after that 7




ショップからの帰り、今日は二人とも走りに行くのかなぁって思って、何となく史浩さんの携帯に電話した。いつもなら別に前もって予定を聞いたりしないのに、何故かその日だけ。
一度は留守電になった史浩さんから折り返し掛かってきた電話。
暫く行けそうにないな、って、妙に抑えた声だった。

「あ、そうなんですか、残念」
「すまないな……たぶん涼介の方が暫く顔を出せないと思う」
「――え?」

史浩さんは、今あの男と神奈川に来ているのだと言って。
「彼女」が亡くなったのだと、告げた。
一瞬、どくんって心臓が大きな音を立てたような気がする。
サーキットで見た、あの綺麗な髪と、腕と、足と、笑顔と。
私は声の出し方を忘れてしまって、ただ、携帯を落とさないように、ぎゅっと握った。

帰省中に事故にあったらしい、とか。
これから告別式に参加するのだとか、すごくすごく遠くで史浩さんが言っている。

「――落ち着いたら、連絡するから」
「……うん」

どうやって携帯を切ったのか、覚えていない。
ましてや、どうやってそこから家に帰ったかなんて、覚えている訳もない。

ベッドに倒れ込んで、一体どれだけ経ったのかも分からない。
途中で父親とか母親が様子を見に来た気がするけど、何て返事したのか記憶にない。
うつぶせになったまま横を向くと、タイムが書き込まれたメニュー表が、机の上で丸まってるのが見えた。

自分の知っている人が死んでしまったせいなんだろうか。
でも、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんが亡くなった時でも、こんな風にはならなかった。
これから、何をどうしたらいいのか。
呼吸の仕方さえも分からなくなりそう。

あの、ファミレスの階段を駆け下りていく男の後ろ姿が脳裏に蘇る。
もしかして――あれが、彼女からの最後の電話だったんじゃないか、なんて、何となく思った。
涙が、出た。
あの柔らかい笑顔を思い出して。
あの笑顔を超えることは出来ないのだと思い知って。





暫く峠になんか行く気になれなかったはずなのに、車のキーを手に取って、気が付いたらロードスターに乗って、大鳥居をくぐってた。
無心になって走り込めばいい。
あの男の言うことを忠実に守るつもりはなかったけど、何も考えずに滑る雪道を昇って行った。
全然グリップしないタイヤが、何故だか怖いとも思わなくて。怖いと言う感情をどこかに忘れて来てしまったみたいで。
新しい雪が積もったばかりの、真っ白な駐車場に、真っ白なFC。
そしてその横に、真っ白なシャツの男。

少し離れた所に止まって、ざくざくと雪を鳴らして大股で歩いて。
近付いていってもその男は、どこか遠くを見たまま。
私は自分が巻いていたマフラーを無造作にぐるぐるとその首に巻き付ける。
僅かにこちらを向いた気がするけれど、やはり変わらずどこかを見つめたまま。

「――肺炎にでもなるつもりですか。この極寒の中シャツ一枚って」

ちょっと手を伸ばして、その黒い前髪に触れると、恐ろしく冷たい。
一体どれくらい前からここにいたんだろうか。
死ぬ気ですか――なんて、シャレにならなくて言えなかった。

自分も相当、色々見失っていた気がするけど、目の前の男ほどじゃない。
私はだんだんと普段の自分を取り戻す。

「……もう、告別式は、終わったんですか」

そう聞くと、何とかその男は私の目を見て、僅かに口元を歪める。
そして小さく首を横に振った。

「――参列、させて貰えなかったからな」
「え……?」

一体どういうことなのか、全然読み込めなかった。
でも、再び遠い遠い場所を見つめるその人に何かを聞ける訳もない。
一人に出来る訳もない。
全て灰になって消えていこうとしている煙草。
それを挟む指に触れたら、凍てつきそうなほどに冷たかった。
殆ど無意識に、それを温めようと両手で包む。
はあ、と息を吹きかけたけど、私の唇の方が冷たくなってしまいそうだった。

じっと、その指に私の手の熱が移るようにと包み込む。
その人は抵抗するでもなく、ぼんやりと私を見下ろしている。

「――帰りましょう」
「どこに?」
「分からない、けど」

分からないけど。
もう、帰り方なんか分からないけど。

もう一度息を吐きかける。
氷のようなままの指。
私は焦れてその指に唇を付けた。
それでも、なすがままの男。
頬に押し当てる。
けど、私の熱なんて、その男には伝わらない。
涙が、流れた。

