瞬きをする間に 7




「――ここじゃねぇ?」
向日が指差したガソリンスタンドの看板を前に、何となく皆で顔を見合わせた。彼女と一緒に先頭を歩いていた芥川が、壁に手をつき敷地内を覗き込む。そして彼女も恐る恐るその背後から覗き込む。客らしき車は一台。店員の一人が窓ガラスを拭いている。すごく若く見えるので、もしかしたらの兄かもしれない。いや、まさか、兄本人?彼女は思わず目を凝らす。すると顔を上げたその男と、バチリと目が合った。
「わっ!」
咄嗟に声を上げ、慌てて芥川の後ろに回り込む彼女。男の方は怪訝な顔をしながらも、すぐに窓拭きに戻る。そしてその車の給油が終わり店を出るのを見送った後、もう一度彼女たちの方を見て訝しげな目をした。しかし彼女たちの方に近付いては来ずに、近くにいたもう少し年上の店員に声を掛けている。
「明らかに俺たち、不審者ですよ」
日吉は、やれやれとため息をつく。確かにその通りだなと、彼女は少し頬を赤く染めて俯く。普段は思い切りがいいというか、すごく堂々として見える彼女だが、こんなシーンではちょっと勝手が違うのだろうか。いつもと違う彼女が新鮮で、少し可愛いとさえ思ってしまう。しかしそんな自分を認めたくなくて、日吉は「いい加減覚悟決めて下さい」と冷たく言う。
「そうだね……どうやら、また本人はいないみたいだし、ちゃんと話してお兄さんのこと聞いてみた方がいい」
滝の言葉に、ちょっと意外そうな顔をする彼女。
「え、そう?あの人がお兄さんって可能性はない?」
「それはちゃうやろ。さっきの親父さんとも自分のおかんとも似てへんし」
「そうかなぁ」
「あかん……冷静な判断が出来んようなっとる。さっさと聞きに行くで」
忍足が悩ましげに額を押さえ、彼女の肩に手を回した。そしてやや強引にガソリンスタンドの中へと促す。さっき目が合った男ともう一人の店員が、自分達の方へ近付いて来る彼らを、じっと目で追っている。ガソリンスタンドに歩いてやって来る中学生、不審がられるのも無理はない。忍足は余所向けの愛想笑いを作る。
「あの、すんません、俺達、藤原拓海……さんに会いたくて来たんですけど」
「――拓海に?」
年上の方の店員がそう聞き返すのと同じタイミングで、もう一人の店員が「あいつ、こんな年下のファンまでいるのかよ!」と両手で頭を押さえ、大げさに驚いたように見せた。年下のファン。兄は普通にファンが付くような人なのだろうか?その男の台詞に彼女はふと跡部を思い浮かべ、顔を引き攣らせた。「くーっ、羨ましいぜっ」などと騒いでいる男のことは全く気にならない様子で、もう一人の店員がちょっと困ったような顔をして答えた。
「拓海かぁ……あいつ、今日はまだ来てないんだよなぁ。たぶん仕事は休みだから、いつもみたいに来るんじゃないかとは思うんだけど……」
その男の口調に、彼女はくすぐったいような奇妙な感覚を覚える。自分が会ったことのない兄という人物と親しげな様子。あの豆腐店に住んでいて、ここによく遊びに来る兄。一体どんな人物なんだろうか。
「そうですか……。ここで待っていれば会えますか?」
「えっ、それは……」
滝の言葉に、更に困った顔をして冷や汗を浮かべる男。参ったなぁともう一人の男と顔を見合わせた。
「どうしても今日会いたいんです」
「うーん」
「あいつに何の用?」
彼らの真剣な眼差しに、ただのファンでないような気がして、年上の男が問う。言いづらそうに口籠る忍足や滝。そんな彼らの後ろから、少女が前に現れて、何か言いたげにじっと二人の男を見上げた。あまり周りにはいないタイプの、いかにもお嬢様と言った少女。世の中にはやはりこんな子も存在するのかと、二人の男はついボーっと見とれてしまう。彼女が思い切って口を開きかける。――と、車の大きな音が近付いてきた。皆が期待を込めてスタンドの入り口の方を振り返る。
「拓海かな?」
「ばか、違うよ、ハチロクの音じゃないだろ。あれは――」
年上の男の方の台詞に首を傾げつつ、彼女も入り口をじっと見守る。暫くして入って来たのは、何だか派手な感じの黄色い車。
「うわっ、高橋啓介!」
さっきからオーバーなアクションを取る男がそう叫び、体を仰け反らせる。そんな彼に向ってもう一人の方が「ばか、仕事だ、仕事!」と頭を小突いた。すると慌てて「いらっしゃいませー!」と言いながらその車の方へ駆けて行く男。色もそうだが、見たことのないような恰好の車で彼女は思わず見入ってしまう。でもとりあえず兄ではないらしい。ちょっとガッカリして肩を落とす彼女。
「――、走り屋っちゅうのは、ああいう車に乗ってるらしいで?」
「え?そうなの?」
彼女の脇腹を肘で突きながら忍足が耳打ちする。その彼の台詞に、一層熱心に見入る。その車のドアが開く。すると中から随分と背の高い男が現れた。あんな背の低い車に一体どうやって乗っていたのだろう?と首を傾げる彼女。車から出て来た金髪のツンツン頭の男が店員に何か話しかけ、ちょっと困ったような顔をして頭を掻いている。そして、彼女達の傍に立っていたもう一人の店員の方に視線を向けたかと思うと、こちらへずんずんと近づいてきた。
