absurd 5




間近で見た跡部くんは、ものすごい存在感で一瞬言葉が出て来なかった。
校内で何度かすれ違ったことはあったし、あらゆる行事で表に立っている人だから面識ないって言っても、結構見たことはある。
でも、正面に立つと、こんなに緊張するものだとは思わなかった。
同い年なのに。
その私の緊張を見事にぶち壊してくれたのは、学校より若干テンションの高い芥川くんだった。

「あのねー、この子はちゃん。あ、跡部はまだって呼んじゃ駄目だよー?」
「ちょっと芥川くん!もうちょっとマトモな紹介をしてよっ」
「……呼ばねーよ」
「でねー、俺のカノジョ」
「だからマトモな紹介を……っ」
「ああ、そうかよ」

最初、あんまり表情の分からない顔で私を見ていた跡部くんが、ちょっとだけ笑う。
まあ笑うって言っても、苦笑って感じだけど。
そんな跡部くんの「ジローはさっさと着替えて来い」と言う言葉と共に、芥川くんはバタバタと奥の方の部屋へと消えてしまった。
取り残されて呆然としかけた私に、跡部くんが歩き出しながら言う。

「お前はこっちだ」
「え?あ、うん」

後ろを振り返ることなくどんどん進む跡部くんの後を、何とか早足でついて行く。
何か話した方がいいんだろうか。
そんなことを頭の中で考えながらも、適当な話題も見つからずに黙々と歩く。
広くて長い廊下。
どこまで行くんだろう?と思った時、跡部くんはその途中にあったガラス張りの大きな扉を開けて中庭に出た。

「うわ……」

綺麗に刈り込まれた芝生が一面に広がる。
少し離れた所で何かがキラキラしていると思ったら、大きなプールの水面が陽の光で輝いていた。
反対側を見れば、ちょっと遠くに大きなガラス張りの温室が見える。
私たちの向かう先に目を向ければ、そこには個人所有とは思えないような立派なテニスコートがあった。
噂には聞いていたけれど、これほどとは。
日本国内とは思えないような空間に、私は茫然として思わず足が止まってしまう。
下手したら学校よりも大きそうだ。

「おい、置いて行くぞ」

その声に慌ててまた歩き始める。
こんな家に住む気分ってどんななんだろう。
――って、別に子供の頃からこれが当たり前なら、すごいとか思わないのかな。
東京に住む人が、東京タワーを特に珍しがらないように?

「なに呆けてやがる」

私の方を振り返り呆れた顔をしながら、跡部くんはフェンスの扉を開ける。

「ああ……うん、跡部くんって東京タワーってやっぱり上らない?」
「――は?」

――しまった。
気が動転して、馬鹿なことを聞いてしまった。
口を手で押さえ、促されたベンチに腰を下ろす。
跡部くんもその隣りにドカリと乱暴に座って、靴の紐を結び直した。

「……上ったことはあるぜ」
「えっ?」

上ったことがあると言うのにもビックリだし、何よりこんな妙な質問にちゃんと答えてくれるとは思わなくって、声が裏返ってしまった。
跡部くんはもう片方の靴紐を結びながら淡々と続ける。

「ガキの頃、夏休みに日本に戻ったら連れて行かれた」
「へ、へえ……」

そう言えば、小学校まではイギリスの方に住んでいたとか言う話を聞いたことがある気がする。
いい思い出があるのかないのか分からない無表情がちょっと怖くて、会話が広がらない。
冷や汗を拭っていると、着替えを終えた芥川くんがラケットを手にこちらに向かって走って来た。

「なになにー?何話してたの?」
「東京タワーに上ったことがあるかどうかって話だ」
「あっ、俺ないよ!跡部はあるの?」
「ああ、小さい頃な」
「へーっ。は?」
「え、ああ、私は……近くまで行ったことはあるんだけど、上ったことはないよ」
「そうなんだー。じゃあ今度一緒に行こっか!」
「えっ」
「デートの約束は後でしな」

ベンチから立ち上がった跡部くんが、ポケットから取り出したボールを芥川くんに投げる。
そして嬉しそうにコートの中へと駆けて行く芥川くんに小さなため息を吐き出して、自分もコートへと入って行った。
こうやってテニスを間近で見るのは初めてだ。
たまにテレビで中継されているのを父親に付き合って観ることはあったけれど、テニス部の試合や練習を観に行ったことはなかった。
あれだけ学校中で騒がれているテニス部だから全く興味がなかったわけではなかったんだけど、試合会場やテニスコートまで足を運ぶ程の興味は持てなかったから。

