discord 8




次の週の水曜日、不二はあの店に行くのを迷った。学校を出る直前まで迷った。

交流試合のあった日、結局不二は彼女と会話らしい会話をせず、帰りも、まるで逃げるように青学の仲間と帰ってしまった。
夜に電話もあったけれど声を聞くのが何となくつらくて、メールを送り返しただけ。
心配そうな彼女の返信メールに、心が痛んで、憎らしくて。
彼女は何も気付いていない。
それはそうだろう、あれは彼女の日常なのだから。
いつもと変わらない行動なのだから。

電車の中で彼女の姿が頭に浮かび、不二はぎゅっと目を強く瞑る。
嫉妬に狂う男なんて、自分がなるとは思っていなかった。
こんなにも、狂うほどに、彼女を奪いたくなるなんて。

奪う?何から?
もう僕は彼女を手に入れてるのに。

不二は目を開ける。
目の前には緩やかに流れて行く見慣れた風景。

手に入れている?
――本当に?

不意に教われる息苦しさに、不二は手すりを掴む手に力を込める。

――――本当に?

いつもの駅で降り、改札を出る。
目の前の店の窓際の席には、既にの姿があった。
頬杖をついてぼんやりとしていたらしい彼女が、不二に気が付いて、ぱっと笑顔になる。
偽りなど、微塵も感じさせない笑顔。
不二も、ほっと息をついて、笑みを浮かべた。

「よかった!今日はもしかしたら来れないんじゃないかなって思ってたの」
「……どうして?」
「うん……この前から何となく具合が悪そうだったから」

大丈夫?と不二の顔を覗き込むように首を傾げる彼女。
大丈夫だよ、と不二が笑って見せると、また明るい、安心したような笑み。

「じゃあ今度の週末は大丈夫?」
「週末?……ああ、うん、大丈夫だよ」
「あっ、今周助くん忘れてたでしょ!」

彼女が頬を膨らませてそう抗議する。
不二はそんなことないよと笑ったけど、実際、ちょっと頭から抜け落ちていた。
週末の約束。
日帰りだけれども、少し遠くまで出かけてみようとほんの少し前から計画を立てていたのだ。
ガイドブックもたくさん持って来たのだと、鞄から何冊も本を取り出す彼女。
この短時間じゃそんなに見れないよ、と不二が肩を竦めると「大丈夫!ポイントには既に付箋貼っておいたから!」と笑う。
自分との旅行を楽しみにして、ガイドブックに付箋を貼る彼女を想像して、不二はつい、口元が緩んだ。

そうだよ。
僕はもう、手に入れてる。

肩を並べて、ガイドブックを眺める。
彼女のチェックしている箇所が食べ物のお店ばかりで、不二は思わず笑ってしまう。
不二のその指摘に、そんなことないよ、と食べ物以外に付箋を貼ってある場所を慌てて探す彼女。
そんなに慌てなくても、とまたその様子が不二の笑いを誘った。
些細な、幸せの時間。
しかしそれは、燻っていた感情で、瞬時に打ち壊されてしまった。

ガイドブックを鞄に仕舞いながら、彼女はその旅行の後、週明けからは進路面談が始まるのだ、と話し始めた。

「でも、進路って言ってもはもう決まってるんだろ?」
「先生と一対一って言うのがもう苦手」

憂鬱そうに宙を見る彼女。
不二が青学の高等部に行くのと同じように、彼女も氷帝の高等部にそのまま上がると信じて疑っていなかった。
だから、疑わないまま、不二は話を続けた。

「高校でも、やっぱりテニス部のマネージャーになるの?」
「え?……ううん……」

何となくはっきりとしない彼女に、不二は、少しだけ嫌な予感がした。
ふと、意地の悪い質問が彼の中に思い浮かぶ。
一瞬それを口にするのを躊躇った。
躊躇ったまま、やめておけばよかったのに――と、後になって思っても遅かった。

