瞬きをする間に 8




「涼介さんと啓介さんて、すごく仲がいいですよね」
秋名湖畔。拓海は揺れる水面をボーっと眺めながらそう言った。隣りに立っていた男が、缶コーヒーのプルタブを開ける手を止めて拓海の方を振り返る。さっきまで、今度遠征に行く峠の話をしていたはずなのに、何故自分達兄弟の話になるのか。その訝しげな視線に気付き、拓海が慌てて俯いた。
「あ、いえ……バトルの時とか、二人を見てるとすごく信頼し合ってるなぁって思って……」
「俺はお前も信頼してるぜ?」
なるほどそう言うことかと目を細める男の台詞に「はあ……」と曖昧な返事。少し顔が赤い。
「藤原は、兄弟はいないんだったな」
「はい。しかもずっと親父と二人で――」
そこまで言いかけて拓海は口を噤み、また湖に視線を戻す。何か考えている様子だったので、隣りの男は何も言わず、先ほど中断した缶コーヒーのプルタブを開けて呷った。
「――実は、いるらしいんですけど」
「え?」
「あの……妹が。会ったことはないんですけど」
「そう、なのか?」
何だか深い事情のありそうな話に、男は戸惑いの表情を浮かべるが、拓海の方は相も変わらず感情の窺えない顔つき。男も一緒になって湖に目を向ける。平日だが夏休みと言うこともあって、何隻か手漕ぎボートも浮かんでいる。缶コーヒーを買った売店にもそこそこ人が入っていた。
「俺の母親って人、今、東京に住んでるらしくって。再婚相手との間に娘がいるんだって、昔親父に聞いたことがあるんです」
チャプチャプと緩やかに波打つ水面の上に、その時のシーンが浮かび上がる。中学三年だったか高校一年だったか、それ位の頃、新聞紙を広げてその上で足の爪を切っていた父親が、いきなり「そうだ」と何かを思い出したように口を開いた。そして続けた台詞が「実はお前に妹がいるんだ」という突拍子もないもの。
「は?何言ってんだよ、親父」
「昔、お前、弟か妹が欲しいって言ってたじゃねーか」
「……それ、いつの話だよ」
言った本人は全く憶えていない。いや、きっと何度か言ったことはあったと思うが、それはすごく小さい頃、周りの弟妹がいる友達を見て、単に羨ましくて一時の感情で言ったに過ぎない。
「どうだ。会いたいか」
「訳分かんねーよ。何言ってんだ?」
「まあ、向こうは生粋のお嬢様だからなぁ。会っても話とか合わないかもしれねぇな」
そう言って一枚の写真を引き出しから取り出し、二人の前のちゃぶ台の上にヒラリと置いた。覗き込むと、学校の制服らしきものを着た小さな少女が写っている。怪訝な顔をして父親の方に向き直ると、既に何事もなかったかのように爪切りを再開している。だが冗談を言っている風でもない。拓海はもう一度その写真を見た。

母親はいない。小さい頃はただずっとそれだけを聞かされて来た。中学に上がった頃、実は母親は東京に住んでいるのだと、再婚しているのだと、聞かされた。同じ頃、父親の口止めが解禁されたのか、親戚の家に言った時に酔った伯父か誰かが、母親はものすごいお嬢様だったのだと話し始めた。プロのドライバーだった父親と駆け落ち同然で結婚して自分を生んだけれど、母親の家族に連れ戻されてしまったのだと。そして無理やり他の男と結婚させられたのだと。
「それは違うな」
今思えば子供の行動だと思うが、その時拓海は、その話を父親に本当なのかと問いただした。それに対し、珍しく真面目な顔をしてキッパリと否定の台詞。
「ものすごいお嬢様で相手の親から反対されてたってのは合ってるけどな。あいつが戻ったのは、俺とあいつの意志だし、あいつが他の男と再婚したのは、あいつの意志だ。別に誰かに強制された訳じゃねぇよ」
それを聞いた時、拓海は子供心にも「ああ、まだ親父はお袋が好きなんだな」と漠然と思った。自分を捨てた母親を一瞬憎みかけたけれど、他の男と結婚させられたと聞いて同情しかけたけれど、そんな感情はその父親の言葉の前に消え去った。
「――可愛いだろ」
まだ爪を切りながらニヤリと笑う。その声に、自分がその写真にじっと見入っていることに気が付いた。慌ててそっぽを向くと、更に可笑しそうに父親が笑う。
「半分しか血は繋がってねぇけどな。お前の妹だ」
その声がいつになく優しげで、拓海は父親を見る。けれど相変わらず下を向いてパチパチと爪を切っているだけ。自分以外の男との間の子供なんて、憎くはないのだろうか?それとも、自分が愛してる女の子供と言うのは、それだけで愛しいものなんだろうか?その時の拓海には父親の心境は全く分からなかった。社会人になった今でも、やっぱりまだよく分からない。

