緒に食べようか」
「うーん……でも、私お弁当持ってきてないし、学食行って来るよ」
「そう?」

一人教室を出たは、結局学食には行かずに購買でパンとジュースを買い、ふと思い立って屋上に向かった。
切原と一緒に食べる前は、天気がいいと友達とよく屋上の端の方でお弁当を食べていたものだ。
少しひんやりとした階段を上って屋上へのドアを開けると、あたたかい風が頬を撫でる。
は目を細め、ぽつぽつとある生徒の姿を何となく眺めながら、奥の方へと行く。
すると、そこには既に先客が一人、腰を下ろしていた。

「―――柳くん」

驚いて目を大きく開くに対して、その彼女の行動が予想通りであるかのように落ち着いた顔つきのまま変わらない柳は、彼女の方を向く。

「どうしたの?いつも学食じゃなかったっけ?」
「そう言うも、いつも学食ではなかったか?」

そんな所に立ってないで座ってはどうだ、と促す柳の言葉に抗う余裕なく、は素直に彼の隣りに座った。
ペタリと腰を下ろした彼女を見届け、柳は少しだけ口元を緩ませる。

「お前がここに来る確率は、37%と言ったところだったんだが」
「……あまり高くないね」
「そうだな。だが、0%でない限り、ここで待とうと思った」

相変わらずの淡々とした口調で、聞き捨てならないことを言う。
は袋からパンを取り出す手を止め、柳を見る。

「お前と赤也が、今日昼を一緒に食べる確率は―――もっと低かった」
「どういう、こと?」
「昨日、赤也はちゃんと待ち合わせ場所へ行ったか?」

事務的とも取れないこともない調子で聞いて来る柳。
この人は一体何をどこまで知っているんだろうか。
戸惑いながらは小さく頷く。
すると、柳は少し安心したようなため息。

「柳くん……何を知っているの?」
「昨日お前たちが待ち合わせをしていたことだけだ」
「それだけで、そんなに色々予想出来るの?」
「……昨日、部活の後、赤也に代わりに行ってくれと言われた」
「え……?」
「急用が出来たのだと、あからさまに嘘と分かる顔で言って来た。あいつは何か勘違いをしているのだ。大方、俺が行った方がお前が喜ぶとでも思ったんだろう」

表情も口調も崩さず、そう言ってフェンスの向こうに視線を向ける。
の方は、もう、何を話していいのか分からず、そんな彼の横顔をじっと見ながら、膝の上のスカートをぎゅっと掴んだ。
切原が、柳にそんなことをそんなことを頼んでいたということもショックだし―――今の話からすれば、柳が自分の気持ちを知っているということになるのではないだろうか?
実は、全部知っていたのだろうか?
―――考えてみれば、それは当然のことなのかもしれない。
彼を欺くことなんて、きっと不可能に近い。

「―――あいつは、俺に、お前と付き合っていいかと聞いてきた」
「え……」
「俺にはそれを止めることは出来ないと言った。……当然だな。俺には付き合っている子がいる」

柳は弁当に手を付けることなく、昔話を始める。
は彼をじっと見つめたまま、その話を聞いていた。

「お前が赤也の申し出を受ける確率は極めて低かった。あいつが自分を利用すればいいと言い出すのはほぼ確実だったから、そんな提案にお前が乗るわけはないと思った」

柳の言葉に、黙ってうなずく。
その彼女を見て、柳は少しだけ困った顔をしてため息をついた。

「だが、お前はその提案には乗らなかったが、赤也と付き合い始めた」
「べつに、付き合ったわけじゃ―――」
「確かに、あいつは強引だが、お前は言うときにはちゃんと言うやつだ。単に流されて一緒にいたわけじゃないだろう」

の否定の言葉を遮り、柳は続ける。
一体、何故彼は自分の性格まで知っているのだろう?
そんな彼女の疑問を見透かしたように、彼が小さく笑う。

「お前のことは、去年からよく見ていたから知っている。弦一郎に用事があるとかこつけてお前を見ていたことに、お前は気付いていなかったようだが」
「……柳、くん?」
「彼女には何度か別れを切り出したが―――全て失敗した。強引にでも別れればよかったのだろうが―――まだ大丈夫だろうと甘い考えを抱いていたのと、お前が赤也に好意を持っている確率を見誤ったのが、そもそもの間違いだった」
「私が……切原くんを、好き?」
「お前が試合を見に来るたびに、切原に声を掛けられて話をしているときの表情。……そんなはずはないと、俺は無意識に否定し、冷静な判断が出来ずにいた。そうしたらいつの間にか取り返しのつかないことになっていたな」
「……」
「赤也が、好きなのだろう?」

静かに微笑って問う柳。
はじっと見上げることしか出来ず、否定の言葉を口にすることも首を横に振ることも出来ない。
暫くしてようやく口を開きかけたが、すぐに柳が遮ってしまう。