「同情してるのか?」
「……そうだよ。ここで死のうとしてる、馬鹿な男に」

涙が出て、鼻声で、ぼろぼろだった。
それでも、ばーか、ばーかって言い続けたら、頭の後ろに手を回された。
ぐいと押しつけられたシャツも、当然のように冷たい。

「――死なないさ」
「うそだ」
「何だよ、死んで欲しいのか?」

でも、暫くしてシャツ越しに伝わってきたのは、その男の体温。
心臓の音。
私の手の中にあった指が、私の頬に伸びて、涙で貼り付いた髪を退ける。

傷の舐め合いとか、慰め合いとか、この男には似合わなすぎる言葉。
けれどこの時はそんなことどうでもよくて。
私はその降ってきた唇を当たり前のように受け止めた。





口づけはどんどん深くなっていって。
私の頭を支えてた手がほんの少し緩んだ時に唇を離すと、頬と涙を舐められて。
どちらが言うともなく、二人でFCに乗り込んだ。
後で思えば、雪道とは思えないような馬鹿みたいなスピードで峠道を下って、一番近くの、お世辞にも綺麗とは言えないホテルに入って。
いつもの私なら、真っ直ぐそこに向かったその男に、よくホテルの場所なんて知ってますね、なんてからかったかもしれない。
後になって、ちょっと笑った。

レトロな鍵をフロントで受け取って、部屋に入ったら、先に私の方が後ろに立つ男を振り返ってキスを求めた。
焦らされることもなく、惜しげもなく与えられるキス。
首に巻き付いたら、そのまま抱えられて、二人でベッドに倒れ込む。
ギシッて大げさなくらい軋む音。
年季の入ったスプリング。
渋いサス。

思わず小さく笑っちゃったら、何笑ってるんだ、って耳元に直接その声を注ぎ込まれて、予想外の声が出た。
耳元で囁かれるだけで――?って、動揺して咄嗟に口を押さえようと思ったら、あっさり両手首を掴まれて、また、どうしたんだ?って、耳たぶに触れる位置で。
ああ、そうだった。
この人性格悪いんだった。
今さらのように思い出したけど、憎まれ口を叩く余裕まではなくて。
背筋をぞくりと震えさせるだけ。

その男のシャツのボタンを私が外して、その男が私のシャツのボタンを外す。
時折、その冷たい指が肌に触れて、身体が小さく跳ねてしまう。

「――悪い。冷たかったか」

そう言う男の声が、いつもよりほんの少し掠れて聞こえる。
私も上手く声が出なくて、息を吐き出す。

「シャワー、浴びて来たら。熱いお湯の」
「そんな余裕あると思うか?」

そう言って浮かべる笑みは、余裕そのものに見えたけど、でも、その目は、見たことのない、男の目。
中途半端に肌蹴られたシャツを脱いで床に放ると、「なら温めてくれ」と片手を私の前に差し出して来た。
ちょっと困惑しながらも、その手を両手で包む。
でも、その男は、違う、と言うように首を小さく横に振って、その指で私の唇をなぞってくる。
私が自らそれを引き寄せて、唇と開き、ゆっくり口に含むと、綺麗な笑み。

長い人差し指、中指、と一本一本舐めていく。
私の上で、私の髪を撫でて、見下ろしてくるその男の顔を見ることが出来なくて、口元だけに集中して。
そしたら、髪を撫でてた手が不意に首筋に移って、その冷たさと感触に、また身体が反応しそうになった。

「そんなに冷たいか?」

そう言って、ちょっとだけ首を傾げて、曲げた指を自分の唇に当てる男。
冷たいよって言い返そうと思ったら、まだ離しちゃだめだ、と私の唇から離れかけてた指で、上顎をなぞられた。
恨みがましい目で見上げれば、整った唇でまた綺麗な笑みを作る。
ただ、その、細くて、ちょっと神経質そうな指に舌を絡ませるだけで、何でこんなに息が苦しくなってくるんだろう。
「ほら、この指がまだ冷たいぜ?」って吐息まじりの声が耳元で響くだけで、何でこんなに声が我慢出来なくちゃっちゃうんだろう?

シャツを腕から抜き取られたけど、下着はホックだけ外されて、ずり上げられた。
何だか今まで夢中だったから気付かなかったけど、年季の入った蛍光灯で薄暗いとは言え、部屋の灯りが煌々とついている。
やっと唇を解放された私は恥ずかしくなって、胸元を腕で隠しながら「電気消して」って言ったんだけど、返答のないその男にまた手首を掴まれて。
そんなことする訳ないだろうって、心の声。
仕方ないから強引に自分で消そうとベッドの上にあるスイッチに手を伸ばそうとしたら――不意打ちで声が漏れた。

「すぐに気にならなくなるさ」
「さ……い、てー……っ」

気になりまくりなのに、胸の突起を舌で転がされたら、とてもスイッチまで手を伸ばせなくなって。
甘噛みされたら、呼吸をして、何かを逃すので精一杯で。
それなのに、微かに身体が熱くなってきたこの男は、指と唇と舌で、ゆっくりと私のことを探って、少しでも違う反応を返してしまうと重点的にそこを責めて来て。
無意識に腰が浮いてくる。
ああ、何なの、もう。
ジーパンと下着を抜き取られた時には、確かに照明のことなんてどうでも良くなっていたかもしれない。
この男が――欲しくて。

