瞬きをする間に 9




「すごーい、階段の両脇にお店があるんだ!」
彼女は目の前に広がる街並みに感嘆の声を上げる。隣りにいる拓海には見慣れた光景だが、彼女にとっては伊香保の石段街はすごく新鮮だったらしい。目をきらきらと輝かせてそれを一段一段上り始めた。

どうやって下りたのか殆ど記憶にないが、拓海が涼介に促されて秋名を下りガソリンスタンドに行くと、待合室の椅子に彼女が座っていた。後で、随分大勢の友達を連れていることに驚いたけれど、その時は彼らのことなど全く目に入らず、足を揃えて背筋をピンと伸ばして、その古ぼけたソファに腰を下ろしている少女だけが目に映った。ちょっとは会ってみたい、ついさっき涼介にそう言ったばかりだが、実際本人を目の前にすると何をどうしたらいいのか、頭の中が真っ白になる。拓海に気が付いてソファから立ち上がる彼女。そして彼を真っ直ぐに見つめた。
「あの……藤原、拓海さん……ですか?」
その震えた声で、彼女も自分と同じく緊張しているのが分かる。自分の方が年上だと言うのに、勇気を出して言っただろうその台詞に、拓海はすぐに返事をすることが出来なかった。涼介の手が肩に置かれ、ようやく目が覚めたように口を開く。
「――?」
昔、何度も何度も頭の中で繰り返した名前を呼ぶ。自分の妹。一緒に住んでいたら一体何て呼んでいただろう?そんな下らない仮定をして色々と考えたことがあった。でも、その名を一生呼ぶことなどないのだろうなと漠然と思っていた。こうして自分の唇の上にその名を乗せると、何か腹の底の方から熱いものが込み上げて来て、それを必死に抑え込もうと力いっぱい拳を握る。
彼女の方も、自分の名を兄という男に呼ばれる時が来ることなど想像出来なかった。躊躇いを含んだ彼のその声に、彼女は全身が震える。拓海は何とか抑えることが出来たが、彼女の方は堪えることが出来ず、涙がポロポロと零れ出した。次から次へと零れ落ちるそれに、拓海は一瞬どうしたらいいのか分からずに立ち尽くす。いつもならそんな彼女を、後ろにいる忍足達が放っておくわけもない。しかし今は、それは自分達の役目ではないからと、抱き寄せてその髪を撫でてやりたいのを必死に我慢していた。
「ご、ごめんなさい、私、別に泣きたかった訳じゃなくて……」
泣いているせいか恥ずかしさのせいか、頬を赤くして慌てて涙を拭う彼女。尚もオロオロしている拓海に、傍にいた啓介が痺れを切らして「何してんだよっ」と頭を小突いた。
「ハンカチくらい持ってねぇのかよ?」
「あっ、はっ、はい……」
その啓介の台詞に、慌ててポケットをごそごそと漁ってハンカチを取り出す拓海。そして恐る恐ると言った歩調で近寄り、ハンカチを差し出すと、彼女は赤くなってしまった目を大きくして拓海を見上げ、「ありがとう」と小さく言ってそれを受け取った。両手でそれを大事そうに握り頬に押し当てる彼女。その様子が無性に愛しくて、戸惑いながらも、そっとその頭を撫でた。彼女に触れた手から伝わって来る熱。目の前の彼女が忽ち現実の存在となり、拓海は思わず彼女のその細い肩をぎゅっと抱きしめた。

スタンドの待合室で暫くそうしていたが、少しは二人きりで話したいだろうと啓介が言い、石段街の辺りでも行って来いと拓海の背中を叩いた。
「こいつら、この辺来るの初めてらしいぜ。一応あそこ観光地だろ?色々話がてら案内してやれよ」
俺達は、こいつらを連れて後から合流するからと、後ろにいた忍足達を指差して笑う啓介。話って何を話したらいいのだろう?彼の提案にハッキリしない返事をする拓海に、涼介は苦笑いを浮かべた。
「別に無理に何か話そうとしなくてもいい。ただ、ここで俺達と一緒にいると、啓介ばかりが喋って誰が兄貴か分からない状態になるぜ?」
「……何だよ、それ」
口を尖らせて抗議する弟をかわし「早く行けよ」と促す涼介。何となく流されるように「それじゃあ……行こうか」と拓海が戸惑いながら言うと、彼女は小さく頷いた。その彼女の肩越しに、後ろに立っていた忍足達に目を向ける。
「じゃあ……ちょっと、行って来るから」
連れているのが全て男友達と言うのが、何となく面白くないような気がするが、その心配そうな表情に彼女が大切にされているのを感じて拓海は密かに安堵した。

