瞬きをする間に 6




「うお、ボックス席だ!」
「岳人、あんま騒ぐなや」
「ねえ、ちょっと!私、冷凍みかんどこに入れたっけ?」
「さっきまで手に持っていませんでしたか?」
「それがないのよ〜!」
「……、お前まで一緒になって騒いでどないすんねん」
電車に乗った途端、修学旅行か何かのようにはしゃぎ出すメンバーに、忍足は早速ため息をつく。夏休みとは言え、平日の昼間と言うことで同じ車輌には他の乗客が殆どいないのが救いではある。
「ねえねえ、誰かトランプ持ってないの〜?」
「あ、花札ならあるよ」
「……何でそんなモンが鞄に入ってんだよ、滝」
「て言うか、向日さんと慈郎さんは宿題やるんでしょう」
案外滝は当てにならないことと、頼りになるのは小生意気な日吉だけだということにようやく気が付いた忍足は、もうどうにでもなれと天井を仰いだ。
「まあまあ、忍足くんも食べる?」
冷凍みかんを無事見つけたらしい彼女が、口をモゴモゴさせながら一房差し出してくる。
「あと三十分もすれば皆大人しくなるんじゃない?」
「率先して騒いでた奴が何言っとんねん」
非難がましい目を向け、みかんを受け取りつつもう一方の手で彼女の頬を抓る。みかんが口から出たらどうするんだと慌てて自分の口を押さえる彼女の様子が滑稽で、可愛くて、笑えた。
「でも、こうやって皆で、電車で出掛けるなんてことないですよね。合宿でも空港に集合しちゃいますし」
彼女のフォローのつもりなのか、ニコニコと笑いながら鳳が言う。確かに、長期休暇にある合宿では空港かもしくは現地に直接集合するので皆でこうやって電車で移動するということはない。練習試合の時など多少の距離の移動に使うことはあるが、こうやってボックス席のあるような電車で長時間皆が一緒にいるというのは、初めてだった。中学生活最後の夏休みに思いがけないイベントが起きたものだ。みかんを食べながら日吉の読んでいる本を覗き込み、汁を飛ばすなと邪険に扱われている彼女を見た。
「俺、渋川の方って行くの初めてです」
「ああ、俺もだ。渋い所に住んでるよな」
「あーっ、宍戸今のダジャレ?渋川に住んでて渋い〜」
「そっ、そんなんじゃねーよ!」
芥川の突っ込みに、顔を真っ赤にして否定する宍戸。一向に大人しくならず宿題も進んでいるようには見えない芥川を呆れ顔で眺めつつ、忍足は彼女に声を掛けた。向日の方は何とか宿題に取り掛かり始め、彼女もそれを手伝おうと参考書を開いている。
「自分も全然行ったことないん?」
「うん、初めて。」
のお兄さんって、どんな人かな〜」
ポリポリとポッキーを食べながら芥川は首を傾げる。彼女も一緒になって首を傾けた。
「どうだろうねー、カッコいいといいなぁ」
「夢見過ぎやで、自分」
「でも母親似だったら美形だよな。お前の母ちゃんすっげぇ美人だもん」
問題集から顔を上げ、ペンをクルクル回しながら向日も話に加わる。授業参観の時に見た彼女の母親を思い出したのか、少し顔が赤い。彼女の方はそうかなぁ?と今いち納得いかない表情で肩を竦めるだけ。
「でもお父さんがすっごくゴツい人だったりしてね」
「あー、ありうる!そのお父さんって昔プロのドライバーだったんだって!」
いたずらっぽくシシシと笑う芥川に、彼女はうんうんと頷く。その口から意外な単語が出てきて向日が訝しげな顔をした。
「プロのドライバー?」
「そう。えーと、何て言うんだっけ……泥だらけの道とか走るヤツ」
「まさか、ラリースト?」
驚いた顔で滝が発した台詞に「そうそう!そんな単語だった!」と彼女が嬉しそうに反応する。想像だにしなかったその職業に皆一様に驚いた目。話を聞いていないように見えた日吉も本から顔を上げて、見開いた目を彼女の方に向ける。戸惑い気味に口を開く宍戸。
「ラリーって……あれだよな、あの、WRCとか……」
「よく分かんないけど、今は引退して豆腐屋さんやってるんだって」
「ラリーストが豆腐屋……なんか、すげぇ落差ねぇ?」
クルクル回していたペンを今度はプラプラ揺らしながらそう言う向日に「そうだよねぇ」と彼女も苦笑い。宍戸は頭を抱える。
「何だか、ますますそのアニキって言うのが想像つかなくなって来たぜ」
