absurd 7




教室に戻った私に、ミキは「どうしたの!?」ってすごく心配そうな声を上げた。
何か、泣きそうな顔に見えたらしい。
「大丈夫だよ」って笑ったつもりだけど、余計心配そうな顔をされた。

「芥川くんと――何かあったの?」

一瞬迷ったけど、私は小さく首を横に振った。
よく分からない態度を取った芥川くん。
でも、一番分からないのは私自身だ。

私は芥川くんのことを好きにならないと思う。
本人を目の前にあんなにはっきり言っておきながら、たった数日で――こんな気持ちになっているなんて。




次の日の朝、いつものようにテーブルにお弁当箱を二つ並べるお母さんに今日はいらないと言うことが出来なくて、二人分のおかずを詰めた。
でも、昼休みに中庭に行くことは出来なかった。
芥川くんにどんな顔をして会えばいいか分からなかったから。
今日は皆と一緒に食べようかな。
そう言うと、ミキにずるずると引っ張られて屋上へ。
また何か聞かれるんだろうかと思ったのに、ミキは黙ったままお弁当を食べる。
その沈黙に耐えられなくて、私は、ポツリと打ち明けてしまった。
芥川くんを、好きみたいだって。

「――え?今さら?」

それを聞いたミキは呆けた顔。
今さらって、何よ。
私がむっとした顔をすると、「だってそうじゃん!」とますます呆れた顔をした。

「そんなの、先週から知ってたよ」
「先週って――だって、あれはミキが勝手に言ってただけで私は否定してたじゃない!」
「でも気になってるの、ばればれだったよ」
「そんなこと……ない」

最後は、弱々しくなってしまった。
それは――最初にあんなことを言われたら、気にならないわけはない。
そう心の中で言い訳をする。
別に、芥川くんをそんな風に意識していたわけじゃない。
この前の――あいつみたいになんて。

「ちょっと、。何でそんな泣きそうな顔するの?芥川くんを好きになるのがそんなに嫌なわけ?」
「だって……芥川くんのこと全然知らないし。それに、この前まで別の人と付き合ってたのに……」

戸惑いながらそう言うと、ミキはポカンと口を開け、そしてやれやれとため息をついた。

って、変なところで真面目だよねぇ」
「……何よ、変なとこって」
「そんなの関係ないじゃん!」
「関係なくないよ!」
「あーっ!もう、、面倒くさいっ」
「ひ、ひど……っ」

バタンとお弁当箱の箱を閉じたミキは、私をキッと睨む。

「とりあえず、芥川くんに会って来なよ」
「え……」
「ごちゃごちゃ考えないで、その時思ったままに行動してみればいいの」

分かった?
そう言ってミキは立ち去ってしまい、私は一人屋上に取り残された。
そんな、簡単に言ってくれるよなぁ。
立ち上がって下を見下ろしたけど、ここからじゃ中庭の茂みなんて見えるわけもない。
楽しいだけじゃ駄目だと言った芥川くん。
彼の考えていることなんて、全然分からない。
なのに、あそこで寝ているだろう姿を思い浮かべると胸がチクチクするのは、何でなんだろう。
あいつのことを考える時も、こんな感じだったっけ?
そうだとしたら――また同じことを繰り返すんだろうか。

結局、昼休みに中庭へ行くことは出来なくて、私はそのまま教室に戻った。
予鈴ギリギリに戻ったこともあってミキとは話が出来ず、休み時間は隣りの席の五十嵐くんが話し掛けて来たので、結局そのまま放課後になってしまった。
お手洗いに行く時、隣りのクラスの前を通ってもなるべく中を見ないように気を付けて。

「――結局、まだ会ってないの?」

HRが終わっても暫く席に残っていた私に、ミキがもうその返事は分かってますって感じで聞いて来る。
私が黙って頷くと「そうだろうと思った」とため息をつかれた。

「今日中に会いなよ、
「……」
「今日はテニス部、練習あるはずだから、きっとまだ残ってるよ」

煮え切らない態度の私に、ミキは「明日の朝になってまだ会ってないって言ったら絶交だからね!」と言い置いて帰ってしまった。

「そんなぁ……」
「――何がそんななんだ」
「わっ!?」

教室の後ろの方から響いて来た声に、私はビクリと肩を揺らす。
聞き覚えのあるそれに恐る恐る振り返ると、そこにはあの跡部くん。
部活の途中なのか、テニスウェアを着ている。
びっくりした。この教室に跡部くんが来るとこなんて初めて見たから。
彼は教室のドアに手を掛けたまま、この前と同じような淡々とした表情で私を見た。

