after that 9




北条凜とのバトルが終わって数日後。
神奈川の最終戦を少し後に控えた週末って言うのが、絶妙なタイミングだった。
どこからか、少し懐かしい名前を耳にした。
霧生和彦。
時折箱根に現れるらしいと言う噂を聞いて、気まぐれに、少し調べてみた。
大学にプロジェクトにと寝る時間も削っているというのに、奇妙なことに気まぐれを起こしたものだ。別に、その男自身にそれほど興味があったとは、自分でも思っていない。
しかし、あからさまに何かを期待していた訳でもない。
彼が在籍していると言うレーシングチームのサイトに載っていた、チームメンバーの戦績。
おおよそ見るものの興味をそそるレイアウトではなかったそのページの小さな文字を何となく眺めていたら。
そいつの名前があった。

一瞬、鼓動が大きく跳ねた。
気のせいなんかじゃなく、確実に。

自分の部屋で、誰も見ちゃいないって言うのに変に平静を取り繕って、もう一度、パソコンのディスプレイを見る。
。Tレーシングスクール所属。
馬鹿みたいに、口元が緩むのを堪えきれなくて。
だが次の瞬間には、あの男のいるレーシングチームの付属スクールに在籍していることが面白くなくて。

次の最終戦のために、入念な準備をしなきゃならない。
そんなことは、誰より俺自身が分かっている。
それなのに、大学で週末最後の講義が終わると、気が付いたら駅に行き新幹線の切符を買っていた。

忘れているかもしれない、とは思わなかった。
だがさすがにアポなしだったから、いないかもしれないなとは思った。
大きなレースがないことは、事前に確認済みだったが。
携帯に連絡すればいいだけの話なんだが、それじゃつまらない。
あいつの驚く顔が見られないから。

近くの駅で電車を降りて、タクシーに乗り込む。
行き先を伝えると、いよいよ現実味を帯びてきて、気が付けば、手の平が冷たくなっている。
おいおい、この高橋涼介が女一人に会うのに、こんな緊張するのか?
自分で自分が可笑しかったが、その滑稽さが妙に気分いい。

?えーと、ちょっと待ってね」
受付で面会を申し出て、そこにいた守衛らしき男がどこかに電話を掛けようとするのと、奥の方から誰かが俺の名前を呼ぶのと、ほぼ同時。
そちらを振り返ると、だいぶチャラくなった霧生和彦が立っていた。

「あんた、こんな所で何してんだよ、次のバトルは今週末じゃねぇだろ?まさか、わざわざあいつに会いに来たとか言わねーよな?」
「悪いか?」
「おいおい、否定しねーのかよ」

こちらの予定を随分と細かくご存じだ。
俺はにっこりと笑って返すと、ものすごく嫌そうな顔をされた。
その直後に、一瞬だけ何やら企むような目をして、にやりと笑って前髪をかき上げる男。

「悪いけどさ、あいつ、今、俺と付き合ってんだよね」
「そうか」
「そうかって……おい、それだけかよ?」
「悪いが、その程度で諦めるなら、こんな神奈川の辺境地まで来ていないさ」
「――まじかよ」

って言うか、群馬の奴に言われたくねぇよ、と思い切り顰め面をされる。
そして深いため息をわざとらしく吐き出した後、霧生が建物の奥を顎で差して来た。
ついて来いと言う意味だろう、歩き出すそいつの後に続く。

「あんた、運がいいよ。大体この時間だとあいつ帰っちゃってんだけど、今日はたまたまPCルームにいるぜ。明日提出の課題が残ってるとか言ってさ」
「関係者以外が入っていいのか?」
「堂々としてりゃ誰も気に留めねーって」

確かに、そんなに心配するほどの人の気配はなく、廊下には自分たちの足音ばかりがやたらと響く。
一番奥にはスタッフの部屋でもあるのか、僅かに人の声も聞こえた。
しかし前を歩く男は、その手前の階段を昇る。
そしてそれに続いて昇り切れば、薄暗い廊下の先に一つだけ明るい部屋。