「もしかしてそのお兄さんもプロ目指してたりしてね。楽しみになって来たよ」
対照的に楽しげに笑う滝は芥川の方をクルリと向き、やっとやる気になったらしく、
「じゃあ、さっさと宿題片付けちゃおうか」
と言った。途端にさっきまで元気だった芥川が欠伸を始める。
「ドライバーかぁ。そう言えば渋川って近くに山とかありますよね。走り屋だったりしたらビックリですよね」
「鳳の口から走り屋なんちゅう単語が出て来る方がビックリやわ」
「なになに?走り屋って?」
「山道とか車で走って速さを競う人たちですよ」
「……へぇ」
「あからさまに理解出来ひんっちゅう顔やな」
鳳の説明に分かったような分からないような微妙な表情をする彼女に、忍足と隣りの宍戸は苦笑い。まだ中学生である自分たちには年齢的にも縁のない世界だ。ましてや女の子では理解不能でも無理はない。
「すっごいヤンキーっぽかったりしてな」
「まあ、こいつの兄貴やからなぁ」
「……その『まあ』ってどんな意味の『まあ』よ?」
「いらんとこ突っ込むなや。ま、とにかく楽しみやな」
ニヤリと笑った忍足は、細い目をして睨む彼女の頭をぽんぽんと叩く。窓の外を見ると、電車は大きな駅のホームに差し掛かるところだった。

「ねえ、上越線ってホームどこ?」
「人沢山いるから、あっちじゃねーの?」
「……岳人、何なんやその適当な台詞は」
「駅員さんに聞いてみた方が早いですよ」
「日吉は堅実な意見だね。……あ、向こうに草津方面って書いてあるよ。あそこじゃない?」
高崎駅で降り、渋川駅へ向かうために乗り換えようとしてひと騒ぎ。「ローカルは一本逃すと、次の電車ってなかなか来ねーんじゃねぇの?」と言う宍戸の尤もな意見に、皆一斉に上越線のホームまで走り、電車に乗った時には全員汗だくだった。群馬はちょっと暑いような気がする。
「いよいよ近づいて来たね。ドキドキする?」
手すりにつかまって呼吸を整えている彼女に、笑みを浮かべつつ滝が聞く。何だか俺までドキドキしてきたよ、と目を細めて。
「家の場所は分かっとるん?」
「えーと、渋川にある商店街の藤原豆腐店としか聞いてないんだよね」
「……大丈夫かよ、それ?」
「つーか、チャレンジャーだな、お前」
「それに付き合ってる俺らも、相当やで」
「まあ……何とかなりますよ、きっと」
呆れる向日や宍戸に、鳳の苦しいフォロー。自分でも無理があると分かっているのか笑顔が若干引き攣っている。
「とりあえず、駅に着いたら交番に行って聞いてみるしかないですね」
「分からなかったら、無駄足ってヤツですかね」
淡々とした口調で日吉がそう言うと、彼女がちょっとだけ落ち込んだ顔をする。それを見て日吉は学習しない自分を後悔したが、咄嗟にフォローする言葉が思いつかない。黙ってそっぽを向く彼を見て、やれやれと小さく肩を竦めた忍足は、俯いたを安心させるように笑った。
「まあ、そんときは時間の許す限り自分達で探してみよか」

しかし、幸いなことにそんな彼らの心配は杞憂に終わった。交番に行くとすぐに場所が分かって教えてもらえたのだ。地図を出し、お巡りさんに具体的な場所を指差して示されると、いよいよ現実のものになって来た気がして、どんどん彼女の心臓が高鳴ってくる。
駅から少し離れていると言うので、タクシーを使おうという一部の意見は却下され、バスで移動することになった。暑いと言いながらバス停で騒ぐ芥川たちに対し、だんだんと無口になっていく彼女。一緒に笑おうとしているようだけど、どうもちゃんと笑えていない。その様子に滝は思わず口元を綻ばせてしまう。
「大丈夫だよ」
隣りに立ち、彼女にだけ聞こえるような声でそう囁く滝の言葉に、は小さく頷く。それを傍で見ていた忍足も安心させるように肩を叩いた。
「何だろう……近くまで来たら、皆に会う前に考えてたことがまた頭の中グルグル回りだしちゃって」
「会ったらどうしよう、って?」
「いきなり『あなたの妹です』って言われても訳分かんないよね。何しに来たのって感じだよね」
「どうやろ?俺やったら妹が会いに来てくれたら嬉しいけどなぁ」
「俺も嬉しいけどね。でも跡部みたいな男だとストレートに『何の用だ』とか言いそうだけど」
「……あいつを基準にして考えたらあかん」
