瞬きをする間に 10




「もう行っちゃったかな〜」
「この辺の上空飛んだりしねぇの?」
「ジロー、岳人……いい加減宿題に戻らんと、終わらへんで」
「ほっとけ。困んのはこいつらだ」
中庭に出るガラスの扉越しに空を覗き込む芥川と向日。そんな彼らに困り果てた顔をする忍足に向かって、広間の中央にあるソファに寝そべるように座っていた跡部が、手元の本からは目を離さないまま、冷やかな声で言った。
「跡部、冷たい〜」
「んなこと言ってる暇があったら、さっさと頭と手を動かせ」
口を尖らせる芥川にもピシャリと一言。お前はあいつのことが気にならないのかよ、と向日は言いかけたけど、そんなことあるはずがない。黙って目の前の問題集に向き直る。
「予定通りに行けば、もう離陸してますね」
外のテニスコートから戻った鳳と宍戸が、タオルで汗を拭いながら皆のいる部屋に入って来た。樺地と日吉はまだ中庭で犬と遊んでいるのだろう、犬の吠える声が聞こえる。

昨日、帰りの車の中で、今日の昼過ぎの飛行機で発つのだと彼女がうっかり白状した。尤も、跡部は昨日彼女の母親に連絡を取った時に、既に聞いていたのだが。泣き顔で飛行機乗るのは嫌だから、絶対見送りに来ないで!という彼女の訴えに、全員が何か言いたげに口を開いたが、その気持ちは分からないでもない。見送りには行かないことに決めた。とは言え、昨日皆と別れる時に大泣きしていたのだから、今さらという感じではあるが。見送りに来るくらいなら、ちゃんと宿題を終わらせろという彼女の言葉に、向日と芥川は朝から滝と忍足を呼び出した。けれど向かった先は図書館ではなくて、跡部の家。
「跡部の家だとジュース飲みながら出来るし〜」
芥川の台詞に口元を引き攣らせながらも、跡部は黙って彼らを家に入れた。その後暫くすると、近所のテニスコートが埋まっていたから、跡部の家にあるコートを使わせてくれと、宍戸と鳳が揃って現れた。今までそんな頼み事などして来たこともないのにと冷ややかに二人を見たが、好きなだけ使えと、家の者にコートへ案内させた。そして、一番白々しい言い訳をして現れたのは、意外にも日吉だった。
「ちょっと通りかかったんで」
どう考えても、日吉が跡部の屋敷周辺に用事など、あるはずもない。けれど跡部は何も聞かず部屋に招き入れた。樺地がこの家にいるのは、いつものことだ。

「でもよー、どうする?実はまだその辺にいたりしてさ。携帯繋がるんじゃん?」
「案外、新学期始まって学校に行ったら、普通にいたりしてね」
「ハハ、ありそうだよな!」
向日と滝の会話に、部屋にいた皆が笑う。けれど、実際には誰も彼女の携帯に掛けてみようとしなかった。もし掛けて、機械的な女性の声のアナウンスが聞こえてきたら――そう思うと、冗談でも掛ける気がしない。
「あいつってさ、案外面倒くさがりなんだよな。メールとか送ってもちゃんと返信して来んのって半分くらいだぜ?アメリカとか行っちまったら、更に不精になっちまうんじゃねーの」
「ふぅん。宍戸、自分そんなにあいつとメールしとったんか。意外やな」
「べ、別に普通だろ!お前らだってやってたじゃねーか」
「そうですけど……どちらかと言うと、宍戸さんの方が不精っぽいですよね」
「鳳、てめぇっ」
「すっ、すみません!」
、元気かな〜」
「……ジロー、つい昨日会ったばっかりやないか。元気やなかったら困るわ。第一、飛行機にもまだ乗ったばっかりでエコノミー症候群にもなれへんわ」
「あいつはエコノミーには乗らねーだろ」
「……突っ込むトコがおかしいで、跡部」
無駄話ばかりで、芥川達の宿題が一向に捗る様子がない。跡部はやれやれとため息をつき頬杖を突く。
「――成績上位で高等部に上がることが決まった奴は、冬休みにでもあいつの所に連れてってやるよ」
「えっ、マジで!?」
「成績上位ってどれ位?」
「そりゃ、十位以内だろ」
「ありえねぇ……」
「無理に決まってんじゃねーか!そんなの!」
一瞬喜ばせておいて突き落とす。「鬼!」と叫ぶ向日達。でも本当は、どうせ上位じゃなくても、進級さえ決まれば連れて行く気なのだろう。忍足がニヤニヤと笑って見ると、跡部は「何だ」とジロリと睨んだ。それも照れ隠しだろう、更に笑みを深くする忍足。
「――それじゃあ、二年の俺達はどうしたらいいんですか?」
犬と遊んでいたのか遊ばれていたのか、所々服に泥を付けて汗だくになった日吉と樺地が戻ってきた。
「そうだな――秋の新人戦次第ってところか」
「つまり、俺達の運命は他のテニス部員に託されてる訳ですね……」
遠い目をする鳳に、日吉は鼻で笑う。
「そんなの、余裕ですよ」
「ウス」
「ほー、そら頼もしいな。新部長のお手並み拝見や」
忍足の意地悪い笑みに挑発されることなく「任せておいてください」と返す日吉。そんな彼の様子に、跡部は僅かに目を細めた。
「よーし!じゃあ、日吉達は新人戦で全国大会優勝、俺達は百位以内で高等部進学目指すか!」
「――ちょっと、向日さん。俺達の目標はともかく、あなた達の目標が随分引き下げられてませんか」
「固いこと言うなって!」
「……とにかく、自分はまずその目の前の宿題やな」
パコンと相棒の頭を参考書で殴る忍足。お前はいっつも上位だからいいよな、とブチブチ続く文句は聞こえないふり。
「早く冬休み来ないかな〜」
「ジロー、まだ夏休みも終わってないよ」
「だから、まずそれより宿題が先やて言うてるやろ」
「宿題やってなくても進級できっかな」
「……そこのソファに座ってる男が黙ってへんで」
「冬休みか。まだまだ先だな」
「そうですね……」
「二学期が一番長いですからね」
「……ウス」
運ばれて来たジュースを手に取り、思い思いの言葉を口にする。跡部も開いていた本を閉じ、差し出されたグラスを取った。
「あっという間だろ、冬なんて」
中庭に目を遣れば、青々とした芝生にスプリンクラーの水飛沫が掛かり、強い日差しにきらきらと輝いている。寒さに手を擦る季節など想像が付かない。
でも、すぐに冬などやって来る。
「――せやな。あっと言う間や」
忍足もそう言って笑う。
待っていろ。すぐに、会いに行くから。
ガラス越しに見える深い青の空に目を細め、跡部は心の中で呟いた。






おまえを思う季節は、瞬きをする間に過ぎる