瞬きをする間に 4




ターミナル駅に隣接した大型書店。
日吉は目当ての本を買った後、雑誌の売り場を一通り歩き回っていた。そしてふと、平積みされている旅行のガイドブックに足を止める。アメリカの西海岸の本。彼女がロサンゼルスに行くのだと送別会で話していたのを思い出しながら。

自分が一年の時に生徒会の副会長になった彼女は、よくテニスコートの周りを走り回っていた。
「先輩は副会長じゃなくてテニス部のマネージャーになったんですか?」
皮肉を込めて一度そう聞いたら、満面の笑みを浮かべた彼女に「うるさい」と言われて蹴りを入れられたことがある。
黙っていると普通のお嬢様に見えるのに、時たまそんなふうに乱暴になる。そのくせ部員のちょっとした変化に敏感に気づいたりして、さりげなく声を掛けたりするのだからタチが悪い。先に鳳がレギュラーになって密かに焦っていた時や、自分のテニスが思うように行かなくて苛々していた時、不覚にも彼女の一言に励まされてしまっていた。
彼女が秋からいなくなってしまうと知った時、何かをどうにかしたくて焦った。けれど何をどうしたいのか分からなくて――更に焦った。ジリジリと胸の辺りが灼け付くだけで何も出来ず、送別会では憎まれ口を叩くだけだった。
「来年は誰かさんみたいに乱暴じゃなくて、もっと女らしいマネージャーでも入れますよ」
あんなことを言いたかった訳じゃないのに。本当は、いつでも戻って来て欲しいと伝えたかったはずなのに。

「直行便で約十時間――馬鹿みたいに遠いな」
ガイドブックをパラパラと捲り、思わずぼそりと呟く。その日吉の耳元に微かな笑いを含んだ低い声。
「西海岸なだけマシやで?」
「――っ!」
その妙に色っぽい声とわざとらしく掛かった息に、思わず肩をビクリと大きく揺らす日吉。手から落としかけた本はすかさず背後から忍足がキャッチした。そして元あった場所へと戻しながら眼鏡を上げ、ニヤリと笑う。よりによって一番見られたくない人物に見られてしまった。日吉は一気に熱くなった顔を隠すように俯く。
「ワシントンとかやと十二時間かかるからなぁ」
「何で忍足さんがこんな所に……っ!」
「俺だけやないで」
肩を竦めて「ほれ」と後ろの方を指差す忍足につられて振り返ると、レギュラーのほぼ全員がこちらに歩いて来るのが見えた。
「何なんですか一体。まさか向日さんの宿題の手伝いに皆駆り出されたんですか?」
「ああ、いい線行ってるわ日吉、さすがやなぁ。でもハズレや」
そう言って、隣りの棚にあった国内旅行のガイドブックを手に取る忍足。その表紙を覗き込むと「群馬」の文字。日吉は訝しげな表情で、そのガイドブックを捲る忍足を見る。
「なあ、日吉は渋川とか伊香保って行ったことある?」
「は?あの、群馬の温泉街ですか?」
「そうそう、よう知っとるなぁ。そこってどう行ったらいいか分かるか?」
「上越新幹線とかじゃないですか?……まさか皆揃ってこれから温泉でも行こうって言うんですか?」
「ああ、それもいい線行ってるわ。でもちょいハズレ」
楽しそうに笑う忍足に、訳が分からないといった様子で眉間に皺を寄せる日吉。ぞろぞろとこちらに近づいて来るメンバーをもう一度振り返り――幽霊でも見たかのように目を見開いて固まった。
「忍足くん分かった〜?……って、あれ?日吉くん!?」
鳳の影からヒョコリと顔を覗かせたのは成田からの直行便で十時間かかる場所へ行ってしまったはずの彼女。一体何がどうなっているのか分からず、挨拶も忘れてじっと見る。そんな日吉の様子を見て、忍足は一層楽しそうに笑った。
「そやろなぁ。まさかまだ日本におるとは思わんよなぁ」
「ちょっとー、皆そんなに私にさっさと行って欲しかったの?」
「んなわけあらへんやろ?まだおるんやったら連絡せぇっちゅーことや」
頬を膨らますの頭を、忍足がコツンと叩く。彼女にそう言うことが自然に出来るのは、日吉が知っている中ではこの忍足と跡部だけだ。意識することなく触れることの出来る立場、その時に見せる二人の優しい柔らかい表情。見たくない――と目を逸らそうとするのに、何故か逸らすことが出来なくて、いつもジリジリとした感覚を持て余していた。もうその感覚に悩まされることはないのかと思っていた矢先のことに、日吉は複雑な気分だ。それを誤魔化すために大きなため息をつく。
「――で、さんを囲んで温泉旅行ですか?」
「だから、それはハ、ズ、レ、や」
「温泉じゃなくて、こいつのアニキに会いに行くんだよ」
「……アニキ?」
宍戸の口から出て来た単語に、戸惑いの表情。別に、彼女の兄が群馬に住んでいたとしてもそれ程不思議なことではない。けれど、何故こんな面子で会いに行こうと言うのだろう?眉根を寄せる日吉を見て、今回は自分が説明しようと鳳が口を開いた。
さんのお兄さんが、群馬にいるらしいんだ。さん自身も知ったのはついこの間らしいんだけど」
「生き別れの兄……とか?」
「発想が岳人と一緒やな」
「うるせーよ、侑士!そう考えるのが普通なんだよ!」
「あ、別に生き別れって訳じゃないんだけどね。お母さんが最初に結婚した人との間に出来た子供なんだって。だから――異父兄妹って言うのかな?」
「それで、アメリカに行ってしまう前に一度会ってみたいって話で」
そうですよね?と振り返る鳳に、は小さく頷く。
「会ってどうするんだろう?とか考えると、別に何もなくってさ、迷ってたんだけど……。何だか向日くんたちに会ったら、とにかく会ってみようって気になっちゃったんだ」
そう話す彼女の笑顔は、どことなく今まで見たことのあるものと少しだけ違う気がする。一度も会ったことのない兄のもとへ行こうという不安。その更に奥底の方に窺える、これから知らない場所へ旅立つことへの不安。日吉は目を細めて彼女を見る。
「こんなトコにおるってことは日吉も暇なんやろ?」
「……あなたたちと一緒にしないで下さい」
「忙しいヤツが心霊写真集とか買わねーだろ」
「向日さんっ、勝手に人の買った物を見ないで下さい!」
いつの間にか向日の手に渡っていた袋を奪い返す日吉の耳元に、再び唇を寄せる忍足。
「ええんか?こんなトコで意地張っとったら、後で死ぬほど後悔するんやないか?」
明らかに笑みを含んだ声。しかしそれに反論できず、日吉はただ顔を赤くして俯くしかない。そんな彼に、満足そうにポンポンと肩を叩く忍足に向かって、最後の抵抗とばかりに小さく呟いた。
「――いつか見てて下さいよ」
いや、最後の悪あがきか。忍足はクク……と楽しそうに笑い、皆の方を振り返った。
「日吉も行きたいらしいわ」
「最初っからそう言えよなー!」
――ホントに、いつか見てろ。
日吉はもう一度同じ台詞を心の中で呟いた。