瞬きをする間に 5




プールから上がった跡部に差し出されたのは、白いバスタオルと、携帯電話。
「忍足様からお電話です」
「――忍足?」
濡れた髪を拭きながら、嫌な予感に眉を顰めた。携帯電話を受取ってため息と共にデッキチェアに腰を下ろす。
「ああ、跡部。今どこや?まさかL.A.とか言わんよな」
「……用がないなら切るぞ」
速攻通話終了ボタンを押そうとする跡部の耳に「ちょい待ち!」と慌てて引き留める忍足の声。舌打ちしつつもう一度携帯を耳に当てた。
「で、一体何の用だ」
「実はな、今皆で上野駅におるんやけど」
「……上野?」
「せや、あのパンダのおる上野動物園の上野」
「もうパンダはいねーけどな」
「よお知ってるなぁ。実は跡部、パンダマニアか?」
「……」
「ああああっ!ちょい待ち!切るなや!」
どうやら気配で通話終了ボタンを押そうとしていることに気付いたらしい忍足は再び慌てて叫んだ。一体何が言いたいのだ。親友の意図がさっぱり見えない跡部は、傍に来た樺地にバスタオルを手渡し、前髪をかき上げた。
「何で上野なんかにいるんだ。しかも皆って言うのは何だ?」
「知りたいか?」
「いい加減にしろよ、忍足。本気で切るぜ」
「――って、ちょっと待ってよ!何でイキナリまた私に携帯渡すのよ!」
跡部が耳から携帯を離しかけたとき、響いてきた声。彼は耳を疑ったが――その声を聞き間違えるはずがない。その名を呼ぼうと思ったが、一瞬、喉が詰まる。
「あ……跡部?えーと、げ、元気?」
恐る恐ると言った感じの彼女の声。もう少し気の利いた台詞は出てこないのかと突っ込みたいところだが、そんな自分は声も出ないのだから何も言えた義理じゃない。自嘲的な笑みを漏らし、背凭れから身を起こす。
「え、ちょっと、ホントに切れちゃった?」
「……切ってねぇよ」
不安そうな声の彼女に、ようやく跡部が返事をする。その声の調子の変化に気づいた樺地は少しだけ不思議そうな顔をする。
「お前、なに上野なんかに行ってるんだ?」
「知りたい?」
「……何なんだ、てめーらは」
言葉は乱暴になっても、声はどうしても柔らかくなってしまう。そんな自分が滑稽に思えて、不思議そうな目を向けて来る樺地を見上げて苦笑い。
「実は、兄に会いに行こうと思って、電車を待ってるの」
「兄?お前に兄貴なんていねーだろ」
「それが、いるらしいんだ」
「いるらしいって、自分の家族の話なのに随分とはっきりしねー言い方だな」
「だって、会ったことないんだもん」
子供のようなむくれた声。もう少しマシな声を聞かせやがれ。心の中で呟いたが、そう言えばこれまでも今のようにむくれたり怒ったり驚いたりした声ばかりを聞いて来たな、と思い出す。

彼女はもともと跡部のように目立つ存在じゃなかった。よく見れば結構整った顔をしているのだが、誰もが振り返るような華やかな美人というわけでもなかった。勉強もそこそこ出来る方だったが、ムラがあって、自分の好きな教科だと時折跡部を抜くほどなのに、嫌いな教科では赤点とまでは行かなくても平均点を下回ることもざらだった。基本的に好き嫌いが激しいのだ。体育でも好きな球技では周囲に鬱陶しがられるくらい張り切るのに、嫌いな陸上では全身から「嫌い」というオーラを出していて、よく教師に小突かれていた。
「もっと要領よくやれよ」
何回目かの席替えで彼女が隣りの席になって、ボロボロだった数学の小テストの答案を握りしめながら机に突っ伏している彼女に、呆れて言ったことがある。それが恐らくまともに会話をした最初だった。
「あんなの、パターンに従って解けばいいだけだろうが。お前にそれが出来ないとは思えねーけどな」
「しょうがないじゃない。図形見てると眠くなっちゃうんだもん」
「……最悪だな」
「ほっといて」
両頬を引っ張って、とてつもなく不細工な顔を向けて来る彼女に一瞬呆気にとられ、そのままプイと反対側を向いてまた机に突っ伏す様子に、ただのガキだと呆れた。でも何故か同時に笑いと一緒に別の何かも、込み上げてきた。
いつだったか第二外国語の話になって、フランス語を選択する予定だと言う彼女は、フランス映画の魅力について滔々と話し出した。途中面倒臭くなって放っておいたら、いつの間にか違うクラスの忍足と熱く語り出して、知らぬ間に携帯の番号を交換したりして休日に映画を観に行く仲になっていた。
「跡部も行こうよ」
そう何度か誘われたが、絶対に行くものかと思った。そんな自分も彼女に負けず劣らずガキだったのかもしれない。

家で苛つくことがあっても、次の日の朝に「おはよう」と言う彼女の笑顔を見るとどうでもよくなった。学校で思うように行かないことがあっても
「ねえねえ跡部、……榊先生がカツラって本当?」
と言うような下らない彼女の話に
「てめーは馬鹿か」
と返している間に、大した問題ではなくなっていた。彼はまだ自分一人で解決できないような難題に突き当たったことはないけれど、これから何があっても、彼女と一緒ならどんなことでも解決出来るような気さえした。たとえ解決出来なくても、
「困ったね〜」
という暢気な彼女の声を聞いていれば何とでもなるだろう。そんな彼らしくもない、開き直りに近い楽観的な考えを抱いた。

「――異父兄弟、ね」
「そう言うこっちゃ。跡部も来るか?」
「返事は分かってるって声だな」
どことなくからかいを含んだ忍足の声にフンと鼻を鳴らし、チェアに横たわる。強い日差しが地面に照りつけジリジリと焦がす。誰も入っていないプールのチャプチャプという水音は、慰み程度の涼しさしか与えない。
「駅弁買って、皆で温泉旅行やで?いいんか?」
「……それを聞いて、俺が行きたいと言い出すとでも思ってんのか?」
「言わんやろなぁ」
即答する声に、思わず携帯をプールに投げ入れたくなる。が、それを堪えてため息を吐くだけで済ませた。
「馬鹿騒ぎとかすんじゃねーぞ」
「分かってるて」
「まあ……お前がいれば大丈夫だろうけどな」
もう一度、ため息をついて。殆ど乾いた前髪を掻き上げて。
「――あいつを、頼む」
声のトーンを抑えて、告げる。ほんの少しの沈黙の後、小さな笑い声が聞こえて来た。
「まかしとき」
それだけ言って、プツリと切れた。

閉じた携帯を持て余していると、脇に立っていた樺地と目が合う。跡部の口から出た名前に、何か言いたそうな顔をしてじっと立っている。
ここにも、あいつに調子を狂わされた奴がいたか。
跡部はチェアから起きて立ち上がり、近づいてきた執事に携帯を渡しながらそんなことを思って微笑った。
「あいつ、まだ日本にいるらしいぜ。しかもこれから群馬に行くんだとさ」
「……ウス」
「お前も、会いたいか?」
――会いたいよな。
跡部は樺地の返事を待たず、そう呟いた。