瞬きをする間に 2




「もうアメリカに発っちゃいましたよね」
「そうだな……さすがにもう行っちまったよな」

鳳が青い青い空を見上げる。寂しそうに笑う彼の横顔に、宍戸は俯いて意味もなく帽子を被り直した。

生徒会の副会長なのに、テニス部で跡部にこき使われていた彼女。
「鬼!」とか「悪魔!」とか彼によく抗議していたが、何だかんだ言っていつも一生懸命に仕事をこなしていた。そして、あれだけ大勢いる部員の調子にも敏感でよく気が付いた。彼女のちょっとした一言に慰められたり奮い立たされたり。彼女に仄かな好意を抱いていた後輩は、何も鳳だけではない。

彼女が家族の都合で秋からアメリカに行ってしまう。その話が部員たちの間に知れ渡るとちょっとした騒ぎになった。全国大会が終わって三年の跡部が引退になれば、もちろんテニス部に顔を出すことは少なくなるだろう。それは分かっていたけれど、この学園からいなくなることなど想像もしていなかったし、きっと高校もこのまま上に上がって一緒に過ごせるだろうと、皆一様に漠然とそう思っていた。
実は今年の春には話を聞いていたという跡部をなじる者もいた。その行為自体に意味がないことは恐らく本人たちにも分かっていたのだろうが、そうでもしないと自分の感情をどこにぶつけてよいか分からなかったのだろう。

「ウダウダ言ってねーで気持ちよく送り出してやれねぇのかよ」
なかなか収束しない騒ぎに痺れを切らしてそう言ったのは宍戸。敢えて跡部が彼らに向かって言わなかった台詞。恐らく校内で一番彼女に近い場所にいて、ずっと前から一人だけ彼女がいなくなることを知っていた彼が、実は一番つらかっただろう。もちろん本人がそんなことを言うはずもないが、少なくともレギュラーのメンバーたちは皆そんなふうに思っていた。
「全国大会、行こうぜ」
それは毎年のテニス部の目標――と言うよりは使命に近いものだったが、彼女の話を聞いて皆がその思いをより一層強くした。
その全国大会も終わり、先週には大きなレストランを貸し切っての送別会も終わり、きっともう既に日本を発ってしまっているだろう。見送りに来られたら嫌だからと言って出発する日は誰にも告げていないので実際にはいつ出発したのかは誰も知らない。
きっと自分が見送りに行ったら涙が止まらなかったかもしれない。そう自覚している鳳だが、やはり知らぬ間にいなくなられるのは寂しい。流れる雲を見上げて思わずため息を漏らす。
「――ため息なんてついてる暇ないぜ!お前たちには来年全国制覇狙ってもらわなきゃなんねーんだからな!」
「わ、分かってますっ」
「よし、じゃあ行くぞ!」
「はいっ!」
少し目を潤ませながらも鳳は元気よく返事をし、歩くペースを上げる宍戸を追った。今日は部活の練習の方がオフなので、近くのテニスコートで、二人で練習をする予定なのだ。
駅前の通りを抜けて少し細い脇道に入る。と、前の方から歩いて来る人物に、二人は思わず我が目を疑った。
「あれぇ?宍戸と鳳だ」
「何だよお前ら、また秘密の特訓か?」
声をかけて来る芥川と向日の後ろで滝と話をしているのは、ついさっきまで空を見上げながら二人が思っていた人物。
「さ、!?」
「あ、宍戸くんと鳳くんだ。これから練習?毎日偉いね〜」
「お前、まだ日本にいたのかよ!」
「……なんか、いちゃ悪いみたいな言い方だね」
「そうじゃねーよ!むしろ逆っつーか、いや……そのっ……」
思わず出てしまった自分の本音に、宍戸は顔を赤らめて口籠る。しかしその隣りで思いがけない偶然に口をパクパクさせていた鳳の顔の方が断然赤い。
「あ、さん!」
そして彼女の名前を叫ぶと目に少しだけ涙を浮かべた。そんな後輩に宍戸は慌てるが、彼女の方は少しだけ困ったような微笑を浮かべて「よしよし」といった感じで彼の頭を撫でる。身長の差から、目一杯背伸びをする様子は、かなりつらそうではあるが。
「でもお前ら何してんだ?四人も揃って」
「向日とジローの宿題を片付けようって、図書館に行く予定だったんだけど――」
そこまで滝が言うと、宍戸は思い切り呆れた顔をしてその二人を見た。
「それで、引越し直前のにまで手伝わせようってのか?」
「違うよ!とはさっきたまたま会ったんだって!で、予定変更で、これから皆で群馬行くことになったんだよ!」
「群馬?」
予想だにしない地名が出てきて宍戸と鳳の声が重なる。ほんの少し前に同じような声を上げた向日は「そりゃそうだよな」とばかりに苦笑いを浮かべた。言っていいものか迷った滝がの方を見ると、彼女は笑って頷き自ら口を開く。
「あのね……私の兄に会いに行こうって話になったの」
「お前のアニキ?群馬にいんのか?」
「うん。そのはず」
彼女のそのハッキリしない表現に訝しげな表情をする宍戸。彼女はさっき三人にした説明を、前の二人に始めた。

「――お兄さんって、いくつくらい上なんですか?」
「四つだって。今年の春から社会人になってるんじゃないかなぁって言ってた」
のアニキかぁ……なんか、想像つくようなつかねぇような……」
「赤ちゃんの頃の写真では結構似てたよ」
「そんなの、皆猿みてーなもんじゃん!」
向日の突っ込みも、ある種尤もではあるが何となく納得いかずに彼女は小さく睨む。しかし睨まれた本人は「だってそうだろ〜」なんて顔をして、気にする様子もない。
「群馬ってどうやって行くんだ?」
「上野から高崎線に乗るのが一番手っ取り早いんじゃないかな」
「よく知ってるよね〜、滝って」
「新潟の方に親戚がいるから、その辺って結構通るんだよ」
「そうなんだ」
なるほどと滝の話に納得する彼女の傍で、顔を見合わせる宍戸と鳳。鳳の方は最初からその気持ちは決まっていて、宍戸も、電車賃などに多少不安はあったが、やはり気持ちは同じだった。力強く頷く後輩と、それに苦笑いを浮かべつつも同じように頷く先輩。そこにタイミングよくかけられる芥川の声。
「ねーねー、宍戸たちも行く?」
「……そうだな、行くか」
「はいっ!」
もう一度、拳を握りながら大きく頷く鳳。
「本当に?」
と彼女は驚いた顔をしながらも、嬉しそうで
「そう言うと思ったよ」
「ホント、俺たちって暇だよな〜」
呆れたように言う滝と向日も、楽しそうに笑った。