「私は―――」
「好きなのは赤也ではないと言うのなら、何故お前は今朝からずっと泣きそうな顔をしているのだ?」

僅かに首を傾げて聞いて来る彼の台詞に、は自分の頬を両手で押さえる。
そんな顔をしていた自覚などなかったので、戸惑い、俯く。
そして認めたくないとばかりに小さく首を振った。

「赤也に、この関係を終わらせたいと告げられたのだろう?」
「……どうして、知ってるの?本人から聞いたの?」
「いや。聞いたり予測するまでもない。今朝の朝練での赤也は集中力を欠いて酷いものだった」

どんな時でもテニスに対する集中力は人並み外れてすごかった切原に限って、そんなことがあるのだろうか。
柳が冗談を言っているようには見えないが、は思わず口元を歪ませる。
第一、彼にとってこれは「恋愛ごっこ」だったはずだ。
自分にとっての一番であるテニスを守るために選んだ関係。

「あいつは器用ではないというのに、自ら複雑な関係を装おうとして自滅したな」

俯くの横で、ため息が聞こえる。
そして暫くの沈黙の後、柳がの名を呼び、ゆっくりと彼女の方を向いた。

、お前まで一緒になって物事を複雑にしなくていい。今の自分の気持ちを単純に考えればいいんだ」
「今の……」
「そうだ。過去がどうだとか、相手がどうだとか考えずに。今のお前の気持ちだ」

柳をじっと見た後、静かに目を閉じる。
浮かんできたのは、昨日のテニスコートでの切原だった。
初めてテニスの試合に行って声を掛けられた時、先輩を先輩とも思わない口調で、「なに、この子」と少なからずびっくりしたけれど、何故か腹は立たなかった。
その後声を掛けられた時―――確かに、何となく、安堵に近いような感覚を覚えて、また話し掛けられることを心のどこかで期待していた、ような気がする。

突然、付き合おうと言われた時も、嫌な感じよりも―――むしろ、その逆の気持ちが湧き上がってきた。
しかし、自分は柳が好きなのだ。
その思いが、彼女に冷静さを装わせたが。
自分を利用すればいい。
恋愛ごっこがしたい。
そんな切原の言葉に腹立ちを覚えたが―――本当は、それよりも、悲しかった。

柳の手が、の頬に触れる。
その指が濡れているのを見て、自分が泣いていることに気が付いた。

「私……行かなきゃ」

は自分で涙を拭い、すくと立ち上がる。
すると柳の方も弁当を仕舞い、立ちあがった。

「いや、俺の方が行こう。赤也ならさっきからその影にずっといるからな」
「え?」

くるり、と振り返り、柳の指差す方を見る。
二人でじっと黙っていると、観念したらしい切原が物影から姿を見せた。
所在なさそうに口を尖らせ、視線を彷徨わせながら。

「……切原くん」

呆けた顔のまま立ち尽くすの隣りで、柳はふぅと息をつき、切原の方へと歩み寄る。

「俺を利用するとは、大したものだな。赤也」
「な……っ、そんなんじゃ……!」
「お前には駆け引きなどは無理だ」

この貸しは大きいぞ。
冗談なのか本気なのか分からない声で、小さく笑いながらそう言い、去って行く柳。
切原は屋上から出て行く彼の方を見たまま、の方を見ようとしない。
も、やはり本人を前にすると、どうしていいか分からず柳の去って行った方を見た。

不自然な沈黙。
少し離れた所にいる女生徒たちの笑い声や喋り声が時折耳に届く。
頭は何となく冷静に感じるけれど、心臓のドクドクと言う音はやたらと騒がしい。
は手に持っていた袋をぎゅっと握りながら、深呼吸した。

「―――やっぱり、やめたくない」
「え?」

先に口を開いたのはの方。
独り言のようにボソリと言う。

「昨日の……あの時は『うん』って言ったけど、やっぱり、やめたくない」

びっくりした顔での方を見る切原。
その彼の目を見ようと思ったけど、まだ、その勇気が持てなくて逸らしたまま。

「テニスが一番でいいよ。でも、一緒にご飯食べたり、一緒に帰ったり、たまには一緒に遊んだり……したい」
「それって……どういう意味っすか」
「―――分からないの?」

肝心な台詞はなかなか口に出せない。
は口を尖らせ、切原の方はまた顔を背ける。

「……やっぱ、柳先輩とあんまり喋んないで下さい」
「え?」
「あんたが、他の男と喋ってるの見ると……すげームカつくから」
「それって……どういう意味?」
「分かんないんすか?」

今度は切原が口を尖らせてを睨む。
そんな彼につられても一緒に尖らせて、顔を見合せて―――ちょっと、笑った。

「ごめん、俺、やっぱさんが好きだ」