「――まあ、俺はさっき散々からかって遊んだからいいや」

その台詞に反射的に怪訝な顔になる俺を振り返り、にやりとまた笑うそいつ。
部屋の数歩前で立ち止まり、親指を立ててドアの方を差した。

「たぶん、あいつしかいねーから。ごゆっくり」
「――何か裏でもありそうだな」
「そうか?そうだなぁ……まあ、強いて言えば、ここであんたが骨抜きになって今度のバトルでDが初黒星になったら面白ぇなって、そんな感じ?」

どこまで本気なのか、霧生はそう言ってヒラヒラと手を振り、無駄に引きずった足音を立てながら来た道を戻って行った。
何だか敵に塩を送られた気分だが、ここは素直に送られておこう。
今さら何かを取り繕ったりする必要もない。
彼が階段を降りて行くのを見届け、小さく呼吸した後、その「PCルーム」のドアを引く。
中はお世辞にも広いとは言えず、その部屋に付けられた名前ほどマシンが並んでいる訳でもない。
時代遅れの大きなレーザープリンタの奥。
マウスをカチカチとクリックしたり、時折思い出したように緩慢なキータッチの音がする。
入り口からはその姿はうかがえず、ほんの僅かに黒髪が覗くだけ。

「もう、また邪魔しに来たの?」

その声は、二年前と全く変わらなくて――心臓が震えた。
目眩がして、足が動かない。
発された台詞がさっき一緒にいた男に向けられたものと言うのが腹立たしいが、それでも、その声をもっと聞きたくて、息を潜め目を閉じる。
しかし俺も我慢が足りない。続くそいつの言葉に、つい昔の癖が出てしまった。

「この課題、明日までなんだから邪魔しないでって言ったでしょ!」
「それは、お前が前日までやらなかっただけだろ」

ぴたり、と全ての音が止まった。
いや、PCやプリンタのモーター音は微かに響く。
暫しの沈黙。
ギシと椅子の軋む音がして、また続く沈黙。
互いの呼吸の音でも探るような、長くて――しかしどこか心地よくもある沈黙。

「――高橋、涼介?」

またフルネームなのか。
思わず苦笑したが、ちゃんと名前を言えただけでも褒めてやる。

「相変わらず、なんだな。お前は」

いや、嘘だ。相変わらずなんかじゃない。
ゆっくりと立ち上がったお前は、やはり、少し変わったか?
綺麗になったとか、女らしくなったとか、そんな表現は使いたくないが。
第一、女らしいヤツが、締め切りギリギリに課題をやって、仲間に冷やかされるか?

「……ずるい」

俺は入り口に寄りかかり、腕を組んだまま。
そいつはプリンタの奥に立ち尽くしたまま。
俺の方が微かに笑みを漏らすと、そんな突拍子もない言葉が返ってきた。

「何が?」
「だって……ずるい。もっと、もうちょっと、色々胸張れるようになったら……行こうと思ってたのに」
「今だって十分胸張れるだろ」

そう言ったら、さっきよりも更に目を大きくして、その次の瞬間には思い切り怪訝な顔。
「どうしちゃったの?」とは一体、どういうことだ。
今度は俺が怪訝な表情を作る。

「だって、高橋涼介がそんなこと言うなんておかしい」
「……ひどい言われようだな」
「だって……そうじゃなきゃ、ほんとにずるい」

まだPCの前から動かないそいつ。
先に根負けしたのは俺の方だった。
前で組んでいた腕を解き、ゆっくりと奥へと進んで行く。

「自分は何だか群馬最速のチームとか作ったと思ったら、今度はプロジェクトDとか言うの作っちゃって。あっちこっちに喧嘩売って」
「……そう言うお前は、俺に喧嘩売ってるのか?」
「そうやって私のことむちゃくちゃ刺激して、頑張らなきゃって、いつも思ってて――それで、このタイミングで来る?もうじき神奈川戦も最後だろうって、こんな時に」
「俺たちのこと、よく知ってるな」
「だって、この世界じゃ有名だし」

そいつの前に立つなり、隙を与えず掠めるようにキスをしたのは、どちらかと言うと愛だとかそう言う甘ったるっこい理由からではなくて、密かに苛ついたからだ。
この世界ってどこだよ、
目を細めて、前で動揺するそいつを見下ろす。
口をぱくぱくと動かして、だんだんと顔を赤くしていくのを見るのは気分がいい。
さっきのあいつには、そんな顔をしないよな?

