discord 7




手塚から交流試合の話があったのは、長かった残暑も和らぎ始めた頃だった。関東近辺の引退組、つまりは中学三年だけで体がなまらないように試合をしよう、と言うことらしい。
提案者の跡部の体がなまるとは凡そ想像もつかないが、たまにはそう言う刺激があってもいいと言うことなのだろう。
菊丸あたりは彼を「お祭り好き」と評し、確かにそう言う面は否定出来ないが、こう言う話は正直テニスを続ける人間にはありがたかった。
もちろん引退後も部活に顔を出したりスクールに通ったりと各々練習は続けているだろうが、これからも顔を合わせるだろうライバルたちと試合が出来るというのは、確かに、いい刺激になる。

「有志ということだから、もちろん強制はしない」
「行くよ。手塚も行くんだろ?」

氷帝の連中って苦手なんだよな、とこぼしつつ菊丸も参加。
乾もせっかくデータを取れるチャンスを無駄にするはずはなく。
大石は受験勉強の息抜きに――と一度は参加表明したのだが、その日は生憎模試であることが分かり泣く泣く断念。
河村はもう高校ではテニスをしないからと初め躊躇していたが、父親に相談したら快く送り出してくれた。




その日の夜、ほぼ日課になっているとの電話で、不二はその話題を持ち出すと、当然と言うべきか彼女は既にその話を知っていた。
色々準備を手伝っていたのだと打ち明ける彼女に、つい、不二はなじるように言ってしまう。

「教えてくれればよかったのに」
「隠してるって訳じゃなかったんだけど、ごめんね」

素直に謝る彼女。
もしかして、跡部に口止めされていたのだろうか。
そしてそれを守っていたのだろうか。
ふとそんな考えが頭をよぎったけれど、不二はすぐにそれを奥底へと押し込めた。

も来るの?」
「うーん、当日は別に来なくてもいいって言われてるの。でも関東の強豪が集まる滅多にないチャンスでしょ?ちょっと迷ってるんだ」
「僕が出るからって言うのは迷う理由にはならないんだ?」
「もちろん周助くんのテニスも見たいよ!……いじわるだなぁ」
「ごめん、ごめん。でもさ、『別に』って言うことは、来てもいいってことなんでしょ?来ればいいよ」

不二は電話の向こうで口を尖らせているであろう彼女に小さく笑い、そう提案した。
単純に、彼女と会う機会を潰したくなかったからだ。
しかし、そう言う場に「氷帝の元マネージャー」である彼女が来ると言うことがどう言うことなのか、その時の不二は理解しているようで、理解していなかった。

「周助くんがそう言ってくれるなら、行こうかな」

ほんの少し迷った声色でそう言った彼女の方が、漠然とでも、分かっていたのかもしれない。
後になって、不二は思う。



それは手塚から話のあった次の週の日曜に、跡部の家が所有するテニスクラブで行われた。
完璧なほどに手入れされたコートに、充実した施設。
それらがほぼ貸し切りと言うことで青学を初めそこに集まった人間の殆どは最初のうちポカンとしていたが、さすがに氷帝の生徒は勝手知ったると言う感じで慣れたものだった。恐らくここにもよく来るのだろう。
ロッカールームで着替えを済ませた不二は、コートに移動し周囲を見渡す。
準備運動をしたり、軽く打ち合いを開始する者たちの姿。
彼女はまだ見当たらなかった。

「――ちょっと遅れるらしいで」

その時、背後から不二を見透かしたような台詞。
独特な関西弁、振り返って確認するまでもなかった。

「さっき連絡入ったみたいやで。なんや、バスが渋滞で動かへんとか何とか」
「……そう」
「まあそうがっかりした顔せんといて。俺で良かったら相手したるけど」

別にがっかりした顔などしていない。
そう反論するのは簡単だったが、そうすると更に目の前の忍足を面白がらせるだけのような気がして、不二は「嬉しい申し出だけど、僕はこれから準備運動するから」とにっこり笑うだけにしておいた。
忍足は「さよか?」とおどけるように肩をすぼめて見せる。

「けど、おらん方がええと思うけどな」
「……どういう意味?」
「いや、別に」

ふいと視線を宙に彷徨わせて眼鏡を指でくいと上げる。
からかっているのは明らかで、不二はふうと息を吐き出し、準備運動を始めるべくラケットを傍のベンチに立てかけた。

「あのマクドで会うた時はどうなるかと思たけど、何とかなるもんやなぁ」
「――向こうで跡部が睨んでるよ」

腕を伸ばすストレッチをしながら、不二はコートの向こう側にいる跡部へと顔を向ける。
実際に彼は忍足の方を睨んでいて、彼と目が合うとこっちに来いと顎で合図した。
「ただの交流戦なんやから、ちょっとぐらい無駄話してもええやん、なあ?」と懲りる様子なく忍足は不満げだ。
しかし今度は「侑士何してんだよ」と向日も現れ、会話を続けるのは――一方的で会話と言っていいものか甚だ怪しいが――断念せざるを得なくなった。