「ど、どうしたの?」
「どうしたのじゃねぇ。てめー、ジローに何しやがった」
「何って……何も……」

口調の割りには跡部くんの表情には怒りは見えない。
何かしたかと言うならば、どちらかと言えば芥川くんの方が「何か」した方だと思う。
怪訝な顔で跡部くんを見返すと、彼はフンと呆れたような、困ったようなため息を吐き出した。

「あいつが昨日今日と練習に来ない」
「それは――どこかで寝ている、とかじゃなくて?」
「じゃあ、てめーが探して来い」
「え……そんな、何で私が?」
「つべこべ言ってんじゃねーよ。あいつがさぼってんのはてめーが原因だ。てめーが探して連れて来い」
「それ、ちょっと横暴じゃ……」
「今日の練習であいつが試合に出なかったら、レギュラー落ちだ」
「えっ?」

跡部くんは言うだけ言って、いなくなってしまった。
あっという間の出来事で、夢だったんじゃないかと思うくらいの時間。
でも廊下から聞こえる女の子の小さな歓声が、辛うじてさっきまでそこに跡部くんがいたことを示していた。
私は暫くその場に立ち尽くす。
芥川くんが部活に来なくて、今日来なかったらレギュラー落ちで。
私が昨日逃げたから?
それとも今日お昼にあそこに行かなかったから?
もう一度考えてみてもやっぱり跡部くんの言っていることは横暴だと思った。
――けど、探さなきゃ。
体が自然と動きだす。
教室を出ると、何故かすごく焦燥感に襲われて、私は走りだした。

芥川くんがいる場所なんて、あそこしか知らない。
私は中庭に出る。
そしていつもの茂みの方へ走って行き、植え込みをかき分ける。
すると、そこには制服のままで丸まって眠っている芥川くんの姿があった。
脇には2本のペットボトル。
――まさか、昼休みからずっとここにいたわけじゃ、ないよね?

「――芥川くん、起きて」

私は恐る恐る近づいて行き、そっと名前を呼ぶ。
そうしたら、芥川くんはますます身を小さく丸めてしまった。
まるで私を拒絶するように、眉間に皺まで寄せて。
その様子に、思わず胸がチクリと痛む。

「部活。行かないと怒られるよ」

彼の隣りに膝をついて、その肩を軽く揺する。
もしかしたら振り払われるかもしれないと思ったけれど、眉間の皺を深くするだけ。
私は肩に触れていた手を、その眉間に移動させた。

「――ジローくん」

少しだけ、芥川くんがピクリと動く。
ただ名前を呼んだだけなのに、何なんだろう、この甘やかな感覚。
胸の奥の方の微かな疼き。
緊張――と言うのとも、ちょっと違う。

ごちゃごちゃ考えないで、その時思ったままに行動してみればいいの。

ふと、昼間のミキの言葉を思い出す。
私は無意識に眉間の皺からその柔らかい前髪へと指を滑らせて、そして、瞼にそっと口づけた。
ふわりと芥川くんから温かい匂いがする。
やっぱり――この人が好きだ。
また、そんなことを思ってしまった。

気が付くと、芥川くんは目を開けて私を見上げていた。
黙ったままの彼に、私は自分がすごく恥ずかしいことをしてしまったように思えて、顔が一気に熱くなる。
逃げ出したくなって身を逸らそうとすると、芥川くんの腕に阻まれた。

「――何でそんな泣きそうな顔してるの?」
「そんな――」

泣きそうな顔なんてしてない。
そう否定しようと思ったのに、不意にポロリと涙が零れて、私は自分で自分に動揺してしまった。

「何で、泣くの?」

そう聞かれても答えられない。
だって、自分でも何で泣いているのかなんて、全然分からない。
俯く私の前で、ゆっくりと起き上がる芥川くん。
そして、頬に流れていた涙をペロリと舐めた。
あまりに彼の自然な動作に、私は逃げるのを忘れてしまう。

「泣きたいのは、俺の方なのに」
「……?」
「だって、、変な奴と仲良くしてるし」
「変な、ヤツ?」
「あいつだよ。確か、の隣りの席の」

思い出したら、また腹が立ってきた。
そう言って芥川くんは苛々とした様子で自分の髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
隣りの席、と言えば五十嵐くんだろうか。
そう言えば、昨日からちょっと話をする回数は増えた気がしたけど。
全然自覚がなかった私は、芥川くんのそんな態度にも戸惑うばかり。

「まさか……それで、昨日様子がおかしかったとか、言うんじゃないよね?」
「悪かったねー、心の狭い男で」

頬を膨らませてそっぽを向く芥川くん。
いや、自分だっていっつも周りに女の子がいるくせに。
思わずそう反撃したくなったけど、何だか、言葉が出て来なかった。

が他の男と話してるの見るのだけでムカつくのに、あんなイチャイチャしてたらマジ、キレそう」
「い、いちゃいちゃなんてしてないよっ」
「ちゅーしたら逃げ出すし、逃げた後もあいつとイチャイチャしてるし、ほんと、暴れ出しそうだった」