「でも、俺もどうしたらいいか分かんなくって困るかもな」
唸って言う宍戸の意見に「確かにそれはあるかもしれんなぁ」と忍足も頷いた。
「とにかく正直に言うしかないよね、日本を離れる前に一度会ってみたかったんだって。困った顔をされたら、その時はその時だよ」
「そうだよね」
ちょっとおどけて言う滝に、は笑いながら答える。やっぱり皆がいてよかったと、改めて思った。

バスを降りて少し歩くと、じきに商店街の看板が見えてきた。真夏の昼間、太陽が照りつける中買い物をする人は少ないらしい、人影はまばらだ。アーケードをくぐった彼女は唾を飲み込み、思わず隣りを歩いていた芥川のシャツの裾を掴む。一瞬「あれ?」と言う顔をした彼は楽しそうに笑い、彼女の手を握ってどんどん歩き始めた。
「ちょ、ちょっと待って、ジローくん!心の準備が……」
「あ、あそこじゃない?藤原豆腐店って書いてある!」
あまりにずんずん容赦なく進むので、彼女が心を落ち着ける間もなく、それらしき店の前に着いてしまった。蔦の絡まる看板には、確かに「藤原豆腐店」と書かれている。本当に存在したんだ、と彼女は今さらながらなことを思う。母親から色々話は聞いたけれど、何となく実感が湧かなくて物語か何かの中の出来事のような気がしていた。
「うわ、何だかすっげー心臓バクバクしてきた!」
「別に自分のアニキやないで、岳人」
「どうするんですか?皆で行ってみますか?」
「ここはさん一人で行った方がいいんじゃないですかね」
日吉の言葉に同意するように自分の方を見る滝や宍戸たちに、はギュッと口元に力を込め、拳を握りしめる。
よし、行こう。
そう思って一歩踏み出しかけた時、一足先に店の入り口の前まで行っていた芥川の「あれ〜?」と叫ぶ声。
「お店、臨時休業って書いてあるよ?」
「マジで!?」
「そう言えば……車もないですね。夏休みだから家族で旅行にでも行っちゃってるんでしょうか」
「ええ!」
鳳の言葉に彼女は頭を抱えてみたものの、十分ありうることだ。しかし、会ったらどうしようということばかり考えていて、実はそう言う可能性については全然考えていなかった。自分の迂闊さに更に深く頭を抱える。
「そっか……そうだよね」
ヨロヨロと力なく入り口まで辿り着く。そして臨時休業とマジックで書かれた貼り紙を見てため息をつきかけた時――ガラリと勢いよく目の前の扉が開いた。
「――っ!」
声なき声を上げる。硬直する彼女の前に現れたのは、シンプルなTシャツに履き古されたGパンの、少し不精髭が残る男。年は四十台半ばと言ったところだろうか、自分を呆然と見上げる少女を前にして、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにちょっと困ったようにポリポリと頬を掻いた。
「ああ……お嬢ちゃん、今日はもう店じまいなんだ。悪いけど、また明日来てくれないか」
「え……えっと……」
表情の固まっていた彼女の顔が、忽ちのうちに真っ赤になって行く。ただの客にしてはちょっと様子がおかしいと首を傾げると、すぐ後ろに彼女の友達らしき少年達が、じっと自分を見つめているのが目に入った。眉根を寄せて改めて目の前の少女に視線を向ける。
「あの……」
彼女は何か言わなければと思うけれど、何も言葉が浮かばない。男は顎をさすりながら、そんな彼女の顔をまじまじと見る。大人びて見えるが自分の息子よりは年下だろう。後ろにいる少年達もそうだが、その辺にいる悪ガキとはどことなく雰囲気が違う。そして、目元や鼻筋は、どこかの誰かによく似ていた。家の中に写真を飾るガラじゃない、実際に会ったのはもう十年以上も前のことなのに、自分の中で一向に色あせることのない姿。
「お嬢ちゃん……もしかして、サオリの子か」
男は十数年ぶりに、昔連れ添っていた女の名を口にした。彼女はビクリと肩を揺らし、少しだけ目を潤ませて、それを隠すようにコクンと頷く。
「そうか――」
昔送られて来た写真ではまだ小さかったのに、いつの間にこんなに大きくなったのだろうか。男は口元を緩ませ、「大きくなったな」と呟くように言い、やや乱暴に彼女の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
