after that 6




また冬が来て、雪がちらつき始めた頃、和彦の送別会があった。
活動拠点を神奈川に移すことにしたのだと言う話を聞いたのは、その飲み会の場で。

峠で知っている人が一人消え、二人消え。
自分からS峠を後にした私が言うことじゃないけど、やっぱり、友達が遠くに行ってしまうのは寂しい。
本人には死んでも言わないけどさ。

「赤城で随分ぶいぶい言わせてるらしいじゃん。噂入ってくるぜ」

トイレに立ったついでに、空いていた和彦の隣りに座ったら、グラスになみなみと日本酒を注がれた。
殺す気か。
私はにっこりと笑ってそれを隣りにいた男に譲る。

「全然言わせてないよ。知ってるでしょ、あそこはあの男のオンステージなんだから」
「その金魚の糞が結構速いって、評判だぜ」
「あらー、それって史浩さんのことかしらー、ひどいわー金魚の糞だなんて!」

わざとらしく両手で口を押さえて言い返すと「相変わらずな奴だな」と苦笑いされた。
「まあ言わせときゃいいよ」と、お前が言うな。

「女のお前が速いのが許せないんだろ。男のやっかみは醜いよなぁ」
「女のやっかみも相当醜いけどね」
「え?」
「何でもない」

ちょっと離れた所でわぁって盛り上がったかと思ったら、菅井さんが隣りの男に絡んでいた。
さっきからビールに日本酒にワインにって、ちゃんぽんしていて完全に出来上がって真っ赤な顔。
その様子を見て、やれやれ、なんてため息を吐き出してはみるけれど、さっき他の人に聞いた話を思い出すと、何だか複雑な気分だ。
来シーズン結果が出なかったら引退するなんて、話。
峠だけじゃなくて、向こうの世界でも知ってる人は一人消え、二人消え。
……って、いや、菅井さんが来シーズンに結果が出せないって言ってる訳ではないんだよ。

「でもさ、あんな男が近くにいたら、他の男になんか全然興味なくなるだろ」
「あんな男?」
「すっげぇカッコ良くてさ、車運転させればその腕はピカイチで、更に家は金持ちって噂じゃねーか」
「……あー、でもね、神は全てをお与えにならなかったんだな、これが」
「は?そうなのか?」
「超性格悪いよ」

人間、やっぱり外見じゃなくて中身よ。
私がしみじみそう言って新しいコップにビールを注いでいると、和彦は「それくらいは我慢しろよ」と好き勝手言った。

「我慢するにも限界ってものがあるの!」
「贅沢な女だなぁ。モデルばりにカッコよくて金もあって性格が超絶悪い男と、顔はそこそこで金は全然なくて性格いい男だったら、どっち選ぶんだよ」
「そんなの、性格いい男に決まってるじゃん」
「じゃあ、お前、俺を選べよ」
「……はっ?」

俺、顔はそこそこで貧乏で、けど性格はいいだろ?
飄々とした顔でそんなことを言って、和彦はお猪口をぐいっと呷った。

「って言うのは冗談だけどさ」
「冗談かよ!」
「何だよ、別に本気にしてくれてもいいぜ〜?」

お前の胸がもう一回り大きくなったらな、ってセクハラ発言。
この酔っ払いが!
思いっきり睨み付けると、ははって鼻で笑われた。どこが性格いいのか全然分からない。
また、菅井さんたちの大きな笑い声が飛び込んで来る。
「あの人もなぁ――」って、苦笑を浮かべて、煙草の箱をトントンとテーブルに当てる和彦。

「――こんな飲み会の席で言うと真剣味が足りなく思えるだろうけどさ」

出てきた煙草を一本取り出し、口に銜えて100円ライターで火を付ける。
そしていつものように美味しそうに目を細めて煙を吐き出し、続けた。

「お前も、神奈川来る気ない?」
「――え?」
「あー、安心しろ。プロポーズじゃねーから」
「当たり前だ!」

いつになく真面目な表情するから、つられて真面目な顔になったって言うのに損した!
むっと頬を膨らます私に向かって意地悪く笑い、天井に向かってふうっと細い煙。

「こっちに戻って来ない?って話」
「……それは、前にも言ったじゃん。今さらだよ」
「レーサーになるだけが道じゃないだろ。速さを追求するには色んな選択肢があるんじゃねーのって言ってんだよ」
「どんな?」
「それは自分で考えな」
「何それ!」

たまに和彦は訳分からない。
菅井さんより全然年上に見えて、大人に感じる時もあれば――こいつ全然何も考えてないなって時もある。

「また、『頭打ち』だって、思ってるの?」
「ああ?思ってねぇよ。お前、今全然目つき違うし、まだまだ速くなるんじゃね?」

だからこそ、だよ。
そう言って和彦が灰皿に押しつけた煙草を、私はじっと見る。
そこに何か本当の答えがあるんじゃないか、って探るように。
――本当の答えなんて、あるのかどうかも分からないけど。