途中、石段の勾配がきつい所があって拓海はちょっと迷いつつも彼女に手を差し出す。「ありがとう」と言って握ってきた彼女の手がヒンヤリとしていて、拓海の緊張が少し解れる。
「あ……温泉饅頭とか、食う?」
ちょうど目の前にあった売店で、おいしそうに湯気が立っている。その蒸篭を指差して拓海がそう聞くと、彼女が嬉しそうに笑って大きく頷いた。
「私、こう言うの食べるの初めて」
「温泉饅頭?」
「うん。こうやって温かいの食べたことない。うわぁ、お饅頭から湯気が立ってる!」
饅頭を半分に割ると中から湯気が立ち上って、彼女が更に嬉しそうに笑った。そんなことではしゃぐ彼女が新鮮で、拓海も思わず口元が綻んでしまう。
「家族で温泉とか行かないのか?」
「ううん、行くことはあるけど、こうやって食べ歩きなんてしたことないな〜」
母親もすごいお嬢様で、彼女のことも、父親は生粋のお嬢様なんて言っていたのを思い出す。そんな彼女達一家がどんな生活を送っているのか、今いち想像がつかない。案外自分達と変わらないのかもしれないし、全然違う生活を送っているのかもしれない。
「また今度来たら、買ってやるよ」
自分も饅頭を頬張りながら、別に何てことない感じで拓海がそう言うと、彼女の笑顔が一瞬消えたような気がした。実はこれが最初で最後のつもりで会いに来たんだろうか。自分の方は、またいつでも会えるような気がしていて、彼女もそう思っているものだと勝手に思い込んでいた。拓海は急に自分の台詞が恥ずかしくなる。どう続けていいのか分からずそっぽを向くと、彼女のちょっと元気のない声。
「うん。……『今度』ってすごく先になっちゃうかもしれないけど」
振り返ると、さっきとは打って変わって寂しそうな笑顔。拓海が訝しげな顔をすると、実は明日アメリカへ行ってしまうのだと続けた。
「アメリカ!?」
「うん、お父さんの仕事で……。いつ戻って来られるか分かんないんだって」
だからどうしても今日会いたかったのだと笑う。思ってもみなかった話に拓海は混乱し、石段を登る足が止まってしまった。
「そっか……」
アメリカ。見上げた空と一続きの場所とは言え、彼にとってはまだまだ遠い世界だ。いつでも会いに行けるという場所ではない。そんなの、またすぐ会える。気休めの言葉が一瞬頭に浮かんだけれど、声には出せなかった。
「――ありがと、な」
「え?」
「一度も自分から会いに行こうとしなくて、こんなこと言うのも何なんだけど……やっぱりお前に会ってみたいって思ってて……。でも、今日お前が会いに来てくれなかったら、もう一生会えなかったかもしれないんだよな」
微かに頬を赤くしながら頬を掻く拓海。その様子がさっき会った彼の父親そっくりで、思わず笑みを浮かべる彼女。
「私もなかなか勇気が出なくて。本当は今日も会いに来ようかすごく迷ってたんだ。……でも、皆が一緒に来てくれるって言ってくれて、思い切って来ちゃった」
照れたように笑って、そして、来てよかったと呟いて頬を赤く染める。来てくれてよかったと拓海も声には出さず呟いた。