「今日、藤原来てねぇの?」
一瞬だけたちを見たが、気にする様子なく店員の方に話しかける。どうやら彼も藤原拓海に会いに来たらしい。彼も兄の友達なのだろうか。失礼かとは思いながらもマジマジと見上げる。しかし、背が高い。一年前位から急に背が伸び出した鳳も、同じくらい背が高いのだが、目の前の男の方が細身なのか、その顔立ちのせいなのか、それともあの車とのギャップのせいなのか、その印象が強い。
「来てないよ。今日はあいつモテモテだな」
顔を顰めてポケットに手を突っ込むその男に、隣りに立っていた店員の男は苦笑いを浮かべながらそう答えた。
「あいつ、今日は昼過ぎにここに来るって言ってたんだぜ?……ったく、やっぱ来る前に電話しとくんだったぜ」
「そうなのか。じゃあもうじき来るのかな」
「ま、俺はこのビデオテープをあいつに渡せば用は済むんだけどさ」
「え、わざわざそのためにあんたが?」
「……史浩もケンタも今週は忙しいらしくってさ、来週末行く峠のテープだから、早く渡してやらねぇとまずいし」
二人の会話の内容がさっぱり分からないまま、パチパチと瞬きして彼らを交互に見上げる彼女。とりあえず兄はもうじきここに来るかもしれない、それだけは分かって心臓がドキドキと大きな音で鳴り始めた。その横で、どうやら鳳の予想が当たりそうだと顔を見合わせる忍足達。
「――で、こいつらも藤原に用なのか?あいつの追っかけか何か?」
「お、追っかけ?」
その金髪の男の台詞に、思わず素っ頓狂な声を上げる彼女。追っかけなどと聞くと、ますます兄が跡部と重なってしまう。そんな訳ないと、頭をプルプルと横に振った。
「まさか、あんた達兄弟じゃないんだし」と店員の男は苦笑するが、思い出したようにさっき中断された会話を再開させた。
「そう言えば、君たち、拓海に何の用事なの?」
一度は思い切って言おうと思った彼女だが、すぐに言葉が出てこない。勇気を絞り出すようにスカートをギュッと掴む彼女。宍戸がその後ろから頭を少し乱暴に撫でる。
「あの……」
口を開く。でもどう言ったらいいのだろう?次の言葉が浮かんで来ない。彼女の頭を穴戸より優しく撫でたのは滝。
「この子はって言います。藤原さんのファンとか追っかけではないんですが――どうしても、今日、会いたいんです」
滝の声を聞きながら彼女は俯く。今までも、事あるごとにいつもこうやって皆に助けられてばかりいた。情けないなと思うと同時に、そんな彼らの優しさがすごく嬉しくて、すごく、居心地がよかった。テニス部に出入りしていたのは、ただ単に跡部に用を言いつけられたからと言うばかりじゃない。
でも、もうそんな彼らと一緒に過ごすことは出来ないのだ。こんな時にふとそんなことを思い、涙が溢れそうになる彼女。鳳が少し躊躇い気味にその背中をそっと支えた。
「ファンでも追っかけでもねーってことは、ハチロク絡みじゃねーってことか?学校の知り合いか何かか?」
「俺達の高校にこんな奴らいませんでしたよー。て言うか、こいつらまだすごく若くないっスか?」
あの黄色い車の給油を終えたらしい店員が、伝票を手に金髪の男の所へやって来ると、聞こえて来た会話に口を挟んだ。確かに若いな、と金髪の男が目の前の彼らを見渡す。
「お前ら、いくつ?」
「中学三年です」
「えっ!まだ中坊かよ?最近のガキは発育いいな」
口元を歪ませながら、もう一度彼らをグルリと見回す金髪の男。自分もモデルばりのスタイルで、そんなことを言っても白々しいだけだと日吉は思ったが、心の中だけにとどめておく。
「この辺の学校の子?」
「いえ、東京から来ました」
「と、東京!?」
「中坊がわざわざ東京から藤原に会いに?一体、用って何なんだ?」
金髪の男が、持っていたビデオテープで肩を叩きながら怪訝な顔。それも無理はない。どう考えても藤原拓海と全く縁のなさそうな女の子が、深刻な顔をして「どうしても会いたい」と言う。しかし理由ははっきりと言えないらしい。彼女に限らず、皆中学生とは思えないようなしっかりした調子で話をするのに、何故会いに来たのかと問うと、一様に言い淀む。他人には言えない理由。ここは敢えて何も聞かないでおいてやるべきなのか。大人びた――とは言っても、やはりあどけなさの残る少女をじっと見る。その視線に気付いて、彼女の方も金髪の男を見上げた。まっすぐに絡み合う視線。初対面で自分をこれだけ真っ直ぐに見られる人間も珍しい。単に子供だから怖いもの知らずと言うだけなのか。男は僅かに口角を上げ、降参とばかりに目を伏せた。
「――ちょっと待ってな」
そう言って携帯を取り出す。手慣れた様子で番号を呼び出し、それを耳元へ。その動作をじっと見守っていた彼女に向って目を細めて笑う。
「――よう、藤原?」
金髪の男が携帯に向かって話し始める。彼女は緊張で手がヒヤリと冷たくなった。