瞬きをする間に 1




八月の終わり。

「確か去年もこのメンツで図書館に行ってたよね。ああ、あと忍足か」
「侑士はヤボ用だってさ。クソクソ、友達甲斐のない奴だぜ!」
じりじりと灼けるようなアスファルトの上をぴょんぴょんと跳ねるように歩く向日。それを追うように「今日も暑いね」と言いながらも、どう見ても暑そうには見えない滝が、のんびりと歩く。その隣りで、ふあぁ……と大きな欠伸をする芥川。

昨日の夜、向日から滝の携帯に連絡があった。
もしや、と思えば案の定、夏休みの宿題が終わっていないのだと言う。
「だって、全国大会出場が決まってからそれどころじゃなかったじゃん!」
「それどころじゃなかったのは、向日だけだと思うよ」
「ぶー!ジローも終わってないってさ!」
切羽詰まっている向日の方が、何故か勝ち誇ったような声。そう言えば去年も芥川と向日の二人は終わっていなかった。去年も全国大会には行ったが、その時はまだ向日は準レギュラーだったので「それどころじゃない」状況ではなかったはずだ。つまり全国大会は関係ない。滝はわざと電話の向こうの向日に聞こえるようにため息を吐いた。
残っているのは、向日が英語とドイツ語が半分、芥川は数学が七割くらい。楽勝とは言えないけれど、一日あれば何とかなるだろう。二学期が始まる数日前に助けを求めることだけは去年から学習したらしい。去年、三十一日ギリギリに泣きつくなと忍足にど突かれたのを憶えていたのだろう。
「図書館混んでるかなぁ」
「そうだね、誰かさんたちみたいな人が結構多いかもしれないね」
「くっそー、イヤミなヤツだぜ!」
「何か言った?向日」
「何も言ってねーよ!」
ニッコリと微笑む滝から逃げるように、向日はまた二人の前を歩く。たとえイヤミなヤツでも今日は大事な助っ人だ。口をへの字にして噤み、言いたい言葉をぐっと飲み込む。右へ左へと色のついたタイルだけを踏みながらリズムよく跳ねていると、つい調子に乗ってしまって、気が付くと滝と芥川の話声がすごく遠くなっていた。クルリと振り返り「おせーぞ!」と向日が叫ぼうと思った時。見慣れた顔が視界に飛び込んで来る。小さい鞄を膝の上に乗せてバス停のベンチに座っているのは――
「うっそ、じゃん!」
「向日くん!どうしたの、こんなところで」
「それはこっちのセリフだって!お前こそ何してんだよ!」
二人のもとに、ようやく滝と芥川が追いつく。彼女は三人の顔をグルリと見回し、何か納得したように頷いた。その様子に何となくムカついて口を尖らせる向日。
「あれ〜っ、だ!どうしたの?」
「バス停のベンチなんかに座って――どこかへ出かけるところ?」
思わぬ偶然に嬉しそうにニコニコ笑う芥川。それは滝も同じだ。彼女とはもう、暫く会うことは出来ないだろうと思っていたのだから。
「うん……」
ベンチから立ち上がり、何となく困ったような笑みを浮かべる彼女。
「出かけようか――迷ってたとこ」
「迷ってんならさ、俺たちと一緒に図書館に行こうぜ!」
「どこに行こうって迷ってたの?」
向日の提案を完全に無視して問いかけて来る滝に、彼女は苦笑い。そして小さく息を吐き出した後、目を伏せた。
「うんとね……お兄さんのとこ」

彼女は彼らと同級生で、生徒会の副会長だった。
一年の時に跡部と同じクラスで、秋の選挙の時に会長に立候補するという彼から、副会長に立候補しろと命令同然の誘いを受けた。その時は丁重にお断りしたのだが、次の年には会長の推薦と言うオプションまで付けて来た。最初は興味がないと言ってやっぱり断っていたのだが、帰宅部だったし、一年くらい振り回されてみるのも楽しいかもしれないと、ふと思ってしまったのだ。
「最初からそう言えばいいんだよ」
不敵に笑う跡部を見て、呆れるやら腹が立つやら。でも、こういうのも別に嫌いじゃないな――と思ったのが災難の始まり。
「どうせ帰宅部で暇だろう」
そんな跡部の台詞をこの一年で何度聞いたことか。生徒会の仕事が終わってもすぐに帰れる日など滅多になく、理不尽な会長は先の言葉と共にあらゆる用事を言いつけて来た。それらの殆どは彼が部長をやっているテニス部のものだ。あれだけ大きな部なのにマネージャーを入れず、大会や他校との練習試合の申し込みやら、練習メニューの作成やら、とにかく様々な雑用を彼が一人でこなしている状況だった。彼は難なくこなしているように見えたが、それらをどんどん自分の方に回された彼女はてんてこ舞い。
「何で私が……」
と最初は抵抗したが、
「会長を補佐するのがお前の役目だろう」
とムチャクチャを言って取り合わない。そうやって彼女が目を回しているうちに、普段の部活の練習や試合にも連れ出され、いつの間にかまるで男子テニス部の一員のようになっていた。
一年の時に勧誘して来た時点で、実はこれを狙っていたのではないだろうか。
そんなことを勘繰ったりもしたが――正直、今では少し彼に感謝している。忙しくて忙しくて暴れそうになったことは何度もあったけれど、退屈だと思うことは一度もなかった。もちろん、悔しいので彼には言っていない。
――もう、会うことはないかもしれないけれど。