石段街を登り切った所にある神社でお参りをして、二人は来た道を引き返す。太陽は一番高い所からだんだん下りて来ているとは言え、そのむせ返るような暑さに彼女は思わずふぅと息を吐き額の汗を拭った。この夏は炎天下に晒される機会が多くて大分鍛えられたと思ったが、やはり暑いものは暑い。石段を一段一段降りて行く。そして、その石段街の入り口に目を遣ると――この暑さなど一人感じていないかのような、涼しげな表情の男が立っていた。そこにいるはずもない人物に、とうとうこの暑さで自分は幻覚でも見えるようになってしまったのだろうか。は目を細め、そしてゴシゴシと擦った。
「――幽霊でも見たって顔してんじゃねぇよ」
腕を組んだまま、いつものように偉そうな態度。その後ろには、いつも一緒に連れている樺地もいる。幻覚でも彼らはワンセットなんだろうか。まだそんなことをボンヤリと考えてしまう彼女。
「跡部……?」
自分の名を呼ばれ、僅かに口角を上げる男。その名を口にすると、彼女の中でもようやく現実の存在として彼を実感することが出来た。
「跡部!」
もう一度、その名を叫ぶ。次の瞬間、考えるより先に体が動いて走り出した。最後の一段で足がもつれてよろけたが、下にいたその男が「ばーか、危ねぇだろ」と抱きとめる。
「どうして?どうしてここにいるの?どうしてここが分かったの?」
「どうしてどうしてって、うるせぇ奴だな。どうしてここにいるかって、お前らから連絡あった後に家を出たからに決まってんだろうが。どうしてここが分かったかって言うのは、お前の携帯だ」
「携帯?」
「GPS機能がついてんだろ」
「わっ、跡部、怖っ!」
「そう言うなら、ちゃんと設定を拒否にしておけ」
口を手で押さえて後ずさりする彼女に、呆れた顔をしてその頭を軽く叩く男。どちらの表情も、とても柔らかで楽しげで、拓海は何か間に入れないものを感じた。さっきスタンドで会った友人達もかなり親しそうだったが――彼は、もっと特別な存在なんだろうか。拓海が何も言わず二人を見ていると、彼女から顔を上げた男と目が合った。背は自分と同じくらいか、少し高いか。その全身から滲み出るような育ちの良さは、そう言うことに比較的疎い拓海でも、はっきりと感じ取ることが出来る。年が四つも下のせいか、圧倒するような雰囲気は涼介達ほど強くなかったけれど、どことなくビリビリと相手を緊張させるような空気はよく似ていた。
「あ、あのね……この人が、私のお兄さん、なの」
その彼の視線が、彼女の後ろに立っていた拓海にじっと向けられているのに気付き、彼女がちょっと躊躇いながらそう言う。するとふっと口元を緩ませた。
「ああ……よく似てる」
「似てる?そう?」
「目元の辺りとかな。で、俺のことは紹介してくれねぇのかよ?」
ニヤリ、笑いながら再び彼女から拓海の方に視線を移す。その目に、思わず拓海は唾を飲み込んだ。
「え、えーと、あの、この人は今まで行ってた中学で、生徒会長だった跡部景吾って言うの」
「……おい、何だ、その他人みてぇな紹介の仕方は」
「で、こっちはそんな彼にこき使われてる樺地くん」
「……ウス」
余所余所しい紹介を受けた跡部という男の抗議を無視し、彼の後ろにいた大男を続けて紹介する彼女。その様子が、二人の親しい仲を表しているようで、拓海は複雑な表情。つい一時間程前に初めて会ったばかりの妹だが、何となく彼氏とかいるのは寂しいような面白くないような。
「あーっ!跡部だっ!」
そんな微妙な空気の四人の間に、芥川の大きな叫び声が突き抜ける。どうやら後から追って来た一行が着いたらしい。皆驚いた顔をして跡部を見る。いや、一人、忍足だけ「やっぱり来たか」というような顔をして笑っていた。
「そこの駐車場に止めてあった黒い車、やっぱり跡部だったんだ?あんな馬鹿でかい高級車、跡部以外の家でも乗ってる奴いるんだね〜なんて話してたんだ〜」
あははと笑いながら話す芥川。馬鹿でかい車の何が悪い、とばかりに鼻で笑う跡部。

