discord 6




夏休みが終わって三年の部活動出席が必須がなくなった後も、元レギュラー部員は毎週のように顔を出していた。
不二も例外ではなく、ほぼ毎日殆ど癖のようにラケットバッグを持って行き、菊丸に誘われると断ることなく部活に行く。
高校でもテニスは続けるつもりだったので、部活に行かない日でも、昔からお世話になっているテニスクラブで打ったりした。
そんなテニス浸けの代わり映えのしない放課後の習慣が、毎週水曜日だけ変わった。
彼女が、不二の帰り道に通る駅のすぐ近くにある英会話スクールに通い始めたからだ。


「英会話なら、イギリス帰りの跡部とかが教えてくれそうじゃない?」


彼女から電話でその話を聞いたとき――あのマックで会った日から、不二の方から何度か彼女に電話を掛けていた――探りを入れるように、しかし冗談めかしてそう不二が言うと「とんでもない!」と怒ったような彼女の声が即座に返って来た。


「跡部に勉強を教えて貰うって、すごく、自分を試されるのよ」
「試される?」
「主に忍耐力ね。一分に一回くらいの割合で嫌味を挟んで来るから」


それは、好きな子をいじめるって言う心境と同じなのかな、と想像しつつ、そんな跡部を容易に想像出来て笑った。
そしてその後、それはつまり一度は彼に勉強を教えて貰ったことがあるのだな、と気が付いて、笑いが引いた。
同じ部活で三年間活動していれば、もちろんそう言う経験の一つや二つあるだろう。
いちいちそんなことに焼きもちを焼いていたら切りがない。
そう分かっていながらも、どうしても、その一つ一つを自分との経験で上書きすることは出来ないだろうか、などと考えてしまう。




次の水曜日の放課後、たまたま不二を部活へ誘う人間もいなくて。
電車に乗って、その英会話スクールのある駅で、殆ど意識しないままに降りた。
今頃もうスクールで勉強しているのかな、と思いながら改札を出る。
そして何気なく目の前にあるコーヒー店に視線を移すと、窓際のカウンター席に、彼女の姿。
一瞬人違いかと思い――そんな幻を見てしまうなんて相当な重傷だなと自嘲しながら――思わず立ち止まる不二。
視線を感じたのだろうか、窓越しの彼女はいじっていた携帯から顔を上げて、目を大きく見開いた。
そして次の瞬間にはあの笑顔で、小さく手を振る。
不二が迷うことなく店内に入り、窓際のその席まで行くと、彼女は「びっくりした!」とやはり笑顔のまま言った。


「まさか不二くんに会えるとは思わなかったよ!」
「言っただろ?この駅、通学途中にあるんだ」


さも普通のことのように不二はそう言ったけれど、飽くまで途中にあるだけで、本当は今まで殆ど降りたこともない駅だ。
もしかしたら君に会えるんじゃないかと思って。
そう言ったら目の前の彼女はどういう反応をするのだろうか。
そんなことを思いながら、不二は彼女が自分の荷物をどけてくれた椅子に腰掛けた。


さんは、これからレッスン?」
「うん。でもレッスンまでちょっと時間があるから、いつもここで時間潰してるの」


当然のことながら学校帰りの彼女は制服姿。
ジャージ姿はもちろん今まで何度も見ていて、私服姿も夏休み中に見たことがあって、その時は服装について特別な感慨も抱かなかったが、今のその上品そうな氷帝の制服はよく似合っていて、不二はほんの少しだけ緊張する。


「時間潰しに付き合ってもいい?」
「うん、もちろん」


大きく頷いた彼女は、顔を上げてふふ、と小さく笑った。
不二が首を傾げると「何か不思議だなぁって思って」とまた微笑う。


「この前まで部活の大会とかで年に数回しか会ったことなかったのに、夏休みの後半からは会うことが多いなって思って。ほんの少し前までは学ラン姿の不二くんに会うことなんて想像もしなかったよ」
「うん……僕もだよ」


こんなにも、君に会いたいと思うようになるなんて思わなかった。
――予感は、あったけれど。
心の中でそんなことを呟き、不二が「氷帝の制服、似合ってるね」と言って笑うと彼女も「不二くんもかっこいいよ」とほんの少しだけ顔を赤らめた。


レッスンが始まるまでの約三十分。
どちらが言い出した訳でもなく、約束した訳でもなく、不二は彼女と毎週そこで会うようになった。
お店が満席だったり、他に用事がある時は彼女からメールがあった。
お店に入れなかった場合は大概その数軒隣りの本屋にいたので、そこで会うこともあった。
不二も、どうしても行けない時は彼女にメールをした。
他愛ない話をしてあっという間に過ぎてしまう三十分。


「実際のところ、どうなの?」


部活中、下級生とのラリーを終えてベンチ脇で汗を拭っていると、いきなり菊丸がそんなことを聞いて来た。
顔を上げると少し離れた所に立つ桃城と目が合って、慌てて逸らされた。
今日は試験勉強で忙しい大石も顔を出している。
その彼もすぐ傍にいて目が合ったけれど、これまた同様にわざとらしく逸らされた。
どうやら、菊丸が彼らを代表して何かを聞きに来たらしい。
しかし何のことだか分からない不二は素直に「何のこと?」と聞き返した。


「またまた〜。そんなとぼけちゃって!最近不二、すっごい機嫌いいじゃん」
「……そう?」
「部活引退して彼女が出来たんじゃないかって、皆噂してるよ!」


皆、とはつまり彼の後ろにいるその数名のことだろう。
不二はやれやれとため息を吐き出し、タオルを置いた。
そんなに機嫌良さそうな顔をしていただろうか?