男からふわりと煙草の匂いがする。父親以外で、これくらいの年代の男からこんな風に優しく撫でられた経験などなくて、思わず涙が込み上げて来る彼女。自分の知らない人が昔の自分を知っていると言うのは、何とも奇妙な感じはしたけれど、その声はとても優しくてくすぐったい。
「拓海に会いに来たのか?」
母親から聞いていた兄の名前。目の前の男から聞くとようやく実在の人物なのだと実感が湧いてくる。言葉が出ずに黙ってまた頷くと「そうか……」とちょっと困ったような顔をした。
「あいつ、今でかけちまってるんだよ。たぶんその辺ほっつき歩いてるだけだと思うんだが……」
「そう、ですか……」
「あの、どの辺りに出かけられたかご存知ですか?」
少し離れた所にいた皆が、いつの間にか彼女のすぐ後ろまで来て、彼女の肩に手を置いた滝が口を開く。初対面だからと言うだけではないだろう、決して強面という訳でもないのに妙な緊張感を抱かせる男だ。しかし当の本人は暢気な表情で顎を掻く。
「せいぜい秋名くらいだと思うんだけどなぁ。あとはよく行くガソリンスタンドか……」
「ガソリンスタンド?そこって近いんですか?」
「そうだなぁ……歩けない距離じゃない。でも暑いだろ」
男が苦笑いすると「暑さには結構慣れてますから」と忍足も苦笑いで返した。いかにもお坊ちゃんと言った雰囲気で、一見ひ弱そうにも思えるが、確かによく見れば皆綺麗な筋肉が付いている。少女の方はいかにも華奢な感じではあるが。彼女の母親も、会ったばかりの頃は深窓の令嬢と言った印象で風が吹いたら倒れそうに見えたな、と懐かしく思い出して笑う。
「じゃあ、地図を描いてやるから、行ってみな」
そう言って男は家から新聞の折り込みチラシを引っ張り出して来て、そこに、これ以上は簡略化出来ないだろうというくらいのシンプルな地図を描いた。それを見て皆無事辿り着けるか不安になったが、黙って受け取る。
「そこの店長は俺の知り合いなんだ。もし拓海がいなくても何か知ってるかもしれねーから、聞いてみな」
「はい。ありがとうございます」
「……しっかりしたお嬢ちゃんだな。あいつの娘なら当たり前か」
あいつと言うのは母親のことなのか父親のことなのか。今いち判断のつかなかった彼女は男の台詞に首を傾げる。
「お母さんは、元気か?」
「……はい」
「そうか。ちょっとだけ心配してたんだが、お嬢ちゃん見て安心したよ」
サオリは幸せなんだな。
男が心の中だけでそう呟くと、彼女は不思議そうに男を見上げた。そのあどけない表情にどうしても自然と口元が綻んでしまう。そんな照れくささを隠すように、もう一度彼女の頭をクシャクシャと撫でた。

「すげぇ、何て言うか……渋い親父さんだったな」
「渋川の渋い親父〜」
「ジロー、ちゃかすんじゃねーよ!」
歌でも歌うように言う芥川に口を尖らせる宍戸。その後ろで、まだ緊張が解けないのか、彼女が大きく息を吸ったり吐いたり。そんな彼女の代わりに、地図を持って道を探しているのは滝と鳳。最初は渡されたメモに不安になったが、入り組んだ道ではなかったので迷わず着けそうだ。鳳が宍戸の方を振り返る。
「ラリーやってたっていうのは、ちょっと頷けましたね」
「そうだな。豆腐屋っていうのも、結構シックリ来た」
「うん……なんか、カッコよかった」
彼女がポソリと呟く。ほんのり頬を赤く染めて。目的の人物がいないと言うので最初肩透かしを食らったように思えたが、その父親に会えたのは彼女にとってよかったのかもしれない。自分の母親が昔一緒にいた男と言うのは複雑な気持ちだろうが。彼女の今の表情を見る限り、決してマイナスではなかったのだろう。忍足が意地悪く笑う。
「なんや、自分、ああいうんが好みなんか?」
「そっ、そうじゃないよっ!あんなお父さんもいいなって思っただけ!」
妙に慌てる彼女が可笑しくて皆が笑う中、芥川はちょっとだけ頬を膨らませた。
「だめだよー。群馬に住んでたら俺達と一緒の学校行けないじゃん!」
そう言って商店街でしたのと同じように彼女の手を握って歩き出す。そのペースの速さに戸惑いながらも、彼女はその芥川の台詞に口元を緩ませて、彼の手をぎゅっと握り返した。