「――って、こんな話されても困っちゃいますよね」
ふと、拓海は我に返る。何も言わずじっと自分を見ている隣りの男に「すみません……」と小さい声で言って、まだ開けていなかった缶コーヒーのプルタブを引いた。
「――会いたいか?」
コーヒーを呷る拓海に、柔らかな口調で問いかける男。暫くの沈黙の後、拓海が口を開く。
「そう……ですね。俺、別に会いたくないってずっと言ってたんですけど……本当はちょっと、会ってみたいです」
自分の妹。親父の愛した女の子供。写真の中の、緊張した面持ちの少女。今は一体何歳位なんだろうか。あの少女はどんなふうに成長しているんだろうか。
その時、服のポケットにあった携帯が鳴った。ディスプレイを見れば今隣りにいる男の弟である高橋啓介。そう言えば、今日ガソリンスタンドに顔を出すと言っていなかったか?今一緒にいる兄――高橋涼介に午前中呼び出されて、すっかり忘れていた。
「――よう、藤原?」
何処にいるんだと怒られることを覚悟して出た拓海は、その穏やかな声色にちょっと面食らう。
「あ、はい。すいません。俺、今秋名にいて――」
「秋名?じゃあさ、お前すぐスタンドの方に来れるな?」
「え?あ、はい……」
何となく涼介の方を見て、躊躇い気味に答える。そんな彼の耳に次に飛び込んできたのは、まさかここで聞くとは思いもしなかった名前。
「お前に会いたいって子が来てるんだよ。って子」
今の今まで話をしていた少女の名前。一度だけ父親から聞いて、実は心の中で何度も繰り返し唱えた名前。拓海は一瞬呼吸が出来なくなった。
「――おい、聞いてるか?」
電話の向こうのその声に、ようやく息を吸うことを思い出して深呼吸する。しかし、唇が震えて思うように声が出なかった。
「どうした?」
心配そうな顔で見る涼介に、何でもないと首を横に振るけれど、どう見ても何でもないという表情ではない。不審に思って近寄ると、拓海の持っていた携帯から弟の声が聞こえて来た。
「おい、聞いてんのかよ?」
「――啓介?」
「えっ……その声、アニキ!?何でアニキが今藤原と一緒にいるんだよ!」
「その話は後だ。お前、一体藤原に今何を言ったんだ?」
「何って……別に、お前に会いたいって奴がガソリンスタンドに来てるって言っただけだぜ?」
「会いたい奴?」
「そう。って、東京から来たっつー女の子だよ」
その弟の言葉に耳を疑う涼介。すぐにピンと来た。しかしさっきの今でこんなタイミングよく現れるものなのだろうか。この偶然を疑いたくなるが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「分かった。今からすぐ行くから、待ってて貰ってくれ」
「あ、ああ」
まだ固まったままの拓海の代わりに通話を切り、涼介はふうと息を吐き出す。そして目を覚まさせるように拓海の肩を強く掴んだ。
「藤原、行くぞ」