「――あぁ」

そして去り際、何かを思い出したように立ち止まる。
不二が気にせず準備運動をしていると、忍足の方も気にせず続けて来た。

とは、よお水曜に会うんやろ?あいつのレッスンの時。あいつ、水曜は一目散に帰るんで有名やから」

レッスンが始まる前に、ほんの少しだけ会う、と言うのは確かにずっと続いている習慣だった。
その時間が少しでも長くなるようにと、不二だって水曜はホームルームが終わるとすぐにあの駅へと向かう。
それが何か?と無言のまま不二が顔を上げると、忍足は一瞬だけ笑った。

が何で英会話スクールなんて行き始めたか知っとる?」
「――え?」
「知らんかったら、ええわ」

思わせぶりな台詞だけを残して、忍足はコートの向こう側へと歩いて行く。
隣りの向日が「侑士、何言ってんだよ?」と怪訝な顔をしても「ええねん」と言うだけで答えない。
彼女が英会話スクールに通う理由。
不二は特に考えたこともなかった。
単純に将来のことを思ってだろう、と漠然とは考えていたが。
忍足がわざわざあんな意味深な表情をする程の、何か特別な理由があるとでも?
もちろん、そこで不二の頭に浮かんで来たのは――今、忍足を睨みつけて何か話している、あの男だ。

「不二、どうかしたか?」

いつの間にか、不二の隣りに乾と菊丸が立っていた。
乾の方はいつもと変わらない無表情で眼鏡を押し上げるだけだったが、菊丸の方が「すっごい怖い顔して跡部の方睨んでたにゃ」とおどけるように言う。
不二自身、自覚はしていなかったが、確かに、そうかもしれない。
「すっごい怖い顔」かどうかは別として。
動揺を悟られないように、不二は「気のせいだよ」と微笑って見せる。
菊丸は「そう?」と言って素直に信じ、不二に並んで準備運動を始めたが、乾は少し首を傾げて黙ったまま。

「――あまり、気にしない方がいい」
「え?」
「たぶん、あいつらの言うことに深い意味はない。からかってるだけだろう」

もしくは、面白くない、か。
そう言って、乾は持っていたノートとラケットをベンチの上に置く。
不二は思わず目を見開いて乾を見上げた。
けれど、彼はもうそれ以上何かを言うつもりはないらしく、菊丸と組んでストレッチを始めた。

不二は彼女とのことを誰かに話したことはない。
「彼女の存在」を匂わしたことはあるし、否定したことはないが、それがあのだと言うことは、青学の誰かに打ち明けたことはない。
しかし、今の乾の台詞は、それを知っているかのようだった。
いや、今の不二の態度で確信した、と言うことなのかもしれない。
中一からずっと同じ部活を共にして来たのだ、不二が試合会場などで彼女を見ていたことに気付いていてもおかしくない。
この乾なのだから。

「……君には敵わないな」

そう言って笑うことで、乾の予想を肯定する。
何のことだ?とでも言いたげに首を横に傾ける彼がほんの少し小憎らしかった。

「さっきの話、聞いてたの?」
「いや、さすがに聞こえなかったが、何となく遠目で見て、忍足が挑発的に感じたからな。せっかくのポーカーフェイスが台無しだった」
「君の人間観察力には恐れ入るよ」
「あれで不穏な空気を感じないのは菊丸くらいだ」
「何か言ったー?」
「変な所だけ地獄耳だな」

自分の悪口には敏感なのだと自慢げに話す菊丸に、悪口ではなくて褒めていたのだと、しれっと言い返す乾。
そんな訳ないと追求しようとした菊丸の背中を、乾はぐいぐいと押し始めた。
容赦ないその力に流石の菊丸も「いたいいたい!」と抗議するが、更に乾は力を込める。飄々とした顔で。
そんな二人の様子を隣りで見て、不二はほっとしたように笑った。
乾の言うとおりだ。気にしない方がいい。
ラケットを手に取り、不二は心の中で呟く。



