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両親の影響で、は小さい頃からテニスが好きだった。
氷帝の幼稚舎から中等部に上がり、女子テニス部にプレイヤーとして入るか、マネージャーとして入るか迷った。
男子テニス部に入る選択肢は最初彼女の中にはなかった。
しかし、あの入学間もない日に見た跡部のテニスに、いつの間にか彼女の中にそれしか選択肢がなくなっていた。

派手なパフォーマンス。
不遜な態度。
今まで見たことのないようなそれらに最初は戸惑わないことはなかったけれど、そう言った目立つ所ではなくもっと細々とした部分で、彼女は一番跡部の「意図を汲む」ことが出来た。
跡部も、ちょっとしたことで、何となく、彼女の意図を理解した態度や行動を取る。
以心伝心と言う程でもない。
常にツーカーと言う程、至近距離にいる訳でもない。
非常に漠然と、通じ合うものがあったのだ。
そしてそれは、部活の部長とマネージャーと言う関係の中では何かと都合のいいものではあった。
楽な関係――とも言えた。

これは、恋じゃない。

いつからだったか、たまにはそう思うことがあった。
別に跡部が他の女子生徒と親しげに話をしていても、特にやきもきすることはない。
部活でも、よりも他のマネージャーの方が跡部と実際に接する回数は多かったし、から必要以上に積極的に話しかけに行くこともなかった。
跡部が隣りに立っても、それはもう日常で、どきどきすることもない。

これは――恋じゃない。

不二周助のことは、一年の頃から知っていた。
ただしそれは本当に「知っていた」だけで、他の青学のレギュラー部員に対する認識と殆ど大差ないレベルだった。
関東大会で芥川と試合をしてからは彼が「不二くん」「不二くん」とよく話すので、他よりはその顔を思い出す回数が増えただろうか。
しかし、あの軽井沢で会うまでは、やはり他校の選手の一人にしか過ぎなかったのは確かだ。

あのカフェで会った時、最初は単純に驚いた。
東京から遠く離れた場所で知っている人に会ったこと、その相手がまさか自分のことを知っているとは思わなくて驚いて、嬉しかった。
そのどこか浮ついたテンションのまま会話をして、暫くして落ち着いて、でもやはり楽しいままの自分に気が付いた。
約束をせずに別れて、自分から連絡してもいいものかどうか、ひっそりと悩んだ。

これは、恋だろうか。

他愛ない話をしている時、びっくりする程に楽しいと思っている自分。
その笑顔を、ほんの少しでも長く見ていたいと思う。
その気持ちに、偽りはない。
でも、きっとこれは、自業自得なのだ、と思う。

は雑誌を棚に戻しコンビニを出た。
病院に担ぎ込まれることはなかったが、昨日はふらふらで家に帰り、今日は大事をとって学校を休んでしまった。
まったく何をしているの、と言う母親の視線に堪え兼ねて、だいぶ回復した彼女は逃げ出すように夕方に家を出てコンビニへ。
しかし特に何か買いたいものがあった訳でもなく、ぶらぶらと店内を一周し、さして興味もない雑誌を開いては閉じる。

もう学校は終わった頃だな、と時計に視線を落としながら、家の前の細い道を曲がる。
そして視線を上げると、こちらへ向かって歩いて来る不二の姿を見つけて――足を止めた。

「今君の家に行ったら近所に買い物に行ったって聞いて――よかった、すれ違いにならなくて」

そう言いながら彼女の方へと歩いて来る不二の笑みはどことなく躊躇いを含んでいた。
の方も、一体どんな表情をしたらいいのか分からなくて、立ちすくむだけ。
もしかしたらもう二度と会えないのではないかとさえ思っていたのだから。

「周助、くん」

名前を呼ぶと、喉がひり付く。
不二がすぐ目の前まで近付いて来る。
それまで全く動くことを忘れていた体が急に目を覚ましたように、その場から逃げ出たい衝動に駆られ、は踵を返す。
が、それより早く不二が彼女の腕を掴んだ。