「そろそろ戻って来てもいいんじゃないの、ってこと。あんな所でカリスマの背後で影薄く走ってないでさ」
「……ひど」
「こっちの方が、お前、絶対水が合ってるんだよ」
「そんなこと、ないよ」
「そんなことあるね。もう10年の付き合いなんだぜ?それくらい分かるっての」

まあ、気が向いたらいつでも連絡しろよ。
その話はそれで終わり、和彦は何事もなかったかのように菅井さんたちの輪に交じった。





雪が本格的に降り始めて、湖に氷が張り始めて。
和彦はいなくなって、菅井さんも送別会以来殆ど連絡をして来ることがなくなった。
自分から二人の元を離れて行ったはずなのに、妙な焦りと寂しさ。

「神奈川なんて高速に乗ればすぐなんだから、会いに行けばいいよ」

史浩さんは笑ってそう言ったけど、そう言うことじゃないんだ、って心の中で呟く。
じゃあ、どう言うことなんだと聞かれても上手く説明する自信がないから黙ってたけど。
一方、この男は二人の話を聞いても何も言わない。
ファミレスで、コーヒーカップを傾けて、窓の外を眺めてるだけだった。
興味がない、と言うよりは、何となく心ここにあらず――と言った感じで。

「――本格的に降り出して来たなぁ」

高橋涼介につられるように史浩さんが窓の外を見る。
お店に入る前は小さかった雪の粒が、いつの間にか綿雪のように大きくなっている。

「本格的な冬到来だな」
「でも走り屋にオフシーズンはありませんよ、史浩さん!」
「はは……今年は一週間で事故らないようにな」
「事故りませんって」

苦笑する史浩さんの横で、相変わらず窓の外を見つめたままの男。
今までも人のこと眼中にないって態度を取られたことはしょっちゅうだったけど、何だか妙に不安になる。
私はわざとらしく顰め面を作った。

「うわ、女ボケですか?」
「――誰が?」

ようやく私の方を見るその男に、ちょっとだけほっとしてため息。

「どうせあれでしょ、彼女さんが冬休みで帰省しちゃって寂しいとか、そう言うヤツ」
「お前じゃあるまいし」

手の甲で顎を支えて冷ややかな目つき。
そんな視線を向けられてほっとしてしまうのもどうなんだろうと内心自分に突っ込みを入れつつ、私も冷たい視線を返した。

「お前も、いい加減男離れしろよ」
「語弊のある言い方しないで下さい」
「お前でも『語弊』なんて言葉を知ってるのか、意外だな」
「やっぱりあなたは黙ってて下さい」

いつもの毒舌が復活するけれど、どことなく精細さを欠く。
小さく首を傾げると、史浩さんが「こいつも今、色々大変なんだよ」と肩をすぼめた。

「弟のこともあるしな」
「弟?」
「――史浩、余計なことは言うな」

ああ……って、何となく思い出して私は背もたれに寄りかかった。
そんなに知らないけど、以前に一回か二回くらい誰かから聞いたことがあるような気がする。
暴走族でどこだったかのリーダーだとか何とか。
兄が四輪で頭張ってて、弟の方は二輪の頭かよ、なんてその時は思った記憶があるけど。
こんな兄がいたらグレるか、極度のブラコンになるかどっちかだよね。
お気の毒に、と見たことのない弟くんに同情。

「ふーん、大変なんだ」
「……まあな。手の掛かる馬鹿な妹もいるからな」
「えっ、妹もいるんだ!」
「……」

うわ、美人三きょうだい?
ちょっとテンション上がって聞いてみたら、史浩さんは得も言われぬ微妙な薄笑いを浮かべて。
高橋涼介は一層冷ややかな呆れた目を向けて来た。

「……何だか一気に疲れた。俺はそろそろ帰る」
「えー、大丈夫?お疲れ様」

ぐったりとした表情で立ち上がる男にヒラヒラと手を振ると、一層疲労した顔。
なに?って小首傾げる私に何か言おうと口を開きかける男。
でも、その時その人が手に持っていた携帯が鳴って、何も言わずにそのまま入り口の方へと去って行く。

ガラスの向こうで、携帯を耳に当てた高橋涼介の顔が一瞬にして曇ったのが見えて。
どうしたんだろう、って妙な胸騒ぎ。
でも、何も出来なくて。
その人が駐車場への階段を駆け下りていくのが見えても、何も出来なくて。




「香織さん」が亡くなったって聞いたのは、その、数日後。