彼女が現れたのは、大体どのコートでも3ゲームほど終わった頃だった。
走って来た彼女は氷帝の生徒が集まっている場所へとまっすぐに向かう。
謝っているらしき彼女の頭を、芥川がよしよしと撫でていた。
そしてきょろきょろと辺りを見渡した彼女は、コートを挟んだ反対側に立っていた不二を見つけて、小さく手を振る。
不二も小さく手を振り返すと、隣りに立っていた河村が「えっ、どうかしたの?」とびっくりした顔をした。
「ううん、何でもないよ」とだけ言って微笑う不二。
微かな、優越感に似た気持ち。
彼女の隣りでは、芥川は不二のことに気付いた様子だったが、欠伸をするだけだった。
その隣りにいた宍戸は、彼女が不二の方を見たことにも、手を振ったことにも気付いていない様子だ。
不二は、そっと、息をつく。
跡部はその時、真田との対戦でコートの中にいた。
彼のサービスで、ライン際でボールをついている。
そしてそれを止めた時、ちらりとだけ、の方に視線を向けた。
同じタイミングで、彼女の方も、跡部に視線を向ける。

「うわっ、ノータッチエース!」

高く掲げ、相手コートに打ち込んだ跡部のボールは、真田のラケットに触れることなくフェンスに打ち付けられた。

「おいおい、引退してモウロクしたか?真田」
「……たわけ!」

視線を交わしたのは本当に一瞬で、その後試合が終わるまで、跡部とは全く互いを見なかった。
実際に「交わした」のかも怪しい。
けれど、不二の心の中が、やたらとざわついて来る。

不二が自分の出番でジャージを脱いでコートへと入る時、見るとはなしに、さっき目の前で試合をしていた忍足と向日がからタオルを受け取る光景が目に入って来た。
今までにも見たことのある光景。
不二は気にすることなく、ボールをポケットに詰める。
気が付くと、隣りのコートでも跡部たちの試合が終わっていた。
跡部がネット前で手を差し出しながら何かを言ったのか、真田は「口の減らん男だ」と渋面を作って握手をしている。

「お待たせいたしました」

そうこうしている内に対戦相手の柳生もコートに入り、試合前の軽い練習が開始される。
ゲームに集中しなきゃいけない。
不二はそう思いながらボールを打ち返すが、どうしても、彼らが視界の端に入ってしまう。

忍足と向日の二人と何かを――恐らくたった今行われていた試合のことだろう――話している
そこに試合を終えた跡部が近づいて行き、手を差し出した。
いつもは樺地がその役割を担っているのだろう、彼がいない場合でも、他のマネージャーが手渡しているのかもしれない。
は、暫く手を突き出したままの跡部に、ああ、と思い出したように近くに置いてあったタオルを彼に手渡した。
気の利かない奴だ、とでも言われているのか、はこの前電話していた時に見せたような面倒くさそうな顔をする。
そしてその顔のまま、今度はドリンクを手渡した。
芥川がはしゃぐ前で、跡部は汗を拭ったタオルを無造作に突き返し、もそれを無造作に受け取る。
傍のベンチに腰を下ろす跡部について来たのは芥川だけで、彼女は既に忍足や向日との会話を再開させていた。

ドリンクを飲みながら、芥川と何かを話している跡部。
次の試合に向かう宍戸に声をかけたが、恐らく憎まれ口でも叩いたのだろう、宍戸が顔を顰めている。
目の前で試合が開始されれば、もう「部長」の顔だ。
ベンチに足をかけ片膝をついてお世辞にも行儀のいいとは言えない格好で、しかし真剣な目で宍戸のプレイを観察する。
たちも宍戸の試合が始まると会話はやめてコートの方を向いていた。
しかし、跡部のいるベンチには近づかなかった。
そう――いつも、これくらいの距離だ。
そして、時々、本当に時々、ふいと互いに見合うのだ。

ゲームに集中しなきゃいけない。
不二はなるべくコートの奥を見ないようにする。
けれど、どうしても、跡部の座るベンチに視線が向かって――彼が、一瞬、誰にも気付かれない程度の短い時間、を見たのに気が付いた。
そしてそれに呼応するように、彼女も、跡部の方に視線を向けた気がした。



「どうしたんだ?不二らしくなかったよ」

試合を終えて戻って来た不二に、心配そうに声をかける河村。
隣りに立つ手塚は何も言わなかった。
言われるまでもない、試合結果だけを見ればそれほどでもないけれど、酷い試合内容だった。

「――ちょっと、走って来るよ」

自分がこんなに駄目な人間だとは思わなかった。
いつでも冷静でいられると思っていた。
会えるだけでもいいと、思っていたのに。

ジャージを羽織ってコートを離れる不二。
どことなく心配そうな目をしてこちらを見ている彼女の姿が目に入る。
けれど、不二はそれに気付かないふりをして、走り出した。