「逃げないで!……って、逃げてばかりいた僕が言う台詞じゃないかもしれないけど」

どうしても謝りたかったのだと言う不二。
彼女のことは離さないまま。

「――

躊躇いながらもゆっくりとその名前を呼ぶ。
その声を聞いただけで、はぎゅっと胸が苦しくなって、俯いた。

、ごめん」
「……謝らないで」
「昨日、待っててくれたんでしょう?」
「待ってない、よ。だって、やめにしようって、メールくれたじゃない」
「でも、待っててくれたんでしょう?」

彼女は首を小さく横に振るけれど、不二は信じていなかった。
もしそうでなければ、跡部がわざわざ自分の所に来るなんてことをしないはずだと思ったからだ。

「ごめん――不安で、しょうがなかったんだ」
「……謝らないで」
「君のことが好きで好きで――だから、不安でしょうがなかったんだ」

俯いていた彼女の顔が上を向く。
どこか驚いたような、戸惑ったような、大きな瞳。
そう言えば、はっきりと口に出して好きだと伝えたことはなかったかもしれない。
今さら、不二はそんなことを思い自分に驚く。
そして深く息を吸い込み、もう一度伝えた。
が好きなんだ」と。

ほんの少し、不二が彼女を捉まえていた手の力を緩める。
するとそれに呼応するかのように彼女の涙腺が緩んだのか、彼女の目が僅かに潤んだ。
が、何とか涙を零すまいと唇を噛み締める。
その様子がたまらなく愛おしく見えて、不二の口元が思わず綻んだ。

「私が一緒にいたいと思うのは、周助くんなの」
「うん」
「並んで歩きたいと思うのは、周助くんなの」
「――うん」

の指が不二のそれに絡められる。
の前には、いつも跡部の姿があった。
離れて前を歩く跡部。
時折後ろを振り返ることもある。
彼女が前を歩く跡部を見ることもある。
けれど、並ぶことはない。

僕は、と並んで歩きたい。
不二も、絡められた彼女の指を、きゅっと握り返した。


「あ、ー、これからお好み焼き食いに行くって言ってんだけど、お前も来る?」


放課後、廊下の前を歩いていたに気付いた向日が叫んで呼び止める。
が、振り返った彼女は、勢い良く両手で大きなバツを作った。

「今日は英会話スクールある日だよ」
「ええ?ああ、そうだっけ?まだ続いてんだ」
「失礼ね、向日じゃないんだから」

口を尖らす彼女の表情には、先週見たような翳りはなかった。
向日の隣りにいた忍足は目を細めつつ、やはり意地悪を言うことを止められない。

「そんな急いで行かんでもええやん。レッスンは五時からやろ?」
「その前に……用事があるから早く行かなきゃなの!じゃあね」

ぱたぱたと手を振って、半ば逃げるように走り去って行く彼女の後ろ姿。
「なーんだ、そっちも続いてんだ」と向日はつまらなそうなそぶりで手を頭の後ろで組むが、表情はどこかほっとしているように見える。
周囲の人間は口に出しては誰も言わないが、らしくない彼女を心配して、安堵して、そしてやはりどこか面白くなさそうでもある。
それは一番自分に対して言えることか。
くく、と忍足が小さく笑うと、向日は「何だよ気持ち悪いな!」と怪訝な顔。

「いや、よかったなぁ思て」
「ホントにそう思ってんのかよ?侑士、すっげー不二に突っかかってたじゃん」
「人聞き悪いなぁ。あれや、障害多い方が燃えるやろ?」
「よく言うぜ。もしかして侑士、のことが好きなのかと思ったぜ!」
「それは俺やない」

聞こえるか聞こえないか、微妙な位の声で最後の一言を呟いた忍足は、さりげなく後ろを振り返る。
あの男はもう帰っただろうか?
まだ教室にいて、外でも眺めているだろうか?
いや、一番有力なのは、生徒会室へ向かう途中の渡り廊下から校門の方を見下ろしている――というところかもしれない。
そんなことを忍足が思っていると、また隣りから「気持ち悪い!」と声が飛んだ。