「行っくよー!あとべー」

普段の眠そうな芥川くんとは同一人物とは思えないような元気な声。
楽しそうにコートの中を走り回り、難しそうなボールを――私はテニスはよく分からないからどんなボールがどれ位難しいのかなんて判断つかないけど――うまく跡部くんの方に返せるとすごく嬉しそうにガッツポーズして、ラインギリギリに返ってきたボールを打ち返せなかった時は「くやし〜!」って叫ぶんだけど、顔は物凄く楽しそうで。
跡部くんの方も、さっきまでの無表情とは違って「甘いんだよ」とか言いながら楽しげに笑っている。
でもそんな笑顔とは裏腹に、二人の打つボールはすごく迫力がある。
こうやって目の前で見ているせいもあるのかもしれないけど、たまに見るテレビ中継よりも何倍も面白かった。
……それに、美味しいジュースも出してくれるし。
人の家に行って、オレンジがグラスにささっているオレンジジュースを飲んだのは初めてだ。

よく部活を見学に行く女の子たちの気持ちがちょっと分かった気がした。
たぶん、彼らの顔がカッコイイとか、そう言うことだけじゃなくて、きっと、楽しいんだろうな。

「ねー、もやる?」

ちょっと休憩、と言ってベンチに腰掛け、タオルで汗を拭う芥川くん。
汗だくで隣りに座る私にも熱気が伝わって来る。
「はー。あちー」と言いながらタオルに顔を埋める彼に、私はさっきメイドさんに渡されたスポーツドリンクを差し出した。
続いて跡部くんも置いてあったタオルを手に取り、少し離れたベンチに腰を下ろす。
でも跡部くんの方はあんまり汗かいてないなぁなんて思いながら隣りを見ていたら、背もたれに両腕を投げ出して「交代だ」と言った。

「え?」
「俺様は疲れたから、てめーがジローの相手しな」

自分のこと俺様って言うんだ……。
ちょっと呆然とする私の横で、芥川くんがベンチから勢いよく立ちあがる。
そしてベンチに立て掛けていた自分のラケットを私に差し出して来た。

「俺のラケット貸してあげる」
「え、でも芥川くんは……」
「俺は跡部の借りるよー。いいよね、跡部」

片手でスポーツドリンクを飲みながら、黙ってラケットを芥川くんの方ににゅっと差し出す跡部くん。
芥川くんは自分のラケットを私の手に強引に握らせて、その跡部くんのを受け取った。

「よーし、勝負だ!」
「いやちょっと待ってよ、芥川くん。私は初心者だってさっきも言ったはずじゃ……」

私の主張を聞き入れず、コートに入った芥川くんはさっきまでと変わらないサーブのポーズ。
ボールが高く投げ上げられ芥川くんの体がしなる。
え?ちょっと本気?
そんなことを思う余裕なく、ボールが私の方に近づいて来た。
流石にそれ程スピードが出てなかったらしくて、私はそれを追いかける。
そして、見よう見まねで何とか打ち返そうと思ったら、思い切り空振りしてしまって、その勢いに負けてビタンと尻もちをついてしまった。

「あはは!、カッコわる〜」

ネットの向こうでケタケタと笑う芥川くん。
本当に――学校での彼と同一人物なんだろうか。
立ち上がってお尻をパタパタと払う。

「普通、女の子が転んだら助け起してくれるもんじゃないの?」
ならこれくらい大丈夫かな〜と思って」
「……ああ、そうですか」

まだ笑っている芥川くんを非難がましくジロリと睨み、転がって行ったはずのボールを拾おうと後ろを振り返る。
と、跡部くんまで笑いを堪えていた。
一体どういうことよ。
私が跡部くんも睨むと、苦笑いを浮かべて手に持っていたボールをこちらに投げて来た。

「ボールには追いついてんだけどな」

自慢じゃないけど、そんなに運動神経がいい方じゃない。
休みの日にスポーツするなんてあり得なくて、日曜は決まって家でマッタリと過ごしている。
いきなり出来るわけない。
私は無言のまま肩を竦めて見せたけど――でもやっぱりこのままじゃ悔しい。
受け取ったボールを芥川くんの方に投げる。

「――次は油断しない」
「どっかの部長みたいな台詞だな」
「あはは!さっすが!じゃあ行くよ〜」

笑いながら、芥川くんはまたボールを空へと投げる。
よし、今度こそ。
そう思うけれど、気合いだけで取れるほどテニスは甘くないらしい。
空振りしたり大ホームランを打ったり。
そんなことをしているうちに、すっかり服が砂埃だらけになってしまった。