「プロジェクトDも終わって、冬になって、そしたら、それくらいまでには自慢出来るような結果残してって……思ってたのに」
「課題が終わらないようなヤツには無理じゃないか?」
「さっきはもう胸張れるって言ったじゃないの!嘘つき!」
「そうだったか?」
「ひど……っ!ほんとにひどいっ」

ああ、やっぱり変わらない。
お前の声も、表情も、仕草も何もかも――どうしようもなく。
どうしようもなく、愛しい。

肩を引き寄せて、そいつがバランスを崩すのをそのままに抱き締める。
顔を寄せれば鼻腔をくすぐるそいつの香り。
二年も離れていたなんて、二年も我慢出来ていたなんて、信じられなくなる。

「ずるいとか、ひどいとかばっかり言ってないで、もう少し気の利いたこと言えよ。会いたかったとか、寂しかったとか」

髪に顔を埋めたままそう言えば、「自分だって、見ない間に綺麗になったとか、可愛くなったとか、言いなよ」ともごもごと反論して来たので、「ああ、綺麗になったな」とわざと棒読みで言ったら「心がこもってない!」と腕の中で暴れ出した。
「色気のない再会シーンだな」と笑ったが、それくらいの方がいいのかもしれない。
そうでなければ、この場から攫っていってしまいそうだから。

「課題が終わらなくて単位とか落とされたら困るからな。そろそろ退散するよ」

そいつを解放してそう言うと、「ええっ!」と大げさなくらいに驚かれた。
期待通りの反応でおかしい。

「あ、そうか……何かのついでに、ちょっと寄ったのね?」
「こんな辺境地に他に用なんかある訳ないだろ」
「辺境って言うな!」

反応するのはそこじゃないだろ。
そう思ったが、お前なりの照れ隠しだと、都合のいい方に解釈しておいてやるよ。
その赤い顔に免じて。
彼女の手を取り、その指先に唇を落とすと、更に赤くなる。

「……私を混乱させるだけ混乱させて帰ってくんだ」
「お返しだ」
「お返し?」
「お前だって、二年前に俺を散々混乱させただろ」

びっくりしたのか目を大きく開いて何も言わないそいつをそのままに、俺はドアの方へと戻って行く。
そしてドアノブを回すのと同時に、後ろから、そいつの声が追いかけて来た。

「最終戦。行くから」

俺は敢えて振り返らなかった。
そいつの表情も確かめなかった。
たぶん、あの頃と変わらない、いや、あの頃以上の強い意志を持った目をして、そこに立っているのは分かったから。
やはり、来て良かった。
身体の奥底で奮い立つ何かを自覚し、ドアを閉めた。



「あれ、もう出てきたのかよ?あと一時間は出てこねーと思ったのに」
「期待に添えず申し訳ないな」

玄関外の喫煙スペースにいた下世話な男の冗談を笑い飛ばし、「悪いが駅まで送って貰えるか」と有無を言わせない空気を作って言うと、またそいつはもの凄く嫌そうな顔をした。
「あいつに送らせればいいじゃん」と、ある種もっともな提案をするその男に、「あいつには課題があるだろ」と、何てことないように、しれっと返す。
信じられないと言う顔の男。
信じられなくていい。お前には分からなくていい。

「変な奴ら」

肩を竦めて降参の仕草をする男。
別に変なことはないと、心外だと肩をすぼめる俺。
外に出て、二階の窓を見上げる。

プロジェクトの最後のバトル。
見に来てもいいが――もうちょっとしたら、なんて悠長なことを言っていられなくなるかもしれないぜ?

また数日後に見るだろう夜空を仰いで、俺は小さく笑った。