discord 1




「姉さん、俺、外に出てるよ」「周助ちょっと待って。あとちょっとだから」

そう言いながらも慌てた様子なく、姉は店内をのんびりと眺めている。
どうせいつものことだ。
不二は気にせず、一人店の外へと出た。
夏休みも終わりかけた頃、不二とその家族は軽井沢の別荘に来ていた。
家族、と言ってもそこには弟の裕太は含まれず、彼は部活の練習がどうしても休めないからと言って、今度の週末だけ合流する予定だった。
本当は部活を休めないこともなかったのだが、やはり兄とずっと一緒というのはまだ抵抗があり、本当は週末も来たくなかったが、そこは何とか譲歩した形だ。
そんな弟の心、兄知らず。
不二は弟が一緒じゃなくて退屈し、つい、姉の買い物に付き合ってしまった。
しかし朝の化粧と同じく、その買い物もやたらと長い。
最初こそ不二も興味深げに店内の雑貨を眺めていたが、毎年来ている場所なので限界がある。じきに飽きてしまった。
それでも暫くは根気強く姉の隣りで話を合わせていたが、やはりそれも約一時間で限界。
そして冒頭の台詞。

店の外に出てすぐのところに、不二は小さなオープンカフェがあるのを見つけた。
しかし、終わりかけとは言え夏休み真っ最中の避暑地。
人が多くて落ち着ける雰囲気ではない。
それ以前に、空いているテーブルはあるだろうか。
そんなことを思いながら、不二がテラス席の奥の方に目をやると――見たことのある女の子の姿があった。
誰であるのかは、すぐに思い出した。
しかし名前が分からない。
一体彼らは何と呼んでいただろうか。
そのテーブルへと向かいかけて、足が止まる。

彼女は一人でそこに座っており、厚めのハードカバーの本を読んでいた。
どこかの書店名の書かれた素っ気ないブックカバーに覆われた本。
テーブルの上には白いティーカップとティーポット。
本から目を離さないまま、ティーカップを口に運び、一口飲んでゆっくりとソーサーの上に戻す。
何て事はない動作のはずなのに、思わず目が離せなくなる。
その賑やかな店の中では、彼女の周りだけ空気が違うように見えた。

一体どれだけじっと見てしまっていたのか、時間の感覚が奪われてしまった不二にはよく分からない。
彼女は誰かの視線に気付いたのか、本から顔を上げた。
そしてカップを再び口元に運んだ後、ゆっくりと、顔を不二の方へと向ける。
最初のうちは、彼が視線の主だったのかも分からず、また、彼が誰であったかも思い出せない様子で、ぼんやりと見つめていた。
不二も、逸らすことなく彼女の方を見つめた。
カップを置いて、小さく首を傾げる彼女。

どこかで見たことがある。

そう思って、記憶を辿っているのかもしれない。
不二が彼女のもとへ歩き出す。
その時、彼女の目がクルリと見開き、今度はぼんやりとではなくて、しっかりと、自分の方へと近づいて来る不二を見つめた。

「不二、くん」

テーブルの前まで来た彼を見上げてびっくりした様子。
不二だって同じだ。
が、自分の名前を呼ばれたことの方が意外で、そして嬉しかった。
ふいと口元を綻ばせる。

「名前、知っててくれたんだね」
「不二くんは有名だから」
「君は氷帝のマネージャーさん、だよね?」
「私のこと、知っててくれたんだ」

彼女も不二と同様に口元に笑みを浮かべて、目を少しだけ細めた。つられるように、不二も再び微笑う。

「君は、いろいろと印象深かったから」
「そう?あの人たちの中では私はすごく地味な方だと思うけど」

そう言って笑いながら、彼女は向かいの椅子に置いてあった自分の荷物をどける。
これは座っていいと言うことだろうか。
不二はその椅子を引いて腰掛けた。
彼女の言う「あの人たち」と言うのは、おそらく氷帝のレギュラー部員のことだろう。
確かに彼らに比べたら殆どの人間が地味な方に分類されてしまうかもしれない。
また彼女は特に目立った容姿をしているわけではないし、何人かいるマネージャーの中で、特別扱いを受けている、と言うふうでもなかった。
けれど、不二は一年の頃から彼女を認識していたように思う。
「思う」と言うのは、それが何となく漠然とした記憶でしかなくて、ただ、頭の片隅に残っている様な、曖昧な感覚だったからだ。
店員が水の入ったグラスとメニューを持って来る。