「うお、何だ、この階段!」
「伊香保の石段街ってヤツだね」
「滝ってホント何でも知ってるね〜」
「初めて来ました」
「俺も初めてです」
「俺も」
楽しそうにぴょんぴょんと跳ねて軽やかに石段を登って行く向日に、他のメンバーも後を追う。
「岳人のトレーニングにはいいかもしれんなぁ」
「こんなの、ちょろいぜ!」
「そう言って、なめてかかるとまた痛い目に遭いますよ」
「うるせーぞ、日吉!」
肩を竦める日吉に苦笑いしながら、最後に忍足が追う。お前も行って来い、と言う跡部の言葉に促され、樺地もその後について行った。下に残った拓海と、彼女と、跡部。少し離れた所に涼介と啓介も塀に寄りかかるようにして立っていた。
「じゃあ、俺も行って来るか」
そう言って跡部も石段を登ろうとしたが、シャツを引っ張る彼女の手に阻まれた。しかしその彼女の行動を予想していたのか、特に驚く風もなく笑みを浮かべつつ彼女の方に向き直る。
「――八時位までに帰ればいいってさ」
「え?」
「ただでさえ誘拐とか心配されんだから、遠出するときは母親にくらい、ちゃんと伝えとけよ」
「い、言っちゃったの?」
「俺の用に付き合わせて群馬の方まで行くってな。まあ……お前の母親は気付いてたみてぇだけど」
「そうだったんだ……」
ありがとう、跡部。彼女が俯いて小さく呟くと、跡部はその頭を少しだけ荒っぽく撫でた。そして、そのやや乱暴な手付きに彼女の方は勇気を貰う。彼女は跡部のシャツを離して顔を上げ、拓海を見た。
「あの……ね、一つだけ、お願いがあるんだけど」
「お願い?なに?」
「うん……と……」
首を傾げる拓海から視線が逸らされ、空を彷徨う。そして忽ちのうちに顔が真っ赤になって行く。一体どんな願い事が出て来るのかと思わず身を固くしたが、次の彼女の台詞にガクリと拍子抜けした。
「えーと……お、お兄ちゃんって、呼んで、いい?」
「え、え?」
そんなこと?思わずそう言いそうになってしまったけれど、ずっと一人っ子だった彼女にはすごく勇気のいることなのか。確かに、自分だって誰かをいきなり兄とか姉とか呼ぶのは恥ずかしい――かもしれない。拓海が頷くと彼女はほっとしたような笑みを浮かべた。
「ずっと、これからも、呼んでいい?」
「ああ……うん」
「メールとかしてもいい?」
「えっ、メール?でも俺、パソコンとか持ってないし携帯のメールもあんまり使ってないんだよな……」
「じゃあ手紙ならいい?」
「おいおい、一つだけって言ってどんどん願い事が追加されてるぜ?」
隣りで笑う跡部の台詞に、彼女は再び顔を赤くしたけれど「別に、いくつでもいいよ」という拓海の言葉に安心したように微笑んだ。
「――あのね、ここに来るまで、会ってどうすればいいんだろうとか、何話せばいいんだろうとか、すごく色々考えたんだけど――えと……お、お兄ちゃんに会ったら、何だかそれだけでいっぱいになっちゃって……って、あれ?私、何が言いたいんだろ?」
あれれ、と首を傾げる彼女に、拓海も微笑う。
「俺も、どうしたらいいのか最初分かんなかったけど……でも、言葉なんて、どうでもいいのかもなって、思ったよ」
そう言って、また頬を掻く。その仕草に彼女は目を細めて、ちょっとだけ目尻を手で拭って最後に言った。
「お兄ちゃんがお兄ちゃんでよかった」

「――で、あいつらは何処まで行っちまったんだ?」
石段に腰を下ろし、一向に戻ってくる姿の見えないメンバーに、やれやれとため息をつく跡部。その隣りで、さっき拓海と一緒に撮った写真を携帯で眺めてる彼女。その嬉しそうな顔を横目でチラリと見ながら、心の中で舌打ち。肉親に対して嫉妬しても仕方ないのは分かっているが、割り切れない思いというのはどうしても拭えない。
「携帯は、持って行くのか」
「ううん。明日解約する」
「そうか」
「だからGPSとかもう使えないよ〜」
「そんなもん、L.A.にいるお前に使っても意味ねぇだろ」
「そんなことないよ、あ、今学校行ってるのかとか、あ、今家に帰って来たのかとか」
「……俺はてめぇのストーカーか」
「あはは」
別に跡部がストーカーなら構わないのに。冗談めかしてそう言おうと思ったけれど声が出なくて、出て来たのは空笑いだけ。