部屋に入ってきた時は、私の方がこの男の服を全部脱がして、上に乗っかる気満々だったはずなのに。
私が勝手に乗る分にはいいでしょって――思ってたのに。
今じゃ全然身体に力が入らなくて、起き上がれるかも自信がない。

早く入れて、って、辛うじて背中に手を回したのに、その男はキスをするだけ。
そして、それの代わりに指で触れるだけ。

「――ヤだっ」
「嫌じゃないだろ、こんなに濡らしておいて」

指の腹で下の突起の周囲をなぞる。
その動きの滑らかさから、どれだけ濡れているのか、嫌ってほど思い知らされて、恥ずかしくて。
足を閉じようとモゾモゾ動いたら、逆に太腿を持たれて開かされた。
ホントに、さいてい。

「高橋――涼介って、えっちの時も性格悪いんですね」
「お前が苛めて欲しそう顔をしてるから悪いんだろ」
「して、ないっ」

そんな会話の間も、その指の緩慢な動きは止まらなくて、でも、一番感じるところには触れないまま。
きっと、知っててわざとそうしてる。
何もかも知ってて、わざと。

その手が内腿から離れて、腰骨をなぞって、腕の付け根から辿って手首の内側を撫でて。
そこまで到達すると、今度は唇で同じルートをつたう。
じれったくて、髪に指を差し入れて意思表示しても、まるで伝わっていないかのように、指が鎖骨へ移動し、首筋を這い、耳の輪郭をなぞり。
唇が忠実にその後を追う。

「……も、いいでしょ」

別に、いいところは責められてないはずなのに、何でこんなに余裕ないのか分からない。
掠れた声で何とかそれだけ言えば、返ってきたのは相変わらずの意地悪い台詞。

「もう少し可愛くおねだりは出来ないのか?」
「――はや、く。入れて。すいせい、さん」
「……お前は男を萎えさせる天才だな」

そう言ったが早いか、さっきまでの緩慢な動きが嘘みたいに、強い力でぐいと腰を引き寄せられた。
反射的に、上に逃げようとしてしまう私。
強がって「入れて」なんて言ったくせに、いざ、それが入り口に押し当てられると、怖くなる。

「や、やっぱり、ちょっと待って」
「お前が入れてって言ったんだぜ?」
「う、うそ、やっぱり、うそ、ごめ――」

突如襲われたその圧迫感に、また自分の予期しない声が漏れる。
探るような、緩やかな動き。
浅く出し入れされる動きに合わせて、息をして。
何とか快楽を逃そうとしたのに、不意に首筋に歯を立てられて、努力が水の泡。

「観念しろよ――

条件反射のように抵抗したくなったけど、奥まで何度も突き上げられて、その腕にしがみつくしか出来ない。
自分じゃもう制御が出来ない、声。
背中から聞こえてくる、スプリングのギシギシと言う激しい音。
つながってる部分から、わざとじゃないかってくらいの、水音。
自分のものとは思えない、甘ったるい声。
私に覆い被さる高橋涼介の荒い呼吸。
あんなに冷たかった男の手が、今は火傷しそうなくらい熱い。

「おねが、い。も、イッて――」

限界だから。
懇願するように何とか言ったのに、膝を抱え直して、更に奥を突いて。
いつの間にばれたのか、敏感な部分を擦られて。

一緒にいこうって、また心の声――?

一層間隔が短くなって行く動きと、嬌声だか悲鳴だか分からない私の声が重なる。
一緒に上りつめて、頭が真っ白になる瞬間。
あの、赤城での丸いテールランプが、瞼の裏に映った気がした。





「――あーよかった。雪に埋もれてたらどうしようかと思った」

空が白んできた頃、戻って来た赤城の山頂。
白のロードスターが、置いてけぼりでちょっと寂しそうに止まっていた。
ぐるりと車の周りを一周してタイヤとかが問題ないことを確かめ、ごめんねってボンネットをさする。
振り返ると、何だか可笑しそうに高橋涼介が笑ってた。
何よ?って口を尖らせては見せたけど、ちょっと、ほっとしている。
刻まれてしまった影は隠しようがないけれど――それでも、ちゃんと笑ってる。

「寒いな。さっさと帰るか」

夜中にシャツ一枚で立ってたヤツが何を言う。
数時間前に巻き付けたマフラーを、今度は私が巻き付けられる。

「もうじき、また雪の季節も終わるな」
「そうだよ。――そうしたら、今度は私、もっと変わってるかもよ」
「そうか」
「――そうだよ」

いつもの高橋涼介なら、それは楽しみだな、なんて言って大げさに鼻で笑ってたに違いない。
でも、その時は私の頬を撫でて微笑むだけで、何も言わなかった。
分かってるんだよね、たぶん。

「じゃあね、高橋涼介」
「ああ――じゃあな、

思い切り元気に挨拶して。
勢いよく車に乗り込んで。
暖気もそこそこに峠道に飛び出した。
最後の赤城の下りに。