「マルガレーテの方がまだ上手いな」
「……誰、それ」
「跡部ん家の犬だよ、でっかいの」

私は犬以下だって言うのか。
言い返そうと思ったけど、息が上がっちゃって声が出なかった。
可笑しそうに笑う芥川くんに差し出されたスポーツドリンクをごくごくと飲む。
体育の授業だってこんな本気になったことない。
何だかさっきのオレンジジュースよりも美味しく感じて、思わず「ぷはーっ」と息をついてしまった。

って、やっぱ面白いよねー」

隣りに座る芥川くんが、あははーって笑う。
まともに打ち返せない私相手じゃ、大して面白くもなかっただろうに。
漸く呼吸の落ち着いて来た私は、タオルを口に当てて「やっぱりって何よ、やっぱりって」と、抗議の口調。

「だってってさー、普段からいじられキャラじゃん」
「は?何それ」
「友達ん中では一番落ち着いてそうに見えんのにねー。どっか抜けてんだよねー、きっと」
「……何それ」

まるで普段の私を知っているような口ぶり。
何でそんなことを知っているのよ?
戸惑った私はチラと跡部くんの様子を窺う。
けど、彼はまるで私たちの会話など耳に入らないかのように、無表情でガットのよれを直している。

「――芥川くんの方がそう言うキャラの気がするけど」
「えー?俺はいじられたりしないよ。そう言うのとはちょっと違うもん」

そう言ってちょっと笑った芥川くんの顔は、普段の眠そうなものとも、さっきまでの楽しそうなものとも違って、私はまた戸惑う。
でもきっと跡部くんは当てにならないだろうと思って、私はそんな芥川くんを見ないように「あーあ、明日はきっと筋肉痛だよ」とわざと暢気な声を出して立ち上がった。




夕方、空がオレンジ色になりかけて来た頃、私たちは跡部くんの家を後にした。

「またねー、跡部」
「……お邪魔しました」
「今度はもっと運動しやすい格好して来るんだな」

駅まで車で送ってくれると言う跡部くんの申し出を断って、芥川くんと二人で来た道を帰って行く。
まだ跡部くん家の敷地内の道をのんびり歩きながら、芥川くんは頭の後に手をやって「楽しかったね〜」なんて笑う。

「でも疲れた」
「じゃあ、車で送って貰った方がよかった?」
「ううん、そんなことはないよ。こうやって歩いた方が……えーと、運動後に体動かすのって何て言うんだっけ」
「ああ……えっと、クールダウン?」
「あ、うん、そう、それ。クールダウンになっていいよ」
「そだねー」

本当にそう思ってるのかどうか。
笑顔を向けて来る芥川くんに、思わず肩をすぼめてしまう。

「跡部ものこと気に入ったみたいだし、よかったー」
「そうは見えなかったけど」
「ええ?そう?まあ、別に跡部は愛想良くないからね」
「そっか……」
「うん。でも跡部、今日『素』だったし。のこと可愛いでしょ〜って言ったら『まあいいんじゃねーの』って言ってたし」
「……そう言えば、初っ端から変な紹介してくれてたよね」

私の冷やかな視線など何のその。
遊び疲れたのか、芥川くんは今日午後に会って初めての欠伸をした。
それにつられて私も欠伸が出てしまう。
明日は本当に筋肉痛になってしまいそうだ。
ぐるぐると腕を回す私を見て、芥川くんは「大丈夫かよー?」なんてちょっと呆れたような笑い。

「芥川くんは全然疲れてないみたいだね」
「えっ、は疲れたんだ」
「……ちょっとだけ」
「ふーん、全然ボール返せなかったのに」

冗談だよ〜ってすぐに続けたけど、どうだか。
スタスタと歩き出すと、後ろから芥川くんが「ホントにからかいやすいんだから」って言いながら追いかけて来た。
本当にもう何て言うか――芥川くんって全然可愛くない。

「むかつく」

そう抗議するけれど、本当はそんなにムカついてないことは自分でも分かってる。
芥川くんを見ていると、ムカつくってことも、悔しいってことも、いつの間にか――楽しいことに変わっているのだ。

「ねーねー、。楽しかった?」

そんな私を見透かしたような台詞。
私は素直に認めるのがちょっと悔しくて、口を尖らせながら「……楽しかったよ」と返した。
「全然楽しくなさそー!」なんてツッコミを入れる芥川くんは、すごく楽しそうだ。

「俺さー、こう言うのがいいな」
「え?」
「俺も楽しくて、も楽しかったって笑ってくれるのがいい」
「……私、笑ってないよ?」
「うそうそー。だって口元がニヤけてるよ?」

慌てて口元を引き締めようとする私に、「やっぱってたのし〜」と笑う芥川くん。
……からかったのか。
私はまた口を尖らせたけど、口元が緩みそうでムズムズとしてしまった。