春の終わり、梅雨に入りかけた頃に、彼女は父親の転勤の話を初めて聞いた。今までもしょっちゅう海外を飛び回っていたけれど、本格的に拠点をアメリカに移すとかで、たぶんもう暫く日本に戻ることはないだろうと言われた。何も中三のこの時期に――と思ったけれど、彼女が口にする前に、先に父親にすまないな、と言われて何も言えなくなった。学校の教師には親から話をすることになった。本当は、友達には黙ったままヒッソリと姿を消そうかと思ったけれど、生徒会の副会長をしている手前、そう言うわけにもいかない。跡部には迷惑を掛けてしまう。
「――何かあったか」
両親から話を聞いた日の翌日、放課後に生徒会の仕事をしていて自分と跡部以外の生徒が帰った後、跡部が書類に視線を落したまま、そう聞いて来た。まだ、いつ話そうか全然決めていなかった時だ。
「……何で?」
「質問しているのは俺だ」
自分を見据えて来る青い瞳に、この人は誤魔化せないのだなと、彼女は今さらながら思った。ペンを置いて彼の方を向く。口を開いて、何でもないことのようにサラリと言おうと思ったのに、声が掠れて全く出てこなかった。
二学期からいなくなる。
たったそれだけのことを伝えるだけなのに。パラパラと跡部が書類を捲る音だけが響く。何も言わず彼女の言葉を待つ跡部。
迷惑を掛ける。
そうじゃない。自分は単にこの人と離れるのが嫌なのだと、こんな瞬間に思い知る。唇を噛み締め、涙が出そうになるのを必死に堪える彼女。でも涙が出ない代わりに声も出せない。紙を捲る音が止む。そしてため息と共に椅子のギシリという音がした。立ち上がり自分の方へと歩いて来る跡部を目で追う。自分をじっと見下ろす彼の目に涙が堪えられなくなりそうで、彼女は歯を食いしばった。
「――もう俺以外誰もいねぇ。何も我慢する必要はねぇよ」
そう言って、彼女の頭を自分の方にグイと引き寄せる。その彼の動作に驚いて、必死に我慢していた涙が一粒零れた。
「何があった」
その声が優しくて、また涙が零れた。
「ばか跡部」
そう言って彼の制服を握り締めると、もう止まらなくなった。

所詮子供など無力な存在だ。
その時の彼女の言葉に、跡部はそんなことを思い知った。この時期に転校など随分無茶をすると思ったが、さらにその引っ越し先がロサンゼルスだと聞いて流石に絶句した。もちろん会い行こうと思って行けない場所ではないけれど、やはり簡単に行ける距離ではない。
「ごめんね、任期中なのに」
馬鹿じゃねぇのか。心の中で毒づいた。
「残り数か月じゃ、補欠選挙は難しいかな」
本当に、こいつは馬鹿じゃねぇのか。誰がお前以外に副会長なんかやらせるかよ。心の中でそう言うだけじゃ抑え切れず思わず舌打ちが出てしまった。
「――お前は、それでいいのか」
「え?」
「お前はL.A.に行きたいのかって言ってるんだ」
「それは……」
「行きたくねぇってんなら、俺が手を打ってやる」
まるで彼女のための台詞。けれど、本当は自分が彼女を行かせたくないだけなのだと、本当は跡部自身も分かっていた。別にその転勤をないことにしなくても、彼女を家で預かることくらい出来る。そう思っていたけれど、数日後に返って来た彼女の答えは、両親と一緒に行くと言うものだった。何でそっちを選択するんだと内心腹立たしさも覚えたけれど、それと同時に、その方が彼女らしいとも思った。

「ねえ、跡部」
石段に座って頬杖を突き、携帯をパタリと閉じる彼女。そして額に手を翳し、真っ青な空を仰ぎ見る。
「やっぱりL.A.って遠いのかな」
「だから、春からずっと遠いっつってんだろうが」
「そうかなぁ。跡部なら自家用ジェットとかですぐ来れそうだけど」
「簡単に言うな。申請とか面倒くせぇんだからな」
「えー、跡部でも面倒なことってあるんだ」
意外そうな声を出して、眩しそうに空を見上げたまま可笑しそうに笑う。「悪かったな」と肩を竦めて跡部も同じように空を見た。
「まあ、自家用機はそうそう使えねぇけど、たまには会いに行ってやるよ」
「――ほんと?」
「嘘言ってどうするんだ」
賑やかな声が上の方から響いて来る。どうやら皆が戻って来たらしい。電車でもあんな調子だったんじゃないだろうなと些か不安になる跡部。
「気が向いたら、あいつらも連れてってやる」
「あはは、皆でL.A.観光とか楽しそう!でも新しい家って、皆が泊まれるくらい沢山客間あるかなぁ?」
「心配するな、うちの別荘がある」
「うわ、出た!ブルジョワジー!」
「てめーに言われたくねーよ」
ジロリと睨む跡部の視線をかわし、弾んだ声でハリウッドスターとか普通に歩いてるかな〜などとミーハーなことを話し出す。石段の上に置かれた彼女の手は白くなるくらいに強く拳が握られていて、無理しているのは一目瞭然。けれど、跡部は敢えて気付かないふりをして、一言言うだけだった。

「向こうで男なんか作ってんじゃねーぞ」