discord 4




別荘に着いて早々、昼食もそこそこにテニスに誘う兄に、ぶつぶつ文句を言いながらも裕太は大人しく従った。
「ずっと楽しみにしてたんだから相手してあげて」と送り出す姉の笑顔が無駄に意味深に見えたけれど、不二はそれを敢えて無視する。
ここ一二年は別荘に来ても兄弟でテニスをすることは殆どなかった。
テニスどころか、別荘での滞在も殆ど重ならなかったのだが。

「あそこのテニスクラブって、会員じゃなきゃ使えないんじゃなかったっけ?昔何度か行ったことあったけど、確か誰かの紹介だったんじゃ――」
「よく憶えてるね、裕太。うん、そう、今回も会員の子が予約取ってくれたんだ」
「は?会員の子?誰だよ、それ。そいつも来るの?」

この前、偶然氷帝のマネージャーと知り合ったのだ。
そう説明すればいいだけだとは思ったが、不二は敢えて黙って笑みを返すだけで、何も言わないまま裕太をテニスクラブへ連れて行った。
受付で教えられたコートへ向かうと、脇のベンチに腰を下ろしてシューズの紐を結んでいる彼女の姿が目に入る。
たった二日。
ほんの二日前に会ったばかりなのに、不二は数十年ぶりにようやく会えたような気がして、口元が綻ぶのを堪えきれなかった。
一方、裕太の方は、遠目にその姿を目にして「女?」などと怪訝な顔。
そして彼女が顔を上げ、その姿がはっきりすると更に当惑した表情をした。

「あ、来た来た」

にこにこ笑って手を振る彼女。
つられるように不二も目を細めて軽く手を振った。
その隣りでは相変わらずの当惑顔の裕太。

「ごめん、待たせちゃったかな」
「ううん、私も今来たとこだよ。ええと――」

笑顔のまま、彼女は裕太の方に向き直る。
裕太の方は探るような困ったような顔で彼女と不二を交互に見た。

「裕太くん、だよね。初めまして」
「初めまして……じゃないですよね?」
「えっ?」

にっこり細めた彼女の目が、ぱちりと大きく開く。
不二も弟の意外な言葉に、彼女と一緒になって「え?」と声を上げた。
そんな二人の反応に、更に当惑顔を深める裕太。

「ええと……確か、氷帝のマネージャーですよね?都大会のコンソレーションの時見た気がしたんですけど」
「すごい!よく憶えてるね」
「はあ、いや、何となく」

嬉しそうな彼女の笑みに、裕太は視線を反らして口を尖らせながらもほんの少し顔を赤らめた。
何となく。
何となく他校のマネージャーのことなど憶えているものなのだろうか。
対戦した選手でさえ、下手すると印象に残ることは難しい。
それなのに、表に出て来ない――ましてや彼女は決して目立った行動は取らないだろうに――「その他大勢」のような存在が記憶に残ることがあるのか?
沸き上がって来るそんな疑問を何とか自分の奥底に押し込め、不二は口元に笑みを作る。

「そう。都大会は来なくていいって言われてたんだけど、急遽私にも呼び出しが掛かったの。って言っても大会の当日なんて大してやることもないのよ。ビデオやスコア表は下の子がとるし」

それは、特に作業はなくても彼女の「役割」と言うものがあると言うことなんだろう。
その役割が、テニス部全体に対するものなのか、それとも特定の人間に対するものなのか。

「確かに、他にもマネージャーっぽい人たちはいましたけど、一番目立ってた気がします」
「ええっ?私、あの子たちの中では一番地味だと自負してるのに!」

口を尖らせる彼女に、裕太は反射的に「すいません」と謝ったが、その直後それが謝ることなのか今いち納得いかず首を捻った。
その様子が可笑しくて不二は笑ってしまうが、何となく笑いきれない。
目立っていた。
確かに、彼女の見た目は他の子に比べれば全然派手な方じゃない。
けれど、誰よりも目立って見えた。
つまりは、自分のように彼女を印象に止める人間は少なからずいると言うことなのか。
複雑な気分で黙ったままの不二の横で、裕太は「何となく存在感があったって言うか……」と言い直すが、「それって威張って見えたってこと?」と彼女の頬を更に膨らませる結果になってしまった。
そしてまたすぐ「すいません」と誤り、直後に納得いかない眉間の皺。
それを見て、彼女はぷっと吹き出した。

「ごめんごめん。ほんとに裕太くんってからかい甲斐……じゃない、可愛がり甲斐があるんだね」
「はぁ!?何ですか、それ!からかったんですか!」

そんな反応もからかわれる原因になるとも気付かず、裕太は声を裏返した。
今度は裕太の方が口をへの字に曲げ、彼女の方が「ごめんって」と何度も繰り返す。
その様を見た不二は、思わず苦笑い。
やっぱり裕太には敵わない。

「さ、じゃあ、テニスしよっか」
「ちょっと、いきなり話を逸らさないで下さいよ!」
「でもテニスするでしょ?」
「しますけど!」

すっかり彼女のペースに流された裕太は、笑ったり怒ったりと忙しそうだったがどことなく楽しそうだった。
思った以上に対等にテニスが出来たと言うのも理由の一つかもしれない。
趣味の範囲とは言え、小さい頃からやっていたと言うだけあって、彼女のテニスは下手なテニス部員なんかよりも全然上手かった。
上手い、と言うよりは面白い、と表現した方が適切なのかもしれない。
部活やスクールなどではなく飽くまで遊びとしてやっていてあまり型やルールに縛られないせいなのか、それとも、身近でずっとレベルの高いプレイを見て来たせいなのか、思いもかけないコースに打って来たり、ショットを決めたりした。
そうかと思えば突拍子もないタイミングでホームランを打ったりする。