「でもさ、あの跡部とか、ほっておかないんじゃない?」
「え……ああ……」

彼女が、視線を泳がせる。
口元に手をやり、迷った風な仕草。
それから微かに苦笑いを浮かべて、口を開いた。

「跡部、氷帝の高等部には行かないの」
「……え?」
「イギリスに戻るんだと思う」

手塚くんもプロになるためにドイツに行くんでしょう?たぶん、それと同じ感じだと思う。
彼女の続けた言葉は、もう殆ど不二の耳には入って来なかった。
代わりに、あの交流試合の前に忍足が言った台詞が蘇って来る。

が、何で英会話スクールに通い始めたか知っとる?

――跡部に、ついて行くため?

気にしない方がいい。
からかっているのか、もしくは、面白くないか。
身内である彼女が、他校の男に取られて。
乾の助言は思い出せなかった。
もう、冷静さを失って、頭の中がぐらぐらとして、目の前が暗くなって――吐き気がした。

「……やっぱり、そう言うことなんだ?」
「え?」
「君はやっぱり、跡部が好きなんだね」

口に出すと、それは一層ずしりと不二の胃に落ちて来て、耐えきれずに椅子から立ち上がる。
何を言っているのか分からないとばかりに目を見開いたまま黙っている彼女。
その様子が、憎らしくて、憎らしくて、どうしようもなくて、むちゃくちゃにしたい衝動にかられる。

「本当に、僕って、滑稽なピエロみたいじゃない?」
「周助くん?どうして――」
「君はずっと、あいつが好きで、イギリスにまでついて行こうとして英会話まで習って――」
「ちょっと待って!そうじゃないよ――」
「それなのに、僕は上っ面の恋人気取りで」
「そうじゃないってば!周助くん、ちゃんと聞いて!私が好きなのは――っ」

彼女が混乱しているのは、不二にも見て分かった。
傷ついたのも、分かった。
しかし、どうしても、抑えきれなかった。

「――もう、いいよ」

彼女が不二の名前を叫んだけれど、振り返らずにそのまま店を出た。





約束の週末が明けた月曜日の放課後。
その日も不二はラケットバッグを持って来ていたけれど、菊丸の誘いにどうしても乗る気分にはなれなかった。
ホームルームを終えてまっすぐ校門へと向かう。
そしてその校門を出ると、いつもと何か雰囲気が違うことに気が付いて――少し離れた所に止まっている黒塗りの車を見つけた。
この辺りでは、いや、この辺りでなくてもそうそう見ないリムジンだ。青学の生徒がちらちらと視線を向けるのも無理はない。
そこから氷帝の制服を着たあの男が降りて来れば、更に多くの視線がその方向へと注がれる。
不二は、それほど驚いていなかった。
何となく、現れるような気もしていた。

「――乗れよ」

気味の悪いほどに、落ち着いた声。
不二が無言で頷くのを確認すると、すぐにまた車内へ消えて行く。
ふう、と一つ深呼吸をした不二もその後に続いた。


あまり広いとは言えない道を、慎重に通り過ぎて行く車。
跡部は暫く窓の外を見たまま無言だった。
不二も同じように口を開く気になれず、窓の外を眺める。

「一つだけ、確認したいことがある」

いくつめかの信号で車が止まった時、ようやく跡部は口を開いた。
顔は窓の外に向けたままだったが。
静かな声だった。
試合の会場などで聞くものとは全くの別人かと思うくらいに。
彼は、これ以上もなく、怒っているのだと、不二は悟る。

「あいつとは、もう会うつもりはねぇんだな」

確認、と言いつつも、その跡部の台詞は有無を言わせない迫力があった。
不二は返事をせずに目を閉じる。
リムジンとはエンジン音も殆ど聞こえないものなのだな、と場違いな感想を抱きながら。