「ほら、水曜はいっつもすぐ帰っちゃうじゃん?だから学外に水曜だけ会う彼女がいるんじゃないかって言ってるんだけど、実際のところどうなの?」
「さあ……どうだろう」


思わせぶりにそんな返事をしたけれど、正直不二自身も正しい答えが分からない。
確かに「彼女」ではない。
でも、いつも同じ場所で会って、毎週のように電話をする。
「怪しい」「怪しい」と騒ぐ菊丸。気が付くとそこに桃城まで加わって、無理やり大石も巻き込んだところで、海堂の痛い視線が刺さり始めた。


「ほら、海堂に怒鳴られないうちに練習再開しないと」
「ねー、どこどこ?どこの生徒?」


追求をやめようとしない菊丸から逃れるように、不二は奥のコートへ向かう。
彼女は一体どう思っているんだろうか。
その答えから逃れるように、ボールを手に取る。


彼女が欲しい。


ボールを空へ投げ、ラケットを振り下ろす。
無心になる一瞬前、不意に、そんな思いが沸き上がって来た。
その気持ちは、あの夏から変わっていない。
激しい渇きに不二は体を震わせる。
一度それを自覚すると、不二はどうしようもなく彼女に会いたくてたまらなくなって。
部活が終わると不二は一人さっさと着替えを済ませて学校を後にした。


毎週会う駅で思わず降りる。
もちろん、今日は水曜ではないのでいつものお店には彼女の姿はない。
鞄から携帯を取り出す時はほんの少し躊躇した。
けれど、彼女の番号に掛ける時は躊躇いがなかった。


「不二くん?どうしたの?」


いつも通りの彼女の声がすぐに聞こえて来てほっとした。
けれど、同時に無償に憎らしくもなる。
今駅のホームなのだと言う彼女の背後からは、暫くするとアナウンスの声が聞こえて来た。


「――声が、聞きたくなったんだ」


素直に不二がそう打ち明けると、「ええっ?私の?」と彼女の素っ頓狂な声が返って来る。
そしてまた、ホームのアナウンス。


「不二くん、今、どこにいるの?」
「え?」
「私ね、今S駅から電車に乗って帰るところなんだけど――」


携帯越しの声じゃなくて、実際の生の声聞くなんてどうかな。
思いもかけない提案に、不二は言葉がすぐに出て来なかった。
すると慌てたような彼女の声。


「あ、えっと、ごめんね!駄目ならいいの!それじゃ、私、電車に乗っちゃうから、また電話するね」


そう言って彼女の電話を切ろうとする気配に、不二は慌てて叫ぶように、今いる駅の名前を言った。


「……ホームで待ってるから」
「うん」


短い返事で彼女との通話が切れ、不二は深呼吸を一回だけしてからホームへ上がる階段へと向かった。
恐らく彼女のいた駅からここまでなら、そんなに掛からない。
気持ちを落ち着かせようと、ゆっくりと階段を昇る。
これから彼女に会えると思うと、気持ちが浮ついてしまう。
つい数日前に同じこの駅の近くで会ったばかりなのに、滑稽なほどに、舞い上がる。


「――重症、だな」


ホームに立ち、心の中で呟く。
口元が緩むのを、苦笑で隠した。
電光掲示板に表示された電車の時刻を確認し、次の次に来る電車だろうか、と予測をつけ。
こんな所にそわそわ立っていても早く来る訳じゃないのだからと自分に言い聞かせて、近くにあったベンチに腰を下ろす。
文庫本を取り出した時、ふと思い出した菊丸の台詞。
このところ、機嫌がいい――か。
さっきはそんなことないって思ったけど、確かにそうかもしれない。
彼女の方から会おうと言ってくれた。
そんなことだけで、こんなに嬉しくなるんだから。


「不二くん!」


そして、名前を呼ばれるだけで、胸が痛いようなくすぐったいような感覚になる。
電車がホームに入って来て止まった後も不二はじっと座っていたが、扉が開き彼女の声が聞こえた途端弾けるようにベンチから立ち上がった。


「やあ……ごめんね。急に呼び出しちゃって」
「やだな、不二くん。私が先に会いたいって言ったんだよ?」


さらり、とそう言って明るく笑う
どうして、そんなことが言えてしまうんだろう。
愛おしくて――憎らしくて、彼女の髪を撫でるように、軽く引っ張った。

「でも、絶対、僕の方が先に、君に会いたいって思った」


僕の方がたくさん、君に会いたいって思った。
名残惜しく彼女の髪から手を離そうとしたとき、彼女の手が不二の指に触れた。


「そうかな――そんなことないよ。私も、たくさん会いたいって、思ったから」


彼女の笑みが、ほんの少しだけはにかんだものに変わる。
自惚れても、いいのだろうか。
一瞬、あの男の姿が頭をよぎる。
そして、あの電話の時の彼女の姿も。
不二は自分の指に触れていた彼女の手を、強く握った。