忍足の予想通り、ちょうど渡り廊下を通り過ぎようとしていた跡部が、何気なく校門の辺りに視線を向けた。
落ち葉の中を駆けていく見慣れた姿を見つけて、ふと、足を止める。
跡部の前後を横切っていく女子生徒が小声ではしゃぎながら彼を見ているが、彼女たちはまさか彼が一人の女子生徒を目で追っているとは思ってもいないのだろう。
ふいと口元を緩める様にきゃあきゃあと喜んでいるくらいだ。

小走りの彼女が、追い越そうとしている友達らしき子に手を振る。
その時に垣間見えた横顔には明るい笑みが浮かんでいて、跡部はやれやれとため息をつく。
世話焼かせやがって。
そんな安堵のため息。

隣りに立つのが自分でなくとも、別にお前が笑っていられるならそれでいい。
かっこつけている訳ではなく、本心からそう思う。
どうせ来年から暫くの間は、物理的にも隣りに立つのは難しくなるだろう。
暫くの間は。

「――まだ俺たちはガキだ」

これからどうなるかなんて分からない。
このまま別々の人生を歩んで二度と重なることはないかもしれない。
もしくは、もっと大人になったら今の距離を縮めることなど造作もないかもしれない。
跡部は、小走りに遠ざかっていくから視線を外し、再び歩き出す。

そして、彼女が校門を抜けるとき、ふいと、後ろを振り返り、二階の渡り廊下を見上げる。
微かに見えたのは、渡り切る直前の、跡部の横顔。

そう――大体、こんな感じだ。
私たちの距離は。

跡部の姿が完全に見えなくなり、はまた歩き出す。
でも、時々だけ、近くなる。
本当に時々。

は、あの駅でのことを思い出す。
跡部が現れたとき 密かに、嬉しいと思ってしまった自分を。

これは、恋じゃない。




不二がいつもの店に入ると、ちょうど彼女が定位置の席に座るところだった。
窓ガラス越しに目が合い不二が小さく手を上げると彼女が控えめに笑って手を振り返す。
普段アイスティーを飲んでいた彼女の前にホットココアがあり、不二はつい珍しそうな目をしてしまった。

「あれ?珍しいね、今日はココアなんだ」
「うん、今日ちょっと寒くない?」
「そうかな?」

首を傾げる不二は椅子に腰を下ろしながら、ひょいと彼女の手を取った。
「そうだね、冷たい」と微笑いその冷たい指を両手で包む。
ほんの少しだけ驚いた表情を見せたもすぐに笑みを浮かべた。

「周助くんの手は温かいね」
「走って来たからね」
「改札からこのお店まで?」
「そう」

数メートルの距離など走ったうちにも入らない。
不二は肩を竦め、は笑う。
その笑顔が、数ヶ月前とほんの僅か、変わっていることに、不二は気付いている。
それはきっと、自分が招いたことなのだ。

けれど、後悔はしていない。
しても仕方がない。
気付かないでいるよりは、たぶん、はっきりと自覚した方がいい。
そうすれば、何とでも対策は取れるだろうから。
お互いに。

不二は握ったままだった彼女の指先に、そっと触れる。
白い指が、ほんの少し赤みを帯びる。

もう、逃げないから。
――逃がさないから。

「――今度さ、ちょっと遠くに出かけよっか」
「遠く?」
「うん……ほら、この前は僕が駄目にしちゃったから。の行きたい所、どこでも付き合うよ」
「本当?」

嬉しそうな彼女。
その僅かな隙間に躊躇いを見せる彼女。
この前のことを思い出したのかもしれない。
不二は彼女の指に絡めた自分の指がほんの少し強ばるのを感じる。

逃がさないから。

不二はゆっくりと微笑を浮かべて頷いた。