「お兄さん?さんって一人っ子じゃなかった?」
以前部室でした会話を思い出し、滝は首を傾げる。姉がいつも煩いという向日の愚痴に、自分には兄姉がいないので羨ましいと話していたはずだ。
「よく憶えてるね」
苦笑いする彼女。
「実はね、お兄さんがいるんだって。お父さんは違うんだけど」
「えっ!そうなんだ?」
「……なんか、結構ディープな話題なんじゃねーの、それ」
「そうでもないよ。この前お母さんが洗濯物畳みながらさ、『あ、実はあなたにお兄さんがいるのよ〜』なんて笑って言ってたし」
「……さすが、の母ちゃんだぜ」
「どういう意味よ?」
「べつに」
ジトリと睨む彼女の視線から逃げて向日は滝の後ろに回り込む。そんな彼を見て滝はクスリと笑い、彼女の方に向き直った。
「それで、これから会いに?」
「うん……」
「日本を発つ前に?」
「うん……そうなんだけどね……」
ほう、とため息をつく彼女は、滝の少し後ろに立っていた芥川とパチリと目が合う。眠そうにしていた目を少しだけ大きく開いてパチパチと瞬きをし、いたずらっぽく笑って見せる彼につられて、彼女もちょっとだけ笑う。
「怖い?」
「うーん、怖いってわけじゃないんだけど。何か色々考えちゃうとなかなか決心がつかなくて」
「でもさー、このタイミングでお前にそんなこと話す母ちゃんもビミョーだよなぁ」
「でもさ、もしかしたら、日本を発つ前に一度会いに行ってみたらってことかもしれないよ」
「私もそうじゃないかなーって思ったんだけど」
「で、兄ちゃんってどこにいんだよ?」
「ええとね……群馬」
「ぐんまぁ!?」
何となく都内とか、その辺りにいるのだろうと勝手に思い込んでいた向日は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。滝もちょっと驚いたように目を見開いたが、その原因の大半はそのお兄さんの住んでいる場所ではなくて、向日の声の方にある。芥川もまた目をパチパチとさせた。
「群馬って……すんげー遠いじゃん!」
「……いや、そんな言うほど遠くないよ」
「そうだね。新幹線なら……一時間かからないくらい?」
コクリと頷く彼女。顔を上げるとまた芥川と目が合った。今度はさっきよりもいたずらっ子ような笑みを深くして、「ねーねー。じゃあさ」と言い、手を頭の後で組んだ。
「みんなで行ってみない?」
思いがけない言葉に、他の三人の表情が一瞬固まる。いち早く解放されて「はぁ!?」と最初に叫んだのは向日。
「何言ってんだ、ジロー!宿題はどうするんだよ!」
「まだ二学期までに三日あるしー、何とかなるんじゃない?」
「んなこと言ってっと、また侑士にど突かれるぞっ」
「……まあ、移動中にも出来ないことはないし、ほら、強力な助っ人が一人増えたわけだし。ね?」
「え?」
いつの間にか眠気が去ってスッキリした表情の芥川と、滝の笑みを含んだ視線が彼女に向けられる。どう返答したらいいものか、彼女は彼らの隣りで呆然と立ち尽くしている向日の方を見た。その視線に我に返り――向日はガシガシと頭を掻く。
「俺もついてってやりてぇけど、新幹線代なんか今持ってねーぞ?各停とかねーのかよ?」
「え、ああ……うん、あるよ」
「そっか。各駅停車の方が、宿題がはかどるかもしれないね」
ニコニコと笑って言う滝に、口元を引き攣らせる向日。最初に宿題の心配をしたのは自分の方だが、電車の中でずっと勉強漬けになるのかと思うとちょっと気が重い。
「よ〜し!じゃあ行こう!」
元気な声と共に先頭を歩きだす芥川。
戸惑う彼女の肩を、ぽんぽんと優しく叩く滝。
「やっぱり、俺達が一緒だと迷惑かな?」
「ううん、そんなことないよ」
「しょうがねーな!付き合ってやるよ!」
向日はやや乱暴に彼女の背中を叩き、芥川の後を追った。その背中の痛みに彼女の表情から躊躇いが消える。しょうがない奴だなぁと苦笑する滝が「じゃあ、行こうか」と彼女の背中を押す。
彼女も「うん」と頷いて歩き出す。
「ありがとう」
そう小さく呟いて。