「君は何を飲んでいるの?」
「私?アールグレイだよ」
「じゃあ、僕もアールグレイを」

店員が下がると、今度は彼女の手に持っていた本を覗き込むように、少し前に身を乗り出す。

「何を読んでいるの?」
「ああ、うん――」

ちょっと恥ずかしそうな笑みを浮かべて、不二の前にその本を差し出す彼女。
毎年ここに来た時は、その年の話題作を一冊読むことにしているのだと言いながら。
なるほど、そのタイトルは不二もテレビの情報番組か何かで見たことがある。
海外のミステリ小説で、世界で何百万部売れているとか何とか。

「すごく集中して読んでたね」
「うん、最初は分厚くってどうなることかって思ってたんだけど、結構ハマっちゃって」
「邪魔しちゃったかな」
「ううん、全然そんなことないよ。元々はただの退屈しのぎだから」

彼女も不二と同じく、毎年この近くの別荘に来ているらしい。
もっぱらのんびりすることが目的のため、家族は別荘の中で本を読んだり、時たま散歩をしたりする程度で、殆ど出歩かないのだとか。

「そう言うの、私も嫌いじゃないんだけど、やっぱり後半になると飽きて来ちゃって。だからこうやって昼間は一人で色々なお店に行ってるの」
「じゃあ、今日ここにいたのは、たまたま?」
「うん、たまたま。通りかかったら、ちょうどこの席が空いていたから。ここなら落ち着いて本読めるかなと思って」
「ここで会えのは、すごい偶然なんだね」
「すっごい偶然だよ!こんな東京から何百キロも離れた所で知ってる人に会うなんて。私、初めてだよ」

彼女はそう言いながら明るい笑顔を不二に向ける。
この笑顔が、自分に対して向けられると言うのは、何だか不思議な感じで照れくさくて、くすぐったい。
不二はその感覚をごまかすように、運ばれて来た紅茶をポットからカップに注ぐことに専念する振りをした。

「不二くんに会ったって言ったら、ジローくんはすごく羨ましがるだろうな」
「ジロー?ああ……芥川くんのことだね」
「関東大会以来、不二くんに心酔してるから」

写メ送って自慢しちゃおうかな。不二くん、一緒に撮っていい?
そう言って、彼女は鞄から携帯を取り出す。
不二は頷く代わりに、それを上に掲げる彼女の方へと体を寄せた。

「きっとビックリするよ」

くすくすと笑う彼女につられるように、不二も少しだけ笑う。
ほんの少しだけ、彼女の肩と不二の肩が触れる。
けれどそんなことに緊張する暇もなく、カシャリと機械音がしたと思うと、彼女は大して写真写りをチェックすることなく、手早くキーを打ってメールを送信した。
そして携帯をパタリと閉じながら、また不二に笑顔を向ける。
その人懐こいとも言える笑みは、今までの彼女の印象と何となく重なりづらく、不二は僅かな戸惑いを感じつつ、カップを手に取った。
いや、彼女の笑う姿は、今までに何度か目にしたことはあるはずで、氷帝の部員と楽しそうに話をしている場面だって見たことがない訳じゃない――はずだ。
しかしどちらかと言えば、人懐こいと言うより、少し、近寄り難いと言う印象が先に立ってしまっていた。
その原因は、不二にも分かっている。
恐らく、最後に見た彼女の姿が、そう言う印象を植え付けたのだろう。
あの、全国大会準々決勝の時の姿が。

「あれ?」

彼女が不二の背後の方に目をやり、一瞬不思議そうな表情をする。
何だろうかと首を傾げつつ、不二が後ろを振り返ると、そこにはニヤニヤとした笑みを浮かべる姉の姿があった。

「姉さん、買い物は終わったの?」

椅子から立ち上がろうとする不二に、姉は慌てて「ああ、いいのよ!」と制す。
何か言いたげな笑みを隠すように口元に手をやるが、その何ともいやらしい感じの表情は完全に隠しきれていない。
姉の考えていることなど、大方想像がつく。
不二は小さくため息をつくが、敢えて姉の反応には気付かないふり。