「――満足?」

口に出した途端、不二は自分で負け犬の遠吠えのようだなと自嘲した。
あまりに、醜い。
しかしその醜い嫉妬をどこかにぶつけずにもいられなかった。
隣りから一瞬殺気のようなものを感じ、不二は殴られることを覚悟する。
いや、寧ろ殴られればすっきりするのかもしれない。
だが結局、隣りの男からは小さな舌打ちが返って来るだけだった。

「てめぇは、あいつの何が欲しかったんだ?」

名前を呼ばれて、笑顔を向けられて。
声を聞きたいと思えば電話も出来て。
会いたいと思えば躊躇うことなく会う約束が出来て。
好きだと――真っすぐに目を見て言われて。
それでも満足出来なかったお前は、一体あいつの何が欲しかったのか。
跡部は飽くまで落ち着いた口調のまま、そう問いかけて来た。

「でも、彼女の好きなのは――」
「あいつがそう言ったのかよ」
「言わなくても分かるよ」
「はっ!てめえがそんなに目出たい頭の持ち主だとは思わなかったぜ」

大げさに鼻で笑う跡部に、さすがにむっとして不二は彼を睨む。
そんな彼を可笑しそうに眺めながら、跡部は挑発するかのように足を組み直した。

「知ってるぜ?てめぇの欲しかったのは、俺のいる、この場所だろ?」

違うかよ?と口元に歪めた笑み。
不二はすぐに否定出来ず、拳を握りしめて唾を飲み込んだ。

「てめぇがなりたかったのは、俺なんだろ?」
「……違う!」
「三年間、毎日のように部活で顔つきあわせて。そんだけ一緒にいりゃあ大体お互いの考えてることくらい分かる。なあ?」

すっと目を細める跡部。
そんなんじゃない、と言う不二の反論は聞こうとせず、肘掛けに肘を乗せ体を傾かせて、笑う。

「そりゃあ、随分虫のいい話じゃねーか?てめぇは三年間その関係を築こうとしねぇで」

確かにそれはその通りで、不二も、全くそれを望んでいないとは、正直言い切れなかった。
全国大会の準々決勝。
フェンスの網に掛かった彼女の白い指。
何故だかそれが今頃脳裏をちらつく。

「そんなに欲しいならくれてやるぜ?」
「……え?」
「俺のこの場所なんていくらでもくれてやるよ。その代わりてめぇのその場所を譲るってんならな」

まっすぐに向けられる笑顔。
まっすぐに、いつわりなく告げられる気持ち。
それが得られるなら、三年間で築いて来た関係も捨てられる。
跡部は不二を一瞥し、「冗談だ」と小さく笑って肩を竦めた。

「てめぇが悲劇の主人公よろしくウジウジしてんのは勝手だ」
「――跡部」
「が、そんなナルシシストはあいつにはいらねーよ。他の女を当たってくれ」

車が音もなくゆっくりと停められる。
いつの間にか何処かの住宅街に入っていたようだった。
バクンと低い音と共に、不二の座っていた側のドアが開けられる。
訝しげな顔で外に視線を向ける不二。
その後ろから跡部の声。

「会うか会わねぇかは好きにしろ」

不二が振り返ると、跡部は顎で何処かをさす。
そちらに視線を向けると、「」と言う表札が目に入った。

「ただし、会うんだったら、ちゃんとあいつの話を聞け」
「……跡部、どうして?」
「さあな。自分で考えな」

ほら、さっさと降りな。
そう言う跡部に追い出されるように不二が車を降りると、その大きなリムジンはあっという間に走り去ってしまった。
半ば呆然と車の後ろ姿を見送る不二。
顔を横に向ければ、彼女の家の表札。
もう会わないと思っていた。
会えないと思っていた。

「敵に塩を送られるなんて――情けないな」

僕は、跡部になりたかった?
――そうかもしれない。
でも、もしかして、跡部も僕になりたかった?

白い、白い指。
温かい笑顔。
やっぱり、彼女に会いたい、と思う。

不二は思い切って呼び鈴のボタンを押した。