「氷帝ってマネージャの条件にテニスが出来ることとかあるの?」

休憩中、思わず聞いてしまった不二の言葉に、「そんなのないよ」とは声を出して笑った。
「これだけ出来るんならプレーヤーの方がよかったんじゃないですか?」と言う裕太に不二も同意見だ。
氷帝の女子テニス部がどの程度なのかはよく知らないが、もったいない気がする。
が、彼女は「とんでもない」と大げさなくらいに首を横に振った。

「自分のテニスには小学校低学年で早々に見切りを付けたんだ」
「それ、早くないですか……」
「いいの。私、自分一人でテニスするより、皆で全国行きたいって思ったの」

ふふ、と小さく笑ってベンチに腰掛け、空を見上げる彼女。
吹き抜けて行く風に気持ち良さそうに目を細めて、汗を拭う。
何気ない仕草。何気ない表情。
そんなものを見せている彼女の頭に今浮かんでいるのは、想像するまでもなく、あの、一緒に全国まで行った彼らだろう。
「よく分かんないすけど」と言う言葉そのままに、納得いかなそうに口を曲げつつ隣りに座る裕太。
不二はその脇に立ったままタオルで汗を拭ったが、自然とその手に力が入るのを自覚していた。
嫉妬しても仕方のないことで、考えてもどうしようもないことで、むしろ、そう言う彼女だからこそ今自分は欲しいと思っているのだと分かっているのに、どうしても、思わずにはいられない。
一緒に全国へ行って、一緒に喜んだり、一緒に泣いたりするのが、何故自分じゃなかったのか。




「なんか、あの人、印象違ったな」

テニスクラブからの帰り、彼女と別れた後、裕太は独り言のようにそう言った。
不二もついこの前カフェで会った時に、同じように印象の違いに戸惑いを覚えたはずだが、敢えて「そう?」などと返してみる。

「最初はどんな印象だったの?」
「いや、都大会の時なんてチラッと見ただけだしさ、悔しいけど、コンソレーションなんてあっという間に終わっちゃったし、印象って程の印象もないんだけどさ……なんか、もっと怖い感じがした」

そんなこと言ったらまた怒られそうだけどさ。
そう言って裕太は苦笑い。

「なんて言うかさ、俺たちにとっての氷帝って――少なくとも俺にとっての氷帝って、圧倒的なイメージでさ。何だろうな、青学にも負けたんだけど、またちょっとイメージが違うんだよな。たぶん、その氷帝のイメージとあの人のイメージがだぶってたんだろうな。でも、今日とか、すごいよく笑うしさ、普通なんだなぁって思った」
「そんなこと言ったら、それこそ怒られそうだね」
「だよな」

案外、あの跡部さんとか芥川さんも普通なのかなぁ。
ラケットバッグを背負い直しながら、裕太はまた独り言のような台詞。

都大会では、裕太は完膚なきまでに芥川に敗北した。
もがく余裕もないうちに、あっという間に。
そして彼が尊敬している観月もまた、跡部に完敗した。
こちらも、観月が付け入る隙を寸分も与えずに。屈辱的なほどに。
ルドルフが彼らを「圧倒的」と評するのも理解出来る。
けど、案外彼らが普通かもしれない、と言う意見には同意しかねるが。
不二もラケットバッグの位置を直す。

結局今日、不二は跡部のことを彼女に聞かなかった。
裕太と彼女との会話には何度か跡部の名前は出て来たけれど、その中に不二自身が入って行くことはなかった。
この前、跡部と会ったのか。会ってどんな話をしたのか。
会いに来た時――は嬉しいと、思ったのか。
気にならないと言えば嘘になる。
それどころか、二日前に跡部と偶然会ってから、そのことばかりが頭の中を巡っていた。

さん、明後日には東京に戻っちゃうんだろ?もう一回くらい一緒にテニスしたかったな」
「――そうだね」

嬉しかった、と言われたらどうしよう?
そう考えると少し怖かった、と言うのもあった。
それは、不二自身が落胆することが――ではなく。

「でも、そんな遠くに住んでる訳じゃないんだから、戻ってからでも出来るよ」

不二はそんな自分の台詞に白々しさを感じながら、裕太に笑いかけた。
確かに、やろうと思えば出来ることだろう。
けどやはり、この軽井沢でやるのとはきっと違う。
東京に戻れば、どうしても彼女には「氷帝」と言う二文字がついて来るような気がする。
ついさっきまで惜しげもなく見せていた笑顔も消えてなくなってしまうかもしれない。
馬鹿馬鹿しい錯覚だと不二自身も分かっていたけれど、どうしてもその感覚を拭えなかった。

「そうだよな」

けれど裕太は兄のその言葉を素直に信じて、嬉しそうに笑った。
ああ――やっぱり裕太には適わないな。
不二もそんな弟につられるように、笑みを零す。

くどくど考えていても仕方がない。
考えている暇もない。
そう――向こうに戻ってからが、本番なのだ。

「じゃあ、その時また裕太とテニスが出来るね」
「ええっ?……まあ、いいけどよ」

眉間に皺を寄せて頬を掻く弟の横顔に不二はくすくすと笑いながら、決意を込めるようにラケットバッグの取手をぐっと握り直した。