「僕の姉なんだ」
「うん、すごく不二くんに似てる!お店から出て来るのを見て、もしかしてそうかなって思ったの」

彼女が席を立ち、姉にぺこりと頭を下げる。

「初めまして。です」

その時、不二も初めて彼女の名前を知った。
妙なタイミングに、不二は思わず苦笑い。

「姉さん、あんなに長い間お店の中にいたのに、結局何も買わなかったの?」

自己紹介を済ませて、に興味津々な視線を向ける姉に向かい、不二はわざとらしく大きなため息をついて見せる不二。
自分の姉が、他人に向かって何かを根掘り葉掘り聞くようなタイプではないと言うことは分かってはいたが、彼女に向かって余計なことを言って欲しくなくて、つい、予防線を張ってしまう。
それを知ってか知らずか、姉の方も大げさに肩を竦めた。

「いいのよ、他のお店も見て来るから」
「まだどこかに行くの?」
「あら。私一人で行って来るわよ。周助はゆっくりしてらっしゃい」

そしてまたニヤリと意味深な笑みが口元に。
何かを勘違いしているんだろう。
いや、それは本当に「勘違い」なのか。
不二はよく分からないまま、形だけ、姉を追うように椅子から立ち上がった。
が、このままここから去るつもりなど更々なく、姉の「いいから!」と制す声にあっさりと引き下がる。

「いいの?」
「大丈夫だよ、姉さんだって子供じゃないんだしね」

それとも、やっぱり邪魔かな。行った方がよかった?
そんな気などないままそう問えば、のぷるぷると大きく首を横に振る様子に、微かな安堵。
二人で、店を後にする姉の後ろ姿を見送っていると、テーブルの上に置いたままだったの携帯が短く震えた。
メールだったようで、携帯を手に取り、それを開くと、は可笑しそうに笑った。
そしてそのディスプレイを不二の方へと向ける。
見ていいと言うことなのだろう、不二がそれを覗き込むと、絵文字がたくさん散りばめられた、でもすごく単純な内容。
え?何で?なになに?何でが不二くんといるの?
そんな感じだ。
それを見て、思わず不二も笑ってしまう。

「もう、メールでもね、こんな感じ」
「仲が良いんだね」
「ジローくんとは去年クラスも一緒だったから、テニス部の中でも比較的話はする方なの」
「氷帝は皆仲が良さそうなイメージがあるな」
「そう?まあ……殺伐とはしていないと思うけど、普通だよ。何せ部員が200人以上もいるから、殆ど話したことのない子もいたりするの」

マネージャーとしてはあまり感心した話じゃないんだけど。そう言って苦笑しながら再び携帯を操作する。
スコア表らしきものにデータを書き込む手。
試合を終えた選手にタオルを渡す手。
この手を、何度も見たことがある――と、ぼんやりと不二は思い、頬杖をつく。
そう言えば、跡部にタオルを手渡しているところは見たことがないな。
ふとそんなことを思った。
別に不二だって、彼女が誰に何を手渡しているかなんて、把握しているはずもない。
が、何故か不意にそう思った。
タオルに限らず、試合会場で見る彼女はいつも跡部とは離れた場所にいたような気がする。
恐らく、会話をしているのを見たのはこの三年間でほんの数回。数分のこと。
それなのに、彼女が一番レギュラー部員と――跡部と一番近い位置にいたマネージャーに見えた。
何故なんだろう。

「どうかした?」
「ああ……ううん、何でもないよ」

黙ったまま自分をじっと見ていた不二を不思議に思った彼女が、携帯をテーブルの上に置いて首を少し傾げる。
不二は誤摩化すように笑い、ポケットから携帯を取り出した。

「ねえ、僕も写真撮っていいかな」
「え?」
「僕も君との写メ、誰かに自慢したいと思って」
「撮るのはもちろん構わないけど、私との写メなんて自慢にはならないと思うよ」

おかしなことを言うね、と彼女はくすくす笑いながら不二の方に少しだけ体を傾けて来る。
そして、不二が上に掲げた携帯の方に顔を上げた。
すぐ傍にある彼女の横顔。
ずっと遠くから何となく見たことのあるそれが、一つ一つのパーツを細かく確認出来る位の距離にある。
耳朶、睫毛、鼻筋、唇。
不二は一瞬、渇きのようなものを覚えて、携帯を持つ手が微かに震えた。

「不二くん?」

彼女の顔が自分の正面に向けられる。
その渇きが更に強まったように思えたが、それを無理やり抑え込み、微笑った。

「じゃあ、撮るよ?」
「うん」

にこりと笑う彼女の椅子の背凭れに手を回す。
さっき彼女の携帯で撮った時よりも彼女の方に肩を寄せて――触れた。