膝を抱えて不穏な台詞を吐きながら、いつもと変わらず大きな欠伸。
そして膝に突っ伏す姿に、私は何をどう話していいのか分からなくて、同じように膝を抱えてしまう。
ふわふわして、可愛いって――それって本当に見た目だけじゃないの。
この前のミキとの会話を思い出して、思わず心の中でそんなツッコミ。
私はため息を吐き出す。
けれど、何となく、こそばゆいような。

「――楽しそうな見ててさ」

暫しの沈黙の後、芥川くんがポツリと言う。
顔を伏せたまま。

「友達と楽しそうにしてるを見てて――俺も、何て言うか、と一緒に笑いたいって思ったんだ」
「――別に、そんな……」
「うん。別に他の子とそんなに変わらなかったはずなんだよね。でも俺、の笑ってる顔見るの楽しみでさー」

おっかしーよね〜。恋する乙女みたいだよね〜。
あははって笑っても、その声はふわふわとすぐに空へと飛んで行ってしまって、不自然な沈黙が広がる。
私はと言えば――体から顔の方にじわじわと熱が上昇して来て、それを何とか抑え込もうと、誤魔化そうと抱えた膝に顔を埋めていた。

「あの時、付き合おうって言ったのは、付き合いたいって思ったからだよ。の近くに座って、と喋ってたら、もっとずっと一緒にいたくなったんだ」

肩に僅かな重みと、芥川くんの匂い。
顔を上げると、芥川くんが肩を寄せていた。

「でも……やっぱり一緒に笑うだけじゃ、嫌だ。俺、の全部が欲しい」
「芥川くん……?」
「ジローって、さっき呼んでくれたのに」

ちょっと恨めしげな視線。
その顔は、息がかかりそうな位の距離。
逃げようと思ったけど、その熱い息に体が動けなくなる。

「ジローって、呼んで?」
「む、無理だよ……」
「さっき呼んだじゃないか。……じゃあ、もっかい、ちゅーして?」
「もっと無理」
「ちゃんと目を瞑っとくから」

ほら。
そう言っておでこをつけて、目を閉じる。
だから、無理だって。
心の中で訴える。
けど、そのおでこから伝わってくる熱に、ちょっと勇気を貰った。
勇気じゃなくて、ただ単に芥川くんの意思が伝染っただけなのかもしれないけど。



促すように名前を呼ぶ。
ごちゃごちゃ考えないで。
今、思ったままに行動して。
私は、すぐそこにあった芥川くんの唇に、キスをした。

ああ、やっぱり、好きだ。
キスのたびにそんなことを思う私はおかしいんだろうか。
角度を変えて再び唇を重ねると、芥川くんの手が私の後頭部に回された。
啄ばむようなそれからだんだん深くなって来て、芥川くんがゆっくりと私を後ろに押し倒そうとする。
と、その時、私は大事なことを思い出した。

「――そう言えば、部活行かないとレギュラー落ちだって、さっき跡部くんが」
「……このタイミングで他の男の名前を言う?」

怒るのはそこなの?
ちょっとだけボーっとした頭でそんなことを思っていたら、ガブリと鼻をかじられた。
「っ、いた!」と声を上げれば、目の前で不貞腐れた顔で髪をボサボサとかき回す芥川くん。

「そう言えば、今日準レギュラーの誰かと試合するんだった。めんどくさー」
「めんどくさー、じゃなくて。……この前から思ってたけど、芥川くんって、結構いい性格してるよね」
「うん。知らなかった?」
「知らなかった」
「嫌い?」
「……別に。嫌いじゃないよ」

よかった〜。
そう言って、今度は無邪気な満面の笑み。

「じゃあ、ちゃちゃっと終わらせて来る。そしたら続きしよー!」
「いや……ちゃちゃっとって、何げにその準レギュラーの子に失礼だし。続きしようって無邪気にやらしいこと言われても困るし」
「ここで待っててねー。あ、それとも見に来る?」
「……話聞いてないし」

あははってまた笑う。
その楽しそうな笑みは、何だかすごく久し振りに見た気がして、ほっとした。
言ってることには同意しかねるけど。

「えー、やらしい俺って嫌い?」

わざと無邪気な顔でそんなことを聞いて来て。
本当にいい性格してる。
私はオーバーにため息を吐き出したけど、口元の笑みは隠し切れたか自信がない。

「……別に。嫌いじゃないよ」